悪あがき
やれやれと、無事に枢のファンクラブを掌握することに成功した瀬那は枢のいる非常階段へやってきた。
「遅かったな」
いつもより遅れてきた瀬那に声を掛けてくる枢は、どこか不敵な笑みを浮かべていた。
瀬那が隣に座り昼ご飯の準備をしていると、髪に手が伸び、手触りを楽しむようにクルクルといじる。
「呼び出しがあったみたいだな」
「なんで知ってるの?」
呼び出しがあった時、枢は教室にいなかった。
「瑠衣が連絡してきた」
だからかと、瀬那も納得する。
「大丈夫だったのか?」
「うん。問題なし。最後は感謝されて拝まれた」
「感謝? どうなってそうなる?」
よく分からないという様子の枢に「さあ?」と言葉を濁す。
まさか自分の写真が取引材料に使われたとは思うまい。
まあ、バレたとしても枢なら笑って許してくれるだろうと思っているのであんな取引を持ちかけたのだが。
「まあ、枢のファンクラブのことは気にしなくて良いから」
「頼もしいな」
ふっと優しく笑うその顔は枢がよく見せる顔だ。
でもそれは二人の時だけ。
教室内でも、瑠衣や総司といる時にもそんな顔は見せたりしない。
自分にだけに見せてくれるその笑みを浮かべる時、枢の目はとても甘く瀬那を見ている。
自分だけだと、そう思うとむずがゆさと共に胸の奥が甘く痺れる。
未だ枢が自分の恋人だということに夢ではないかと思う時はあるが、髪に頬に触れてくる枢の手の温かさで、現実だと教えてくれる。
頬を包むように触れられ、その手に擦り寄るように頬を寄せると、枢の目に熱が浮かぶのが分かる。
そっと近付いてくる枢に、瀬那はゆっくりと目を瞑った。
そして、触れた唇の熱に身を委ねる。
決して激しいものではない、どこまでも優しいキスがゆっくりと離れる。
そのことにわずかな寂しさを感じる瀬那は、いつの間にこんなに好きになったのだろうと不思議に思う。
きっと、少しずつ器に水が満たされるようにその想いが積み重なっていった。
枢もそうなのだろうか……。
「ねぇ、枢はいつから私のことを好きになったの?」
「なんだ、急に」
「なんとなく、気になっただけ」
枢は少し考えるそぶりをした後口にしたのは……。
「秘密だ」
「何それ。教えてくれてもいいじゃない」
「そういうお前はどうなんだ」
「……秘密」
そう言うと、またいつもの優しい笑みを浮かべて、軽く触れるだけのキスをした。
ふと、視線を横に向けると、踊り場の向こうに見える裏庭から、愛菜がこちらを見ていた。
その顔は酷く強張っている。
「どうした?」
突然動きを止めた瀬那が気になった枢が瀬那の視線の先を見て愛菜を確認する。
けれどその目には何の感情も見受けられなかった。
それはもう他人を見るような目で、とてもじゃないが一滴の情も感じなかった。
良くも悪くも、枢にとって愛菜は他人なのだろう。
それを分かっていないのは、きっと愛菜だけだ。
愛菜はきびすを返してその場を去って行った。
何とも言えない気まずさを感じる瀬那に反して、枢はいつも通り。
「瀬那、早く食べないと昼休みが終わるぞ」
「う、うん」
時間を確認するとお昼休みの時間が迫っていて、慌ててお弁当を食べ始めた。
昼休みが終わり、授業が始まっても愛菜の姿はなかった。
その日の授業が終わると、瀬那の元にはすぐに美玲がやってきた。
「結局新庄さん戻ってこなかったね」
「うん」
愛菜の席は空席のまま。
鞄だけは置いてあるが、朝以降愛菜が教室に戻ってくることはなかった。
枢は勿論、瑠衣や総司ですら捜すことなく放置しているようだ。
「まあ、あれだけ一年生に自信満々に一条院様と付き合うとかほのめかしてたのに、瀬那ちゃんと付き合ってるのを本人から知らされちゃったんだもの。顔見せづらいよね」
「まあね……」
