第125話
刹那の空間。
精神の異常なまでの集中と過剰分泌される脳内物質により、周囲の時間の流れがスローに感じる。だがそれでも尚、凄まじい勢いで迷宮の天井から放たれた俺と怪物槍がハグレと接触するまでの時間は、極僅か。
まるで夢現の如く切り取られ、引き伸ばされた時間間隔の中。俺は噛み締め過ぎた咬合力により、其れだけは何故か明瞭に知覚できる奥歯がゴリゴリと削られる感触を味わいながら、穂先の角度を力任せに微調整してゆく。
その狙いは、奴の頭部・・と言いたいところだが、動きが大きく的の小さい頭部は元より眼中に無い。乾坤一擲。黒鋼の刃で喰らい付く部位は、既に決めてある。俺が狙いを定めたのは、奴の身体の中心線と何本かのひと際長い脚からその付け根へと結ばれる線が交差するポイント。人体で例えるところの心臓の真裏辺りだろうか。奴の何処となく地球の昆虫ぽい見た目から、最も太い神経節が在りそうな箇所へと持てる全てを叩き込む。
俺は標的である外殻のど真ん中に刻まれた打痕、恐らくは先刻斃れた討伐隊の魔法によって穿たれた傷へと穂先を導き、そして。
一瞬、走った抗う感触の後。俺の腕には、槍の穂先が奴の外殻を突き破る感触が確かに伝わってきた。だが次の瞬間。
ズギャンッ
握り込んだ槍のハンドルが瞬時にへし折れる感触。同時に俺の全身に凄まじい衝撃が襲い掛かり、直前まで明瞭だった視界全てが、まるでミキサーか超高速の遠心分離機でブン回されたかのようにグチャグチャになって弾け飛んだ。
「くうおおぉぉっ!」
左右も前後も上下も糞も無い。平衡感覚が瞬時に消し飛び、目に入るあらゆるモノが高速で吹っ飛ぶ。俺は唯己の本能と経験に縋って、干し草で固めた右肩からの着地と受け身を試みる。その経験とは、あの茸岩でリハビリを始めた時に何度も墜落して嫌という程味わった激痛と、必死で磨いた受け身の技術だ。
「がああっ!」
直後、恐らくは右肩に激しい衝撃。次いで何処とも知れぬ固い壁に無我夢中で腕と半身を叩き付け、更に全身を回転させて衝撃を逃がす。頭で考えていては到底間に合わない。積み重ねた鍛錬による反射と本能が、思考を置き去りにして肉体を駆る。
ザザザザザッ バァンッ
「げふうっ」
体感では随分と長く感じたが、恐らくはホンの瞬く間の出来事だっただろう。激流の只中の羽毛のように翻弄された俺の身体は、背中への衝撃と共に漸くその動きを止めた。目に映る全てがチカチカチカと明滅する光で埋め尽くされ、全身を痺れが奔る。衝撃により肺から空気が叩き出されたせいで、呼吸すら儘ならない。
だが、それでも俺は間髪入れずに跳ね起きた。未だ視界も平衡感覚もグチャグチャだが、意識は辛うじて繋ぎ止めている。それに、俺がどんな状態だろうが奴が忖度なんてしてくれる訳がねえ。もし、致命的な隙を晒したまま奴の攻撃が来たら、俺はあっと言う間にあの世行きだ。呑気に寝転がってる場合じゃねえ。
「げえっ がふっ 奴は!?」
俺は口内に溢れた鉄錆の味がする液体をベッと吐き出すと、即座に見失った奴の姿を追う。脳内麻薬がドバドバお漏らしされているせいか、気が昂って俺自身のコンディションは全く気にならない。否、気にしている場合じゃない。
だが慌てて探すまでも無く、俺は奴の姿をすぐ目と鼻の先に見出す事が出来た。俺の目の前で、奴は化け物槍によって豪快に串刺しとなっていたのだ。其の槍の穂先は奴の胴体を貫通して、何と迷宮の床にまで到達している。つまり、奴は俺がぶち込んだ化け物槍によって、昆虫標本の様に迷宮の床に縫い付けられている格好だ。
「ギッギッギガアアァ!?」
