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高鳴る心




 翌日、いつも通りの昼食の時間を非常階段で過ごしている。


 特に話題がなければお互い口も開かない沈黙が支配する穏やかな時間。


 あまりにいつもと変わらない枢の様子に、昨日のことは夢だったのではないかと思い始めていた。


 しかし……。

 お弁当を食べ終え、枢が先に立ち上がった。

 瀬那が食べ終わった弁当箱を片付けていると、目の前にチャリンと吊り下げられた鍵が目に映る。



「えっ?」



 何かと不思議そうに枢を見上げる。



「俺の家の鍵だ。俺がまだ帰ってなかったら先に入ってろ。部屋は最上階だ」


「…………」



 口を開けてポカンとして鍵を受け取ろうとしない瀬那に枢は焦れたのか、瀬那の手を取って無理矢理手のひらに乗せると非常階段から去って行った。



「……鍵……もらっちゃった……」



 あの一条院枢の部屋の鍵を。


 瀬那はハッとすると、きょろきょろ周囲を見回した。

 この場面を誰かに見られていないだろうかと不安になって。


 もし、誰かに見られでもしたらその日の内に学校内に話が駆け巡り、枢のファンに知られることになって、そして血の雨が降るかもしれない。


 もちろん降るのは瀬那のだ。


 なんて恐ろしいアイテムを渡してくるのかと、背筋が寒くなった。




「こんなものサラッと渡すなんて」




 枢は何を考えているのか、やはり枢という存在は瀬那には理解しがたい。



 けれど、手の中にある冷たい感触は、昨日の話が夢ではなく現実のことだったと瀬那に教えてくれる。



「本当にいいのかな……?」



 好きな人というのはどうしたのか。

 勘違いされても知らないぞ、と悪態をつきつつ、瀬那の口元は小さく笑っていた。





 そして、その日学校から帰ると、一旦自宅で着替えて宿題を終わらせてから、鍵を持って枢の言う最上階へとやって来た。


 最上階としか聞いておらず、どの部屋か詳しく聞いておくべきだったという悩みは最上階へ来て消え去った。



 なんと、最上階には部屋の扉が一つしかなかったのだ。


 最上階には来たことがなく、瀬那はマンションの造りを知らなかったので、これには頬を引き攣らせずにはいられなかった。


 なにせここは高級マンションと言われる所で、瀬那の住む普通の部屋でも十分な広さがあり、なおかつお高い。


 それをまさかぶち抜いて最上階丸々使っているとは……。


 さすが、一条院の御曹司。

 やることが庶民とは桁が違うと思い知らされた。



 そんな人にこれから自分の手料理を振る舞おうと言うのだから、身の程知らずこの上ないのではないかと、瀬那は今さらになって尻込みしてきた。



「行くべき? ……いや、約束したんだし、行かないと駄目だよね。うーん」



 本当にいいのか?と自分自身に何度も問い掛けていると、ガチャリと扉が勝手に開いた。



「そんなところで何してる」



 頭を抱えている瀬那に、枢が呆れたように声を掛ける。




「えっ、なんで来てるって分かったの?」



 すると、枢は親指で天井の一角を指した。

 そこには小さいがカメラが付いていた。



「あっ、防犯カメラ……」



 ということは、瀬那がここで悶々と悩んでいる所を見られていたということだ。

 途端に恥ずかしくなった。




「や、えっと、これはその……」


「いいから早く入れ」


「……はい」



 恐る恐る部屋の中に入っていくと、中の造りは瀬那の家とあまり変わりなさそうだった。


 まあ、大きさはそれなりにあったが、それよりも瀬那の目を引いたのは、リビングの外に見える庭だった。



「わぁ……」



 マンションの最上階ということを忘れさせられるようなイングリッシュガーデンが広がっていた。



「凄い、綺麗!」


「気に入ったのか?」


「うん!」



 興奮して返事をしてから我に返る。

 瀬那はすっかり枢を忘れてはしゃいでしまっていた。



「あ……ごめん」


「何がだ?」


「はしゃいじゃって」


「いや。気にするな」



 そう言って微笑む枢。

 最近の特に枢のこういう優しい笑みを見ている気がする。



「あ、じゃあ、ご飯作るね」


「ああ、こっちだ」



 キッチンに案内されると瀬那の家の物と同じ国内メーカーの物で揃えられていたので使い方は心配なさそうだった。


 勝手に外国の高級メーカーを使っていそうなイメージをしていたので逆の意味で裏切られて助かった。


 だが、よくよく見てみれば納得だ。

 それらには全て一条院財閥のメーカーばかりだったからだ。


 そう言えば、備え付けのキッチンやコンロと言った家電から、マンション内にあるジムの器具まで目に付く物は一条院財閥の物だったなと思い出した。



