ノワール
歩に枢とのことを認めてもらえてから変わったのは、夕食後もしばらく枢の部屋で過ごすようになったことだ。
歩が帰ってくるのは遅く、部屋で瀬那を一人で留守番させているよりは枢と一緒にいる方が何かと安心だという。
このマンションは常にコンシェルジュがマンションの入り口に常駐しており、不審者が入ってくればすぐに分かるのだが、過保護な歩はそれでも心配らしい。
平日は学校があるので遅くまでいないが、翌日が休みの日だと普段より居座る時間は自然と長くなる。
特にもうすぐ試験があり、学年でトップの成績をおさめている枢を頼らない手はない。
明日から三連休ということで、勉強用具を持参で枢の家にやって来ている。
が、夕食を終えた瀬那は、テーブルに置いた教科書には目を通さず、ソファーに座って大画面のテレビで最近発売されたホラー映画を見ていた。
そんな瀬那を枢はコーヒーを飲みながら呆れた顔で見ている。
「勉強は良いのか?」
「これが終わったらする」
声を掛けた枢に視線を向けることなく、目はテレビに釘付けだ。
クッションを抱き締めながらビクビクしている瀬那に、枢はいたずら心が働き、ちょうどクライマックスの一番怖い場面に来た時にフッと耳に息を吹きかけた。
「うわっ!」
ビクッと体を強張らせた瀬那は、笑いをこらえている枢を見て、恨めしげな眼差しを向ける。
「枢!」
「怖いなら見なければ良いだろ」
「怖いけど見たいの。でも一人だと怖いからここで見てるんじゃない」
「夜寝られなくなるぞ」
「大丈夫。お兄ちゃんと寝るから」
怖がりなくせにホラー映画などを見たがる瀬那は、怖いものを見た日は一人で寝るのが怖いので、いつも歩の部屋に潜り込むのだ。
今日とて、映画を見た後で一人お風呂に入るのは怖いので先に入ってきた。
この映画にはお風呂の場面があるからだ。
そんな何気ないことを話すと、枢が眉間に皺を寄せる。
「まだ兄貴と寝てるのか?」
「こういう時だけね。普段はそんなことしないもの。けど、お兄ちゃんは嬉しそうにしてる」
「はあ、シスコンだな」
「そこは否定しない」
なんだかんだで瀬那に甘いのが歩なのだ。
そこへタイミング良く歩から電話が掛かってきたので電話を取る。
「はい。お兄ちゃん、仕事終わった?」
うんうんと、歩と話をしていた瀬那の顔が段々と強張っていくのが分かり、枢は何かあったのかとコーヒーカップをテーブルに置いた。
「そんな! 無理無理無理! 今ホラー映画見てたとこなのに。……えっ、嘘! ちょっと、待って」
プツリと切れたスマホを持ってぼう然とする瀬那に枢は横に座り心配そうに声を掛ける。
「瀬那? どうした」
声を掛けられた瀬那はハッと我に返ると、枢の手を取って「枢、今日ここに泊めて!」と懇願した。
これには、普段クールな枢も「はっ?」と、呆気にとられた。
「お兄ちゃんが仕事の都合で、帰るの朝方になるって言うの。こんなホラー見た後で一人で家にいられない」
必死の様子の瀬那とは違い、枢は呆れが全面に出ている。
「だから、見なければ良かっただろう」
「だって、お兄ちゃんが帰ってこないなんて思ってなかったんだもん! だから泊めて。寝るのはこのソファーでも良いから」
「あのなぁ……」
さすがの枢も困っているのが分かる。
「駄目? いいでしょ? というか、駄目って言われても居座る!」
見なければ良かったと思っても、見てしまったものはしょうがないのだ。
けれど、瀬那は枢が困っている理由を分かっていなかった。
「あのなぁ、一人暮らしの男の家に泊まらせるわけにはいかないだろう」
「別に彼氏の家にお泊まりとかおかしくないでしょう?」
「そうじゃなくて……」
枢はじっと瀬那を見る。
何が問題かと不思議そうにする瀬那に、一つ溜息を吐くと、瀬那を引き寄せて抱き締める。
キスができそうなほどに近くなった枢の綺麗な顔に瀬那は息をのむと、枢は瀬那の頬に指を滑らせる。
「男の部屋に泊まるってことは、こういう覚悟もできてるってことと受け取るが、良いのか?」
「はうっ!」
突然妖しげな空気をかもし出す枢の言葉の意味を理解した瀬那は顔を赤くして枢と距離を取ろうとするが、枢の腕の力の方が強くてうまくはいかなかった。
瀬那の様子からその様なことを一切考えていなかったことが窺える。
「俺も男だ。好きな女が側にいて手を出さないでいられる自信はないぞ。それとも、俺の理性を試してるのか?」
到底高校生とは思えない色気を出して問う枢に、瀬那は力の限り首を横に振った。
すると、あっさりと解放される。