床に串刺しにされたハグレは、巨体を不気味にグニグニと身悶えさせがら今迄聞いたことの無い甲高い声を上げている。俺が初めて耳にする、奴の苦悶の悲鳴だ。
うおおおっしゃあああああっ!俺は両拳を握り込み、会心のガッツポーツをブチ決めた。時間は圧倒的に足りず、人手はあろうことか俺独り。正直言って分の悪過ぎる博打みたいな戦術だったが、想像以上に上手くハマりやがった。ウオオォザッッマァ見ろおぉぉ!この海老と百足の出来損ないが。このまま無様にくたばりやがれっ。
だが、俺の浮かれ舞い上がった気分は長くは続かなかった。身悶える奴の姿に不穏な気配を感じた俺は、渾身のガッツポ体勢のまま硬直した。この未開な世界で無数の野生動物や魔物どもを殺して喰らって来た俺の野生の勘が、奴の命の灯火は未だ尽きていないと激しく警報を鳴らし始めたのだ。
一気に頭が冷えた俺は、気を引き締め直して床に縫い付けられた奴の様子を油断無く観察する。すると、奴は確かに苦しそうに身悶えてはいるものの、その身体が崩れ始める兆候は一切見受けられない。
・・・どうやら事はそう簡単には運ばないらしいな。
俺は身悶え続ける奴に気取られぬよう、気配を抑えつつ部屋の中をさり気なく移動し始めた。だが、次の瞬間。
「ギオオオオッ!」
奴は此れまでとは一転、一際デカい咆哮を上げると、ガッシャンゴッキンと身体に突き刺さった槍から物凄い金属音を響かせながら暴れ始めた。野郎っまさか刺さった槍をヘシ折るか床から引っこ抜く気か。
バキバキバキバキ
続いて耳障りな怪音と共に奴の巨体に縦に亀裂が走り、ボタボタと滴る粘液と共に上半身がバカリと割れた。俺の視界にヌラヌラとピンク色に光り、鋭い牙が並んだ悍ましく巨大な口蓋が姿を現す。あの時見た光景は、ひと時も忘れてはいない。蜥蜴2号を一息で喰い殺した、あの恐るべき形態だ。
其の姿を再び目の当たりにした俺は・・・腰のホルダーからナイフをぶっこ抜きながら、フルパワーで走り始めた。
今こそが勝機。
待っていたぜ、この瞬間を。
大部屋の目的の地点まで一息に突っ走った俺は、床に見える僅かな窪みにナイフを突き立てると、念入りに偽装した床板を躊躇無く引き剥がした。
其処に現れたのは、トワーフ親方によって研ぎ澄まされた俺の相棒だ。先程まで担いでいた予備の一振りは、既に干し藁入りのクッションと入れ違いで天井に吊るしてある。あんなモノを担いだまま奴に特攻したら、下手を打つと自分の得物に刺さって死にかねんからな。
そしてその直ぐ脇には、嘗てビタの集落で貰った弓が置かれている。そして更に。
その先端に矢尻は無く、代わりに木製の筒が取り付けられた矢が6本並べて据置かれていた。そして此れこそが、俺が今日この時の為だけに拵えたとっておきの奥の手。先程奴にぶち込んだ化け物槍と同じく、奴を地獄の底に叩き落とす為の第二の対ハグレ用切り札なのだ。
俺は姿を見せた相棒と武骨な弓を迷うこと無く引っ掴むと、間髪入れずに奴の方へと向き直った。予想よりも早くその形態を晒しやがったな。いきなり体のど真ん中をぶち抜かれて、随分と余裕が無いように見えるぜ。
俺は相棒で床を突いて未だ痺れの残る身体をブレないようにガッチリ固定すると、
「おおおぉっ!」
強弓に息付く間も無く次々矢を番えて、一気呵成に放ちまくった。俺の狩りの師匠であるゼネスさんから授かった速射の妙技だ。
そして鋭い弦音と共に俺の手元から放たれた全ての矢は、寸分違わず奴の口腔の奥へと吸い込まれていった。幾ら派手に暴れようとあの馬鹿デカい口なら、寧ろ外す方が難しいぜ。