 そんなことを考えていて手が止まっていた瀬那に枢が声を掛ける。



「何か問題でもあったか?」


「ううん、何でもない。ちょっと考え事してただけ」


「何を考えてたんだ?」


「うん、このマンションにあるのは一条院財閥が関わってる物が多いなって。それだけ」



 別にたいしたことではない。

 が、枢は納得したような顔をした。



「ここは一条院が建てたマンションだから、一条院で揃えられる物は全て一条院の物で揃えられている」


「そうなの?」


「ああ。俺がマンションの所有者だからな」


「えっ!?」



 これには瀬那も驚いた。



「祖父が誕生日に贈ってきた」



 枢はなんてことのないように言うが、とんでもない話だ。




「一条院半端ない……」



 こんな高級マンションをポンと贈るとは、瀬那の価値観では想像もできない。


 やっぱり住む世界が違う人なんだなと、瀬那は何だか心が沈んだ。



 一緒に昼ごはんを食べて、こうして話をして、普通に接しているが、本来なら瀬那の手の届かない人なのだ。



 勘違いするな。



 そう誰かに言われているような気がした。



「ご飯作るね」



 落ち込む心を隠すように、瀬那は笑顔を浮かべる。



「なにか食べたい物ある?」


「……いや、何でも良い。冷蔵庫の中の物は好きに使え」


「うん。ありがとう」



 そうして枢はリビングのソファーに座った。

 対面キッチンなので、枢の様子が見える。


 枢を気にしないように背を向けて冷蔵庫の中を漁ると、とてと一人暮らしとは思えない食材の量が冷蔵庫を占めていた。



「これ、本当に使って良いのかな……」



 瀬那が手に取った肉はA5ランクの霜降り肉。

 さらに無農薬野菜に、キャビアの瓶まで発見してしまった。

 いったい瀬那にどんな料理を期待したのか。



「えっと……枢?」


「なんだ?」



 キッチンから呼び掛けるとすぐに返事がした。



「私が作れるのは普通の、本当に普通の家庭料理だからね」



 こんな高級食材を揃えられても、プロの料理人のような料理は不可能だと暗に告げて念を押す。



「ああ。それでいい」



 その返事にほっとしつつ、料理に取りかかった。



 無難に魚を焼いて、野菜を炒めて、具沢山の味噌汁を作った。

 ダイニングテーブルに並べて席に着く。


 本当にこんなので良いのかと不安になりながら枢の様子を窺っていると、特に嫌な顔をすることもなく食べ始めた。


 食べ方も綺麗だなんて思いながら、あまりにも見過ぎていたのだろう。



「食べないのか?」



 そう言われて、瀬那は慌てて目を逸らして箸を持つ。




「うまい」




 ぽつりと告げた枢の言葉に、顔を上げた瀬那は嬉しそうに微笑んだ。



 食事が終わり食器を洗おうとすると、後ろに枢が立った。



「洗うのはいい」


「えっ、でも……」


「それぐらいは俺でもできる」




 食器を洗う枢を想像してしまい、あまりに似合わなさすぎて瀬那はクスクスと笑った。



「なんだ、急に?」


「だって、枢が食器を洗ってるなんて凄く貴重」


「俺だって食器ぐらい洗える」



 怒っているわけではないが、不服そうに眉間に皺を寄せる枢に、瀬那はもう一度笑った。



「ふふふっ。スマホ持ってくれば良かった。そしたら貴重な姿の枢の写真を撮るのに」


「……そんなに撮りたいなら、また明日撮ればいいだろ」


「明日?」


「そうだ。明日も明後日も、これからいつだって機会はある」



 そっと、枢の手が瀬那の頬に添えられる。


 枢の漆黒の瞳が瀬那を見下ろしていて、目がそらせない。


 これほど近くその瞳を見つめることになるだなんて、少し前の瀬那には思いもしなかった。



 ずっと気になって、気になったけど決して近付けない。


 その瞳が目の前にある。

 目の前でその瞳に瀬那を映している。



 金縛りにあったように動けなくなった瀬那に、枢がゆっくりと顔を近付けていく。



 段々近付いてくる枢を見つめ続けた。


 そして、互いの唇が触れそうになった時、枢のスマホが音を立てて鳴り出して、瀬那は我に返った。



 枢が小さく舌打ちしてスマホを取りに行くのを見送ってから、瀬那は赤くなる顔を両手で隠した。



 少しして戻ってきた枢に、瀬那は早口でまくし立てた。



「瀬那」


「わ、私もう帰るね! また明日っ」



 慌てて飛び出し、枢の部屋を後にした瀬那は、自分の部屋に入って、その場にへたり込んだ。



 バクバクと心臓が激しく鼓動している。


 あのままスマホが鳴らなかったら……。


 そう考えると、再び顔に熱が集まってきた。



「どうしよう。明日顔見られない」






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