第100話
「フウッ」
眼前に走る岩の小さなクラックに右手の指先を捻じ込み、手を捻ってガッチリ固定。リズムを崩さないよう間髪を入れずに足を踏み出し、岩肌から突き出た僅かな突起に足先を乗せる。足指に確かな感触を感じると共に、手足にパワーを込めて身体を更に上へと押し上げる。力任せに登ることも可能だが、先は長い。負荷を軽減するよう常に身体の重心と、手足に込める力の配分を意識する。視線は常に前に置き、進むべきルートを常にイメージする。
俺は今、目の眩むような超巨大な岩壁をフリークライムで直登している。何故こんな危険な行為をしているのか。その本来の目的は、迷宮で衰弱した身体のリハビリである。・・・いや、アホだと分かってはいる。自分でも何故こうなっているのか良く分からない。此の地に初めて来た時、地上から巨大な岩壁を見上げていたら、何と無しに今の俺なら行けるかな?いけらあ!と思ってしまい、気軽な気分で岩壁に取り付いてしまった。そして俺は命綱などという惰弱な逃げ道など一切身に帯びていない。俺は漢の中の漢、フリーマンなソロクライマーなのである。
・・・嘘です。滅茶苦茶怖いです。命綱欲しいよおぉ。
此処は迷宮都市ベニスから俺の足で丸一日程歩いた場所である。ベニスにほど近いここら一帯から南西に向けては巨大な奇岩が林のように無数に屹立している、一風変わった地形だ。因みに情報提供者は武器屋の金パツ店員である。迷宮以外で身体を鍛えたいなら此処が良いぞと教えてくれた。
奇岩と言ってもデカイ物は文字通り山のように雄大で、その形状は茸のような不思議な形をしている。まあ茸と言っても傘の開き切って居ない松茸、元中学生らしくぶっちゃければ俺の愚息のような形状をしている。実際に登ってみると分かるが、茸の柄の部分より傘の部分の方が固い岩石で出来ており、恐らくは風雨により柄の部分がより早く浸食されたのだろう。
そして何故実際に登らないと分からない事が俺に分かるのか。そう、実は俺はこの地の奇岩に登るのは初めてではない。比較的高さの低いものから順番に目を付けて、既に何度も奇怪な形をした岩山に登っている。俺がこの地に来てから既に2週間程経過しているのだ。
俺の周りにあった中で一際デカい、文字通り雲を突くような此の奇岩に取り付いてから既に目視で高さおよそ数百m。俺は最早引き返せない高さまで登って来ていた。冬にも拘らず、高速の登攀で酷使した身体からは熱気が立ち上り、滝のように汗が滴り落ちる。だが此れは我が肉体が活発に新陳代謝している証拠だ。実に喜ばしい。ビバ新陳代謝。でもあまり垂れ流すと手足が滑りそうで超怖い。
いよいよ此処からは茸岩(俺命名)の最大の難所、傘と柄の境目付近まで到達した。此処から岩壁は急激にハングしてゆき、傘の下側は地面と180度超の角度が付く。つまり、完全に天井に張り付くような格好になる。垂直に登っているハズの俺の視界一杯に広がる巨大な岩壁。あまりに恐ろしい眺めに思わず顔が引きつる。ははは。め、迷宮の天井に張り付く良い訓練になるぜ。多分。今迄は岩の突起や割れ目に足先を乗せていたのだが、此処からは落ちないように引っ掛けて固定せねばならない。手足に掛かる負荷は無慈悲に加速してゆく。尤も、迷宮の天井に比べれば岩の割れ目や突起がある分まだ楽だけどな。岩の隙間からは草木も生えているが、此奴は罠だ。下手に掴むと引っこ抜けて墜落する危険がある。
あと僅かで傘のへりまで到達出来そうなその時。岩に逆さに張り付くような体勢で動きを止めた俺は、激しい焦燥に駆られた。
うぐぐっ、ヤバいヤバい。手足の筋疲労の進行が想像以上に早い。手のピンチ力とホールド力も低下してきやがった。筋肉のパフォーマンスが加速度的に低下していく。グリコーゲンが足りねえ。うぎぎぎっ、疲労で思考にも靄が掛かる。此れは不味い。幾ら何でも此の高さから墜落したら確実に即死だ。一瞬最悪の事態を想像して、タマがヒュンとなる。もし此れが故郷の本物のクライマーなら、岩肌にハーケンやボルトを打ち込んで、ぶら下がって手足を休めるという選択肢も取りうるだろう。だが、何処とも知れない異界に居る孤独でフリーダムなソロクライマーの俺は、そんな便利な道具は何も所持していない。そして、この態勢のまま一度蓄積した疲労が抜けることは絶対に無い。都合良く気合や根性で乗り切れる位置でもない。普通なら墜落するまでひたすら耐えるしかない所だ。