巨大な口蓋の中に矢を打ち込まれた奴は尚も暴れていたが、その効き目は直ぐに現れた。奴は今まで見せた暴れっぷりが嘘のようにピタリと彫像の如く固まると、その巨体が次第にブルブルと激しく震え始めたのだ。そして。
「ギアャエエエエェ!」
奴は突然物凄い絶叫を上げたかと思うと、プルプルと震えながら盛大に藻掻き苦しみ始めた。其れは文字通りの七転八倒。弾みで床に突き刺さった化け物槍の穂先が床材ごと引き抜かれてしまったが、絶叫を放ちながらのた打ち回る奴にとっては最早其れ処では無さそうだ。
俺が放ったあの矢は無論唯の矢ではない。
俺の切り札の一つであるダーティーボムの主成分は、この世界に自生している超猛毒茸であるスーパーカエンダケ(俺命名)の粉末である。だが、その猛烈な毒性は携行するのに余りに危険な為、他に複数の毒物と混ぜ合わせる事により却ってスーパーカエンダケの毒性を抑制していた。
だがしかし。俺はハグレを地獄へと叩き落とす為、この度スーパーカエンダケの毒性の更なる濃縮を試みたのだ。
だが、俺の脳内には濃縮たるものの確かな知識など存在しない。漫画や小説の主人公のように降って湧いたように脳内に様々な知識が溢れてくるハズも無い。その手法は俺の記憶に僅かにこびり付いていた、かつて地球に居た頃とある動画で見た激辛ラーメン店の辛さの濃縮方法を参考にした。
事前に迷宮都市ベニスの近郊でスーパーカエンダケの群生地を発見していた俺は、人気の無い森の中で購入した土鍋にスーパーカエンダケを大量に投入してグツグツと煮込んだ後、この世界じゃ贅沢な布を惜しみ無く使用して煮汁を濾した。そうして抽出したスーパーカエン汁を火にかけた濃縮用の土鍋に順次継ぎ足してゆく。この試みは熱を加える方法なので毒の組成が変質し、逆に毒性が弱まってしまう可能性は十分あったが、そうなったらなったで別の手を考えるまでだ。
その作業は過酷を極めた。いや、過酷などという生易しい代物では無かった。
なにせ近付くだけで皮膚が爛れ、激痛に苛まれるスーパーカエンダケである。もし俺に回復魔法が無ければ、思い出すだけでゲロ吐きそうになるあの無謀極まる作業を成し遂げるのは絶対に不可能であっただろう。いや、其れどころか早々に中毒死していたに違いない。俺は全身大火傷の患者すらぶったまげる程全身の皮膚を爛れさせて苦しみ悶えながら、何かに取り付かれたようにスーパーカエン汁の濃縮作業に没頭し続けた。
結論として、スーパーカエンダケの毒性は熱を加えた程度で損なわれるようなヤワな代物では無かった。俺は地獄の責め苦のような作業工程を経て誕生した恐怖の粉末を「デーモンパウダー」と名付けた。因みに作業で使用した道具類は劇毒で激しく汚染されてしまった為、止む無く全て地中に埋めて廃棄した。
俺は早速その毒効を確かめる為、デーモンパウダーをほんの僅か水に溶かして矢尻に塗って、試しに猪に射掛けてみた。そして矢が刺さった瞬間、標的の猪は突如1mくらい地面から垂直にビヨーンと飛び上がった後、ブクブクと大量の泡を吹いてたちまち絶命した。俺は戦慄した。桁外れの毒性は云うに及ばず、更に恐るべきその即効性に対してである。ある種のショック症状だったのかも知れんが、それにしたって幾ら何でも速攻で効き過ぎる。
無論、俺はそんなデーモンパウダーをダーティボムに続く切り札にはしなかった。全て今回限りの使い切りである。何故なら、こんな恐ろしい粉末を普段から持ち歩ける訳がない。何かの手違いで自爆でもしようものなら、俺自身即死しかねないからだ。因みにスーパーカエンダケは夜になると紫色に発光するのだが、デーモンパウダーは暗がりに安置すると、何とまるで紫の火炎を吹き出すように発光する。その光景を初めて目撃した俺は、あまりの禍々しさに思わず二度三度見してしまった。