愛菜はどこから来るのか分からないが、枢と相思相愛だと思っていた節がある。
元来の空気の読めなさから来るのか、思い込みが激しいのか分からないが、お昼の時もきっと瀬那と枢がキスしていたのを見ていたはず。
さすがの愛菜も現実を受け入れざるを得なかったのだろう。
それで教室に来づらかったのかもしれないと、瀬那は思う。
自分とて、枢が誰かとキスしているところを見たらショックが激しい。
愛菜には色々と迷惑を掛けられたが、そこに関しては同情を禁じ得ない。
「神崎さん!」
名を呼ばれて振り返った瀬那の腕を、右から左からしがみ付かれる。
しがみ付いているのはクラスで仲の良い女の子達だ。
「えっと……なに?」
女の子達は満面の笑みで瀬那を捕獲している。
「今日は帰りにパンケーキでも食べに行こう」
「逃がさないから」
その目には、枢とのことを根掘り葉掘り聞き出そうという意思が見え隠れしている。
頬を引き攣らせる瀬那の正面にいた美玲が逃げようとしたが、瀬那はすかさず美玲の制服を握った。
ぎょっとした顔をする美玲。
「一人だけ逃がしてなるものか」
「瀬那ちゃん、私はちょっと野暮用があって……」
「問答無用」
「えー」
不満を述べる美玲を離さず、そして女の子達も瀬那を離さない。
仕方なく全員でパンケーキの店に行こうとなって、玄関で靴を履き替えていたその時。
靴を履くために下を向いていた瀬那の前に、誰かの足が見えた。
顔を上げると、そこにいたのはずっといなかった愛菜で、愛菜は固い表情で両手を握り締めている。
何か言いたげに目の前に立つ愛菜を、瀬那は静かな眼差しで見続けた。
美玲やクラスの女の子は少し離れて様子を見ている。
そんな中で愛菜が発した言葉は……。
「枢君を返して!」
「は?」
「枢君を返してって言ったの!」
何を言うのかと瀬那は唖然としてしまった。
「瀬那ちゃんは他の男の子からも人気があるんだから、別に枢君じゃなくてもいいでしょう? だから、枢君と別れて。私に返して」
頭痛を覚えると同時に、その愛菜の言い草にカチンときた。
「嫌よ」
単純明快に、愛菜でも分かるように一言で拒否を示した。
すると、愛菜は驚いた顔をする。
「どうして!?」
「どうして? そんなことも分からないの? そもそもなんの権利があって私にそんなことを言うの?」
「権利って……。私はずっと枢君といたの。枢君と一番仲が良いのは私だから、だから……」
誰が見ても仲が良いようには見えないが、それを言ったところで愛菜は聞く耳を持たないだろう。
なにせ人一倍思い込みが激しいから。
「たとえ仲が良かったとして、あなたは枢の何?」
「何って、仲の良い……」
「仲の良い何? 友人? 同級生? どっちにしても、付き合ってるのは私と枢の意思よ。そこに他人が口を挟むべきことではないわ」
「わ、私は枢君のために言ってるの」
「あなたさっき返せとか言ってたじゃない。枢を私にって」
「だって、枢君の一番側にいたのは私なの。それなのに突然瀬那ちゃんが現れて枢君を取っていくなんて、そんなの酷い!」
話を聞いていた美玲が目をつり上げて来ようとしたが、首を横に振って制止した。
美玲は不服そうにしたものの、瀬那の意思を尊重して傍観者に徹してくれた。
「酷いも何も、枢は元々あなたのものではないでしょう? 恋人だったの? 違うでしょう?」
「ち、違うけど、瀬那ちゃんがいなかったら枢君と付き合ってたのは私だったもん!」
その自信がどこから来るのか知りたい。
あれだけ枢に邪険にされていたというのに。
「枢が言ったの? あなたのことが好きだって。付き合いたいって」
「それは……」
最初の威勢はどこへやら。
今にも泣きそうな顔をしている愛菜を見ていたら、瀬那の方がいじめているように見えるだろう。
しだいに野次馬が集まってくる。