だが、生憎と俺は普通では無い。というか、成算が無ければ初めからこんなアホな真似はして居ない。其れでも念の為、取り付くのは高さ50mくらいのチ・・もとい茸岩から徐々に高くしていったんだからな。
俺は歯を食いしばりながら体勢を変えて左手と両足の3点で身体を岩壁にガッチリと固定すると、慎重にゆっくりと右手をフリーにした。練り上げた魔力を右手で変質させる繊細な工程は、右手に過度な負荷が掛ったままでは覚束ないのだ。
「くっ、回復魔法、発動おっ!」
俺は変質後、そのまま右手から再び体内に押し込んだ回復魔法を体内でぶっ放す。すると、限界に近付いて痺れ始めた俺の手足の疲労は、まるで熱湯に入れた雪のように、急速に溶けて消えていった。
「良しっ。」
クリアになった意識で再び気合を入れ直した俺は、岩壁の隙間に右手を挿し込むと、重力に逆らった体勢で再び前に進み始めた。
___巨大な茸岩、いや茸山の頂上風景は、遠くから見たような無機質な面ではなく、実際は浸食により割れたり削れたりした岩により大小様々な水溜まりや池があり、複雑な地形となっていた。其処には苔?などの背の低い植物が生い茂り、小さな生き物たちがそこら中でチョロチョロと徘徊していた。無論、昔地球で見た記憶のある生き物は皆無だ。地球の生物学者がこの光景を見たら狂喜乱舞した挙句、そのまま遥か地上まで転げ落ちていきそうだ。
俺は茸山の頂上に座り込み、背負い袋から取り出した水筒で水分補給をし、干し肉や防腐草を練り込んだ団子などの大量の保存食をもしゃもしゃと頬張る。下りはもっと体力と神経を使う。しっかりと回復せねば、今度こそ墜落死しかねない。
目線を上げれば其処にはなかなかの絶景が広がっていた。眼前に広がる無数の茸岩が乱立する広大な大地のさらにその向こう。俺の眼でも霞むような遥か遠方には、雲を遥かに突き抜ける途方もないデカさの茸山が屹立していた。その姿は茸というよりは超巨大な火山の噴煙のようだ。一体どのような地殻変動が起きれば、あのような狂ったサイズのオブジェが出来上がるのか。俺には想像も付かない。いつかあの場所へ言ってみたい気もするが、あそこは魔物領域の奥深くにあり、到底人間が近付けるような場所では無いそうだ。
俺はボンヤリと景色を眺めながら今後の事を考える。残りの食料が心許なくなってきた事だし、そろそろ再びベニスに戻っても良いのかもしれん。実は俺は此の場所に来てから、何度か大量の食料を買い込む為にベニスへ戻っている。ひたすらダッシュで往復すれば半日くらいで戻って来られるしな。食料と言えば、その気になればこの付近の動物を狩る事が出来る俺が何故そんな面倒な事をしているのか。勿論それには理由がある。
ベニスにほど近く、大した魔物も居ないこの辺りは、契約狩人達の縄張りの可能性があるからだ。契約狩人というのは、狩人ギルドには所属していない地元の狩人さんたちの事である。彼らは商人ギルドと契約し、真っ当に野生動物を狩り、地元の市場にお肉を提供している狩人さん達なのだ。いや、狩人というより地球で言う所の猟師さんといったほうが良いのかもしれん。何狩ってるかも定かでない怪しげな集団である俺達狩人ギルドと違って、彼等の地元への貢献度は計り知れない。いや、狩人ギルドでも地元に貢献してないのは俺みたいな底辺の不良狩人だけなのかもしれんが。
