第89話
地図さえ手に入ればもう迷うことなんて無いぞ。
そんなふうに考えてた時期が、俺にもありました。
蜥蜴4号から回収した迷宮の地図を広げた俺は、穴が開くほどその紙面を凝視した後、怒りと焦りで思わずワナワナと震えていた。
俺が手にした地図は、期待していた代物とはまるで異なっていた。
其の図柄はかつて日本で見たような親切で見易いMAP形式とは掛け離れており、敢えて言うなら地球の鉄道の路線図とフローチャートを混合させたものに近いだろうか。材質不明のくたびれた紙面には迷宮の分岐のようなモノが無数に書き込まれており、時折何らかの文字が記述されている。更には至る所に別の手書きの注釈らしきものが汚い文字でびっしりと書き込まれている。蜥蜴4号の几帳面さが伺える。だが、其処には重大な問題が包含されていた。
まず第一に一目見て衝撃を受けた。どんだけ分岐あるんだよコレ。幾ら何でも広すぎる。此の迷宮てこんなに広いのかよ。一つの階層だけでちょっとした町位の広さは余裕であるかもしれん。手探りで進んだら一体どれ程時間が掛かるのか想像もつかない。
次に地図に書いてある文字や手書きでびっしり書いてある謎の注釈?だ。俺はまだこの世界の言語の読み書きが出来ない。なので地図に書いてある文字が何を意味するのかサッパリ分からない。しかも此の手書きの注釈って形状を見た感じ都市で見た言語じゃなく多分蜥蜴人のトカ言語じゃねえか。読める訳ねえだろ。
因みにこの世界には地球と同じように種族や地域、更には時代等により様々な言語や方言なんかもあるらしい。俺が覚えて会話をしているのは東の大山脈を越えた大国でも使われているこの世界ではかなりポピュラーな言語だ。ビタの集落が特異な種族や部族などでは無く、只のありふれた開拓村の子孫だったのは幸いだった。今更言語を一から習得し直すとか無理。マジで勘弁してほしい。ちなみに以前世話になった行商人のヴァンさんによれば、俺の話し方は少々訛っているらしい。彼はなんとこの世界の言語を数か国語操り、更には特定の獣人の言葉も聞き取りだけなら可能なのだそうだ。凄すぎだろ。異世界語でギリバイリンガルな俺ごときとは頭の出来が違い過ぎる。彼がもし地球に転移したなら、言語は元より地球のあらゆる知識を湯水のごとく吸収してしまいそうだ。
其れはさておき。そんな訳で、俺は地図に記述されている文字が全然読めない。地図は全部で12枚あったが、どの地図が何階層に当たるのかすらサッパリ分からない。1階層目だけはどうにか見分けが付く。入り口と思わしき記述があるからな。だが、其の地図は12枚の真ん中あたりに挟まっており、地図は階層順に並んで纏められて居るわけではなさそうだ。と言うか、そもそも此処は15階層だ。地図は全部で12枚しか無い。枚数足りねえよ。
そして一番の問題は、俺が今いる此の場所だ。此の場所が12枚ある内のどの地図で、更には其の中のどの辺りに相当するのか全く分からない。まず現在地が分からなきゃ地図なんか全然使い物にならねえじゃあねえか。ふざけんな。
此れからどうしよう。道を覚えながら進む?無理無理。俺にそんな常人離れした記憶力は無い。以前聞いた事のある左手の法則とやらで常に左手を壁に付けながら進むとかはどうだろう?いや、無理だろ。この迷宮がどんだけ広いと思ってんだ。そんな事してたら地上まで戻るのに何処くらい時間が掛かるのか分かったもんじゃない。ならば壁や床に目印を付けながら行くとか?いや駄目かも。この迷宮の壁や床には傷や穴を再生する能力がある。どのくらいの再生速度かは分からんが、目印が何時までもその場所に残っているとは限らない。目印として壁に何かを埋め込むにしても材料が全然足りないし、埋め込んだ目印が安全地帯の扉のようにそのまま残っている保障も無い。
ならば下手に動かず、上の階層への階段を探すより扉の付いた安全地帯の部屋を探して、そこでひたすら他の迷宮探索者の助けを待つというのはどうだろう。其れも一つの選択肢なのかもしれない。だが、俺達は此の中層に入ってから他の迷宮探索者の姿を一度も見ていない。それに、仮に運良く安全地帯で他の探索者と出会うことが出来たとして、そいつらが俺を助けてくれる保障など何も無い。