「なら、不用意なことは言うな」
枢の言いたいことは瀬那も理解した。
少し不用心だったことも。
「うっ……でも、でも、一人でいるのはやっぱり怖いからここにいる!」
枢の忠告をもってしても瀬那の意思は変えられなかった。
枢があからさまに深い溜息を吐く。
「……分かった」
折れたのは枢の方だった。
「けど、別の所に移動する」
「別の所?」
「ここで襲われたいか?」
「滅相もございません!」
どこかに電話をしだした枢は電話を切ると、瀬那に出掛ける準備をするように告げる。
と言っても、瀬那が持ってきたのは勉強用具ぐらいだ。
それを持って家を出た二人は、マンションの前に横着けされた車へと乗った。
どうやら枢が移動時に使っている専用車のようで、専属の運転手付き。
瀬那は久しぶりに枢が一条院財閥の御曹司であることを思い出した。
車はそのまま二人を乗せ発車した。
「どこに行くの?」
「ノワールだ」
ノワールというと、繁華街にあるという枢が仲間のために作ったという噂のクラブである。
「クラブに行くの?」
「正確には元クラブだった所だ。閉店になったクラブをリフォームして、ノワールの奴らが集まれるようにしたんであって、今は店じゃない。俺の別宅みたいなものだ」
「別宅なの?」
「少し前までは週の半分はそこで過ごしてた」
「今は違うの?」
「好きな女が毎日家に来るのに他へ行くわけないだろ」
さらりと瀬那を嬉しくさせる言葉を使う。
枢ぐらいの年頃なら恥ずかしがりそうなセリフも、枢は当たり前のことのように口にする。
瀬那はそれに対して何かを言うことはできず、無理矢理話題を変えることでしか話を続けられなかった。
「てっきり不良の溜まり場みたいなのだと思ってたけど、違うのね」
「たまに不良に目を付けられて喧嘩になるが、ノワール自体は健全な場所だ。集まる奴らは良いとこの坊ちゃんが多いからな。それに進学校ってこともあって、勉強会みたいなのを毎日開催してる。俺はそんな奴らに場所を提供してるだけだ」
瀬那が噂で聞いていたノワールという場所とは随分イメージが違う。
「もうすぐ試験がある今なら、泊まり込みで勉強しに来てる奴らがけっこういるだろう。中には塾に行けない奴もいたりして、そんな奴らに勉強を教えてやろうってのも集まるから」
「だから、私にも勉強用具持っていくように言ったんだ」
「ノワールには参考書や辞書も色々と置いてるから、あの家で勉強するよりはかどるだろう」
襲われたいかなどと不穏なことを言っていたが、ちゃんとそこを選ぶ理由があった。
まあ、二人だと襲いたくなるというのは決して嘘ではないのだろうが。
しかし、瀬那は大事なことを忘れている。
ノワールには、学校の生徒達がたくさんいるということだ。
現在、瀬那が枢と付き合っていることはほとんど知られておらず、二人が揃って現れたらどうなるか。
それはすぐに分かることになる。
車が止まり、先に枢が出て瀬那も後に続こうと降りようとすると、枢が手を差し出してくる。
その手を取り車を降りると、その手を枢は絡めるように握る。
これがいわゆる恋人繋ぎというものか!と、衝撃を受けている瀬那の心を知らず、そのまま瀬那の手を引いて外観はお店のように見えるそこへ入っていく。
玄関を入りさらにその奥の重厚な扉の中に一歩踏み入れたら、家のリビングのような空間が広がっていた。
元クラブなので中はとても広く、クラブの名残を見せる中二階の席がある。
枢が姿を見せたことにすぐにそこにいた人々は気付く。
「あっ、枢さんだ」
「最近来てなかったよな」
枢のことに気を取られていた彼らだが、手を引かれて後から入ってきた瀬那にもすぐに気が付いた。
「えっ! あれって神崎さんじゃね!?」
「マジだ、神崎さんだ」
「えっ、ちょっと待って。手繋いでるんですけどぉ!」
「うそだ。誰か嘘だと言ってくれぇ。俺らの天使がぁ!」
「まさかまさかまさか、あの二人付き合ってたのかー!」
阿鼻叫喚となってしまった場で、瀬那はようやく気付く。
枢との関係が生徒達にバレてしまったと。
今さらではあるが、枢との手を離そうとしたものの、その手はギュッと握られていて離れない。
「枢。バレちゃうよ……」
「前にも言っただろう。俺は特に隠す気はない」
「確かにそう言ってたけど……」
そこにいる人達の反応を見て、もう遅いと悟った瀬那は、仕方ないと覚悟を決めて枢の手を握り返した。
「あー、週明けが怖い」
「諦めろ」
「人ごとみたいに」
恨めしげに枢を見上げるが、枢に効いた様子はない。