何れにせよ、契約狩人の縄張りの可能性がある以上、迂闊にこの辺の動物を狩ることは出来ない。バレたら確実に面倒なことになるからな。彼らに痕跡を悟られずに狩りを遂行できると思う程、俺は己惚れてはいない。因みに以前俺が住んでいたファン・ギザの町の傍にある森の奥は、結構危険な魔物が出没するのでその範疇には無い。そして、勿論例外というモノは存在する。この世界で人族の仇敵と見なされているその魔物共だ。今迄俺が見聞きした中では、此の世界で人間が魔物を食べる習慣は無い。理由は人族の仇敵だからてのもあるが、もっと単純に不味いというのも理由だ。頑張って加工すれば食えなくは無いことはこの世界の人間も全く知らないわけじゃないだろうが、普通に野生動物の肉食ったほうが美味いのに、ワザワザ強い魔物を頑張って狩って、更に面倒な下処理をして迄食う人間など普通は居ない。上手く加工するとかなり美味い黒猪なんかはかなりレアケースと言えるだろう。なので、契約狩人の縄張りだろうが何だろうが、魔物を狩る事は寧ろ推奨されているのだ。実際、俺も魔物を見付けたら遠慮なく狩らせて貰ったのだが・・此処の魔物は弱いが、マジで不味くて食えたモンじゃなかった。
ふと、自分の身体に目を落としてみる。新しい平服の上から毛皮を羽織った姿だが、其の隙間から見える筋肉は瑞々しく盛り上がり、完璧に以前の姿、いや、それ以上の威容を取り戻している。正直、リハビリには月単位で時間が掛かると思っていただけに、嬉しい誤算だ。此れが若さの力というヤツなのだろうか。俺は昨日の出来事を思い返した。
昨日、此の場所に来てからひたすら茸岩の岩壁を昇り降りしたり岩を担いで付近を走り回って基礎体力の回復に努めていた俺は、随分と回復した自身のプリップリの肉体を見て、久しぶりに丸太剣に手を伸ばしてみることにした。
シパァン
「うおおっ!」
試しに入魂の一振りをすると、丸太で鳴ってはならないような音が周囲に響いた。凄くね?何か知らんが凄くね?そして、調子に乗って更に一振り
シバキャアン
「うおおああっ!?」
僅か二振り目で俺の愛用の丸太剣は、無残にも持ち手の部分からブチ折れた。ああああ。マジかよ。此れ削り出すの苦労したんだぞ・・。よもや無数の魔物や動物を殴り殺して来た俺の愛棒がこんなにアッサリと折れるとは。もしかしたら細い部分にダメージが蓄積してたのかなあ。
い、いやいや待てよ。こんなゴツい丸太剣がそう簡単に折れるものなのか?俺って実は滅茶苦茶強くなってんじゃね?そうだ。そうに決まってる。今迄アホ程魔物殺しまくったしな。寧ろ強くなってなきゃ可笑しいだろ。
期待に胸を膨らませた俺は、試しに目の前にあった茸岩の岩壁を正拳で思い切り叩いてみた。
・・・普通に指が折れました。もしかしたら、漫画みたいに岩壁が円形にベコーンとか凹むのとか想像してたのに、微動もしませんでした。当たり前だが、人間の手ってのは岩やコンクリを砕けるようには出来てねえんだよ。
あの後、激痛の走る手を抑えて転げ回ることになったが、人前でやらなくて良かった。ま、焦っても仕方ない。どうにか体力は元に戻ったし、此れからは地道に鍛えていけば良いか。
立ち上がった俺は再び気合を入れ直す。茸岩の下りは登りよりも更に危険だからな。
そしてその後、どうにか無事地上まで戻った俺は翌日、遂にリハビリ終了宣言を独りで行い、迷宮都市ベニスに戻ることにした。
___再びベニスの狩人ギルドを訪れた俺を待っていたのは、少々異様な雰囲気であった。それは入り口の扉を押し開けた瞬間から感じられた。大騒ぎという程では無いが、何となく落ち着きの無い浮付いた空気を感じる。
俺は今回は迷い無く赤毛のおっさんのカウンターに直行する。相変わらず此処だけ誰も並んで居ないな。
「おっさん。久しぶりだな。」
「ああ。カトゥー君か。暫く姿を見なかったけど、無事だったんだね。」
む、声が少々高いな。目線も定まっていない。多少の発汗も見受けられる。おっさんの様子も少々浮足立っているように見えるな。
「どうもギルド内が 妙な雰囲気なのだが。何かあったのか。」
「・・・・。」
「秘匿事項なのか?なら、無理に話す必要は 無いが。」
「ああ。御免よ。別に機密と言う訳では無いんだ。色々と噂されてはいたんだけど、先日ボク達にも上から正式に通達があってね。」
そして、深刻な表情で押し黙るおっさんに対し、俺は無言で続きを促した。
「・・・迷宮に潜った僕らのギルドのハグレ討伐隊が、完全に消息を絶った。」