此処は日本どころか、地球ですらないのだ。勘違いしてはいけない。迷宮の中では自分の身命は自己責任なのだ。人権なんぞ糞食らえ。俺みたいな無名でボッチな木っ端狩人など、見捨てても誰も咎める者は居ないだろう。下手すりゃ助けどころか、絶好の鴨としてぶっ殺されて荷物を奪われることすら十分有りうる。それに、もしその選択肢をして誰の助けも得られず死んだ場合、俺はその選択を滅茶苦茶後悔しそうだ。
そう。例え力及ばず逝く事になったとしても、俺は只他人の助けを待って死ぬなんて真っ平御免だ。例え死ぬにしても前のめりで死にたい。今際の際に後悔なんてしたくねえ。
地上に向かってひたすら進む。悩んだ末、最終的に俺が選んだ選択肢は此れだ。更にダメ元で迷宮の壁にナイフで目印を付けながら進むことにする。まだ失血による眩暈や身体の倦怠感などの症状は出ていないが、ハグレとの戦闘で俺はかなりの血液を失っている。まずは水分補給して、ついでに携帯食を頬張ってエネルギーも補給しておこう。
更に、補給の後は荷物を一度全部広げて入念にチェックする。
何よりも重要なのは食料と飲料水だ。ハグレの攻撃で壁に叩き付けられた際に、飲料水を漏洩しなくて本当に良かった。次いで武器と防具。服はもう無くてもいい。どうせ防御力なんて皆無だし。もし服と飲料水と交換できるなら、俺は裸族にでも何にでも成るぞ。そして検分の結果、携帯食はともかく飲料水は・・ギリギリまで切り詰めても半月保つかどうかといった所か。そういえばリザードマンズは種族的に渇きに強いのか、多く見積もっても俺達荷物持ちの人間組の半分も飲料水を消費していないように見えた。正直滅茶苦茶羨ましい。
更には体力の消耗を軽減する為、荷物は少しでも軽くしておきたい。必要無いものは可能な限り捨てる。用途不明な道具や、空になった小型の水樽、防具の補修キットのような道具、お守りのような物だろうか。良く分かない木彫りのオブジェなど。予備の武器等はポルコが担いでいたので、俺の荷物には入っていない。あと、回収した魔石は丸ごと俺の荷物に入っている。こいつをどうするかはかなり迷った。相当な数があるので結構な重量になる。なので、万が一の回収の可能性に賭けてこの場にデポすることも考えたが、リザードマンズの最後の生きた証だ。出来れば持って帰りたい。其れに本音を言えば、単純に金が惜しい。いや、寧ろ此方が最大の理由だ。俺は聖人でも何でもない俗物だし、この世界に飛ばされてから散々金に苦労してきたから、銭への執着はひとしおだ。魔石は大きさが違う上層の分と下層の分で分割して袋に入っている為、もし荷物の重量が問題になるようであれば、最悪上層分だけをデポしてしまおう。
魔物と遭遇して戦闘になった時は、背中の巨大な荷物を素早くパージしなくてはならん。荷物の検品と収納を終えた俺は、何度も着脱の練習を繰り返した。その後、漸く全ての準備を整えた俺は、袋道から外に出て臭いの薄れてきた臭い玉を回収した。そして、いよいよ地上へ脱出する為に歩き始めた。
仲間の無残な死、先行きの全く見えない未来、そして超危険な迷宮の地下深くで一人ぼっちの心細さ。俺の心は鉛よりも重く、黒〇無双よりなお暗い。だが、今は兎に角前に進むしか生き残る道は無い。上層へ行くための階段は一つではない。まずは其処を探し出す。
暫くの間慎重に歩き続けると、早速後方からの僅かな物音を捉えた。ドキンと心臓が撥ねる。もしや魔物に臭いを追跡されているのだろうか。危険を感じた俺は歩くペースを上げたが、程なくして前方からも何かを引っ掻くような音が聞こえてきた。
・・此れは非常に不味い。挟まれたのか。俺は歩みを止め、息を整える。独りではそれなりの広さがあるとはいえ、迷宮の通路では逃げ場は限られる。巨大な荷物を担いだままやり過ごすのは難しそうだ。先程のように天井に逃れることも考えたが、アレは体勢を維持するのにかなりの筋力と体力が必要な上、もし見つかった場合に無防備になってしまう。ハグレとの戦闘の時は其のままでは100%死ぬと分かっていたので、他に選択肢が無かったに過ぎない。
戦るしかねえか。とにかく先制攻撃だ。不意打ちを決められれば勝率は跳ね上がる。俺は物音を立てないように壁際に荷物を降ろすと、左手の盾の固定具合を確かめ、更には右手に鉄棒を掴み、足音を忍ばせてスルスルと歩を進めた。