手を握ったまま、枢は部屋の中を横切り、中二階へと向かうと、そこにはソファやらテーブルやらが置かれていて、一つの生活できる部屋になっていた。
そんなソファーには、総司が雑誌を開いて横たわっており、向かいには瑠衣が座りパソコンをいじっていた。
二人は枢を……正確には瀬那を連れた枢を見て驚いた顔をしている。
「下が騒がしいと思ったらそういうこと」
「えっなに? 手繋いじゃって、お前らそういう関係だったの?」
総司が目ざとく握られた手を見てそう問うと。
「ああ。付き合ってる」
枢はなんの躊躇いもなく肯定して見せた。
すると、下から「ぎゃぁぁ、やっぱりそうだってよ!」と、悲鳴が聞こえてきたが無視することにした。
空いているソファーに二人並んで座ると、瑠衣と総司の視線が集まる。
「はあ、愛菜が知ったら大騒ぎしそうだな」
「いや、絶対するだろ。面倒臭ぇ」
それには瀬那も激しく同感である。
「それにしても、二人がねぇ」
瑠衣が品定めするような目で見てくるので、瀬那は居心地が悪いといったらなかった。
「瑠衣」
嗜めるように枢が名を呼べば、瑠衣は芝居がかったように大袈裟に肩をすくめた。
「はいはい。何もしないよ。最近枢がここに来ないと思ったらそういうことだったわけだ」
「ああ」
「神崎さん」
突然名前を呼ばれた瀬那はビクッとして背筋を伸ばす。
それを見た瑠衣は苦笑を浮かべた。
「何も変なことしないから怯えないでよ。枢とのことをどうこう言うつもりはないんだけど、忠告だけしておこうと思ってね」
「忠告?」
「そっ。知ってると思うけど、枢には熱狂的なファンクラブがいてね。きっと今頃下の奴らが噂を広めてるだろうから、週明けには学校中知られてると思うよ。そのファンには気を付けてって言っておこうと思っただけだよ」
瀬那は神妙に頷いた。
それはもう、枢と付き合う時から覚悟の上だ。
「枢のファンのことは考えがあるので大丈夫、だと思う」
「へぇ、さすがあの花巻さんに喧嘩売っただけあるね」
瑠衣は感心しているようだが、瀬那には茶化されているようにしか聞こえない。
「くっ……」
吹き出すような声が横から聞こえて見ると、枢が口元を手で隠し笑いをこらえていた。
「かーなーめー」
きっと、瀬那が花巻さん達を相手におこなった大立ち回りを思い出したのだろう。
恨めしげに見れば、さっと視線をそらした。
「笑うなら大声で笑えば?」
「笑ってない……」
「説得力ない!」
ふと見ると、瑠衣と総司が目を丸くして呆気にとられていた。
「あの……」
瀬那が声を掛けると、瑠衣は我に返ったようだ。
「あー、ごめん。枢がそんな風に笑うなんて珍しくて」
総司が同意するようにコクコクと頷いている。
「本当に付き合ってるんだね」
「さっきからそう言ってるだろ」
「だって、あの枢だからさぁ。信じられないって言うか……」
「同感」
「まあ、愛菜につけいる隙はないってことがよく分かったよ」
「その新庄さんですけど、彼女はそっちでなんとかしてくれませんか? 枢のファンはなんとかする自信があるんですけど、彼女はさすがに……」
苦い顔をする瀬那に、瑠衣は申し訳なさそうにする。
「まあ、できるだけのことはしてみるよ。けど、無駄にポジティブっていうか、空気が読めないっていうか……」
「くれぐれもお願いします」
念を押してお願いする。
愛菜への対処法は瀬那の辞書には載っていないのだ。
そこから世間話をしていた瀬那のスマホが突然鳴る。
着信相手は美玲だった。
「美玲?」
『瀬那ちゃん、大変だよ』
「どうしたの?」
『友達から連絡が回ってきて、瀬那ちゃんと一条院様が付き合ってるって』
「えっ、もう美玲の所まで回ってきたの?」
『うん。瀬那ちゃんと一番仲がいいのは私だから、さっきから通知音が鳴り止まないよぉ。どうして急に?』
「今私ノワールにいるの。多分そのせい」
『あー、なるほど。それで』
まさかこんなに急速に話が回っているとは瀬那も予想外である。
「月曜日、学校行きたくない……」
『そんなこと言ってたらずっと行けなくなるよ』
瀬那は深い溜息を吐いた。
「早急に対処法実行できるようにしておかなきゃ」
『その方が良いと思う。絶対に呼び出されるよ、瀬那ちゃん』
頑張ってと、応援されて電話を切った瀬那は、月曜日のことを考えて憂鬱になってきた。
「勉強する気なくしてきた……」
うなだれる瀬那の頭を枢が優しく撫でた。
「何かあったら言ってこい。俺が対処してやる」
「枢が出てきたら余計に悪化しそうだけど、その時はお願い」
そうならないことを願うばかりだ。