そんな恐怖のデーモンパウダーを満載した木筒を矢尻の代わりに取り付けた、俺命名デーモンショットを6本全て奴の口腔内にぶち込んだのだ。しかも木筒の蓋は気持ち緩めにしておいて、奴の体内でデーモンパウダーが速やかに拡散するよう仕込んである。幾ら奴の巨体と言えど、あのバカげた毒性なら十分過ぎる程の効果は見込める。そして結果は御覧の通りだ。
本当なら此のまま止めを刺しに行きたい所ではあるが、あの巨体で狂ったように苦しみ藻掻く奴に迂闊に近付くのは危険だ。俺は大切な弓を元の場所へ丁寧に戻すと、相棒を小脇に抱えながら奴の最後を静かに待った。
そしてそのまま幾許かの時が経ち・・・。
藻掻く奴の動きは次第に鈍くなってゆき、遂には力無くその巨体を迷宮の床に横たえた。時折ビックンビックンと痙攣している以外は、最早身体を動かす力も残っていないように見える。思いの外あっけなかったが、今度こそ終いか。
だが、俺が今度こそ奴に止めを刺すべく一歩踏み出した瞬間。
奴はいきなりガバリと巨大な鎌首を持ち上げた。いや、その勢いは跳ね上げたと言うべきだろうか。そしてその獣面と人面にある四つの目玉が、吸い込まれそうな程の昏い呪詛を湛えて俺を真っ直ぐに見据えてきた。心臓の鼓動が跳ね上がり、其処から放たれる凄まじい鬼気と憎悪に射抜かれた俺の背筋に戦慄が走る。
ハハハ・・何だよ。死に掛けどころかまだヤル気満々じゃねえか。
何つうしぶとい奴だ。本当ならデーモンパウダーを喰らわせた此の局面で殺し切るつもりだったんだが。今の奴の体格とタフさ、そしてその外殻の強度は俺の当初の予想を遥かに超えている。此処から先は俺にもどうなるか、まるで予想が付かない。
鎌首を上げながらゆっくりと迫り来る奴を前にして、俺は肚を括った。既に打てるだけの手は打った。此処から先は、仕掛けも糞も無い。今迄ひたすら練り上げた力と技を全て使い切って、俺のこの手で奴を屠り去るのみだ。
互いの間合いがジリジリと狭まってゆく。奴も俺を警戒しまくっているのか、その巨体を揺らしながらジリジリと近づいて来るも、迂闊に襲い掛かっては来ない。
この時、俺は奴の動きに集中する反面、何故か心中複雑な気持ちを抱いていた。目論見に反してデーモンパウダーで奴を殺れなかったにも拘わらず、俺は落胆と同時に心の何処かで安堵していたのだ。
俺は頭がおかしくなってしまったのだろうか。
目前には故郷の4tトラック程もある巨大生物が迫り、気が狂いそうなほどの殺意と妖気を叩き付けられている。にも拘わらず、俺の体の芯が甘美に疼く。全身に心地よい震えが奔り、口角が自然と上がるのを止められない。
更には正面から奴の貌と眼を見て感じた、この世界に飛ばされてから初めて感じるシンパシー。俺にはよぉく分かるぜ。今のお前の気持ちが。どれ程苦しかろうが、どんな手を使おうが、絶対に目の前の糞野郎をぶっ殺すってな。そうだ、俺もお前と全く同じ気持ちだよ。
既に互いの間合いは限界を踏み越えている。睨み合う空間が捩じ切れそうな程の緊張感の中。俺は猛る心の赴くまま、瞳には嘲りの意志を込めて、奴に最高の笑顔を見せてやった。
その次の瞬間、まるで動画の一時停止を解除したかのように。奴の巨大な上半身が突如として跳ね、此方へ向かってカッ飛んできた。身体は程良く脱力しつつも気魂と肚へと湧き上がる力を練り上げた俺は、万全の構えで迎え撃つ。
「オオオオオオオオオオッ!!」
「ちぇりあああああああぁ!!」
そして憎悪と殺意に塗り潰された二匹の獣が、激突した。