こんな玄関前で騒いでいたら人目を引くのは当然だ。
「枢はこれまであなたに気を持たせるようなことはしてなかったはずよ。そんな中途半端なことをするような人じゃないもの」
むしろ、どこをどう勘違いしたら好かれていると思うのか疑問に思うほどの冷たさだった。
しかし、その言葉に愛菜の怒りに火を点けたようだ。
「枢君のことを知った風なこと言わないで! 枢君のことなんて何も知らないくせに!」
「あなたなら知ってるって言うの?」
「勿論。だって枢君と一番一緒にいたのは私だもの」
そう自信に満ちた顔で愛菜は言った。
それを見た瀬那は目を細める。
「じゃあ、聞くけど、枢の好きな食べ物は?」
「好きな食べ物?」
「そうよ。それだけ自信満々ならそれ位知ってるよね?」
分かりやすく動揺した愛菜は視線をうろうろさせる。
それだけで、知らないことが誰の目にも明らかだった。
「もしかして、ずっと一緒だったのにそんなことも知らないの?」
わざとあおるようなことを言って愛菜を挑発する。
「か、枢君は好き嫌いとかないもの」
「はい、不正解。甘い物よ」
「……え?」
「枢は甘い物が好きなの」
以前にサンドイッチを作った時にフルーツサンドから手を付けたことを思い出して、食後にデザートを出したら、ペロリと平らげた上におかわりを要求してきた。
枢の見た目からは想像できないが、枢が大の甘党だということは、普段枢の食生活を握っている瀬那だからこそ知っていることだ。
「嘘! 枢君が甘い物を食べてる所なんか見たことないもの!」
「そんな噓付いてどうするの? 枢に聞けばすぐに分かることなのに」
そう返せば、愛菜はぐっと言葉を飲み込む。
「枢のことなんにも見てない。枢のためとか言ってるけど、全部自分のためじゃない」
これは以前から瀬那が愛菜に言いたかったことだ。
いつも一方的にしゃべって、枢が何かを言う暇もない弾丸トークを披露し、枢が迷惑がっているのに気付こうともしない。
自分の思いを押し付けるだけで、相手を気遣うということをしない。
枢は良くも悪くも自分の影響力をよく分かっている。
だから、これまで決して愛菜を邪険にすることはしなかった。
枢がそんなことをしたら即座に愛菜の風当たりが悪くなるのを分かっていたからだ。
無視をするということでそれとなく愛菜から離れるようにしていたのに、愛菜はそれを良いように取ってしまった。
自分は側にいることを許されている。他の子とは違うんだと。
さすがに最近の愛菜は盛大な勘違いを周囲に口にするようになったので、枢も我慢の限界を超えてしまい、今朝などは分かりやすく冷たく拒絶を口にしたが、愛菜にはそれだけでは足りなかったようだ。
「あなたは枢のことを見てるのに全然見てない。見ようともしない。枢を知ったかぶっただけの人にとやかく言われたくないわ」
枢の優しさを分かろうともしない。
冷たいように見えるが、あれでいて情が深いことを瀬那は知っている。
それは、瑠衣や総司、そしてノワールの子達も。
だからこそ枢についていくのだ。
言いたいことを言えてスッキリした瀬那は、興奮を抑えるようにふうっと息を吐いた。
「皆、もう行こう」
「いいの?」
「うん」
唇を噛み締めうつむく愛菜の横を通り過ぎる。
愛菜はそれ以上何も言っては来なかった。
「あれで理解したのかな?」
後ろを振り返りながら美玲が疑問を口にする。
「して欲しいとは思うけどね」
正直言うと、あれで納得したかどうかは瀬那には分からなかった。
けれど、これまでずっと言いたかったことは伝えた。
そこから先は瀬那の領分ではない。
瀬那は視線を向ける。
どこから聞いていたのか分からないが、ずっと瀬那達の様子を窺っていた瑠衣と総司に。
後はあなた達の仕事だと伝えるような強い眼差しを向けた。




