夏かしむ
夏の記憶、うらやましい。家族と海に行ったこととかは覚えてるけど、他はとくにない。
夏の墓地、昼だった。微笑を見た。あの子の笑い方になんか、性的なものが込み上げた。汚らしい感じ、正当化できない感じが、今は愛おしい。なんでか分からない。
あの子の絵を描いてる。それ以外のことは手につかねぇ。朝の光は邪魔くさいからカーテンは閉めた。だが、見ておかないと気が滅入る。ちらりとやるが、窓越しじゃ足りねー気がする。だから外歩く。長い坂道を目指す。場所じゃなくて、坂道を目指してる。いったいどこからが坂道だというのか、途中まで行ってそう思う。そう思うと帰る気になってくるが、空を見てるとそれも可笑しな気分で紛れる。鬱ってのはこういう感じかもしれねぇ。風が気持ちいい。満足したら、汗を拭きに家に急ぐ。その間にまた汗、喉も渇くが、どうだっていい。今はもうあの子と歩いたことで頭がいっぱいだった。思い出したくないことほど、鮮明に思い出せるもんだ。バカらしい。
そしたら次、次。考えないといけないのはあの子の笑い方をどうやって思い出すか。無暗やたらに光にまみれてやがる記憶を、どうにかして晴れやかにしないといけねぇ。だがその作業に着手できたことはねぇ。なぜなら、方法が分からねえからだ。いっそこのままの方が、俺は彼女を壊さなくて済む気がする。自殺なんかする女がまともなわけはねぇ。俺は絶対に後追い自殺なんかしねぇ、思い立ってもしねぇ。永遠に俺の中に残れるだとか、そういうことを考えていたとしたらそれは成功だ。いや、もしかすると俺の事なんか覚えてなかったのかもしれない。だが別れた覚えはなかった。なかっただけで、ついでに言葉もかけてやらなくて、会話もしなかった。彼女が死ななかったら俺は忘れて生きていた。なに考えてたのか知らんけど、バカなやつだ。俺も変わらねぇ、いや、それ以上に俺はバカなのかも分からねぇ。
感傷はとっくに過ぎてしまって、今は夏の暑さに頭をやられる時期なんだろう。涼しい夜になるとやけに眠くなる。夕方くらいからウトウトし始めて、覚えていられる保証もないのに夢を見たくなる。夢から覚めた時の妙な清潔感が、唯一俺をまともな人間にしてくれる…そんな気がしている。多分そんなことはねぇ。
絵は毎日少しずつ描いている。多分描けている。だが、どうしても進んでるように見えない。というか、机に放ってある絵を遠くから眺めた時、妙に違和感がある。しかしそれでも、今更描き直すとかいう考えには至らない。無視して描く。もう、とにかく完成さえすれば良いって思う。どうせ碌な絵にはならねぇんだから、好き放題描いた部分だってある気がする。かと思えば、随分真面目に描いちまった部分もあって、それはそれで手直ししたくなる。だが、この絵に時間を掛けるのがバカらしい。最近はなにもかもバカらしい気がしてきて、いっそ死んじまうのもありだと思っている。だが絵は描かないと、とにかくこれだけは完成させないといけねぇ。はっきりさせないと死んでも死に切れん。いっそ色まで塗ってやる。
夏がやってくるのがそもそも間違いだったのか。あん時のアイツの呆けた顔をなんとなく嫌に思った。こいつはジジイになったらこんな顔でボケるんだろう、そんな事を思った。窓から差し込む日差しが教科書の片方を照らす。それもなんだか印象的に思えたが、それよりももっと覚えてることがある。それは、あの子が黒板にチョークで書いた字が間違ってたこと。それを誰も指摘しなかったこと。いつも通りに超然とした態度で授業を受けるあの子を眺めてると、なんか不思議な感じだった。それからだ、あの子のことを気にするようになったのは。あの子は文化祭とか修学旅行とか、そういうの全部欠席していたが、卒業式には来た。放課後になった後、俺には一世一代の冒険衝動が生まれた。なんか、とにかく、あの子と一緒に写真を撮っておきたくなって、校門を出ようとしていた彼女についに話しかけた。あの子は超然とした表情や態度とは裏腹に、怯えるような声で言った。
「なんで、私?」
俺はその言葉を覚悟して話しかけたが、その返答は考えても用意できなかった。だからとにかく、右手でカメラを持ち上げて、レンズを自分たちの方に向けて少しあの子に近寄った。あの子はそれに少し戸惑ったような表情を見せた(俺にとって意外な表情に思えた)が、すぐにいつもの…いや、それよりもちょっと不服そうに眉を垂らした顔をした。少ししてカメラがカシャッと鳴ると、俺はカメラに保存された一枚の画像をすぐに確認した。あの時はなんか、彼女が映っていることを早く確認したかった。幽霊でもなし、まぁもちろん映っているに決まっているのだが、それを見て心から安心した覚えがある。多分アンニュイ、流し目。憂鬱っぽいやつ。妙に印象的だった。残念だがその写真はここにはねぇ。なぜなら、カメラごと彼女に渡しちまったから。写真のままの表情で、無言でカメラを受け取ると、彼女は少し考えたような顔をして…不意に、俺の手を握って学校の外へ歩き出した。俺はその時、途轍もない速さで心臓を鳴らしていた…なにを期待しているんだか分からないが、とにかく俺は手を引かれるままに歩いた。道中、彼女の手を強く握り返したい衝動に襲われたが、それは結局しなかった。できなかった。
着いた先が例の墓地だ。昼だった。微笑を見た。それはもう絵にかいたような儚さだった。それで俺は抑えきれなくなって言った、「俺と付き合ってくれないか?」と。彼女は驚くほどあっさり了承した。嬉しいやら戸惑うやら、そん時はもう訳が分からなかったが、今も彼女の考えていたことは分かっていない。それっきり、あの子とは会わなかった。どこに進学したのかは知っていたし、少し遠いが自分から会いに行くことはできた。だが、なぜだかあの子は俺のことを忘れていないような気がして、そんな思い込みに甘んじて、俺は彼女に会いに行こうとはしなかった。もう一度会うのを怖がっているのも自覚していた。俺は本当のあの子を知らなかったから。
あの子が自殺したのは、今からちょうど2年前の同窓会で、仲の良かった女子のクラスメイトから聞いた。ビルの屋上からの飛び降り自殺。いつ死んだのかと聞くと、同窓会の2日前だったという。俺はそれを聞いて久しぶりに彼女のことを思い出すと同時に、言いようのない恐怖感を感じた。2日前。もしかしたら同窓会の時期に合わせたのか。なぜ?俺に自分の死を知らせたかった。飛躍しすぎているが、そう思うととにかく不気味に思えた。彼女には死ぬほどのことがあったのか。もしかしたら全然関係なく、ただの出来心だったのか。とにかく、どうあっても、俺には彼女のことが分からない。不気味で、恐ろしい。その時ばかりは、過去の出来事を思い出したくなかったなどと本気で思ってしまった。
俺は画家だ。売れない画家だ。近々、生活資金もどうにもならなくなりそうだ。今までは頭下げて嘘ついてどうにか生きてきたが、今度ばかりは上手くいきそうにない。誰かに見せもしない絵は売れないが、コイツは生涯売り物にできる気配もない。第一、売ろうという気にならねぇ。だからこんな生活になるんだが、俺にはもう、生活に固執する理由が見当たらないでいた。この絵を描き終えた頃には多分、世の中に秋が来ているだろう。
僕が主人公だったら絶対忘れないわマジで。ご清覧ありがとうございます。




