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Avalantear アバランティア  作者: 海豹
第二幕 ―承―
58/68

月下の悪戯 ―小さな箱庭―

 空に細い月が見える。あれは二十六夜の月だと、見上げて大あくびを零すテラ。


「敏感すぎるのも考えものだな」


 病室の時計は深夜三時を指示していた。彼はルナン邸の庭にいる。入浴後すぐにベッドに入ったのだが、ふと人の動く気配を感じて目を覚ました。

ただ、なんてことはない。レイスがせわしなく寝返りをうち、リオールが小さくくしゃみをしただけだった。テラは耳が良く、ひどく大きな音に感じたのかもしれない。その後も、ちょっとした音が耳について寝れそうもなかったので、こうして夜の散歩に繰り出したのである。


 柔らかなベッドで眠ることも彼にとって久しいことだった。眠りを妨げているのは己の敏感さだと、自身を分析する。

牢の中はひどく寒くそして孤独だった。人の気配があるときは、研究者か頭の悪い看守が近くにいるので、自然と身構えてしまう癖がついていた。今更だがあのような場所で五年も正気を保てたことが信じられない、とテラは自嘲気味に笑う。


「おっと」


 しかし、この庭。どうなっているのやら。テラは目を凝らして己の足元を睨む。地面の土に紛れて分かりにくくしているが、そこには白い文字が書き込まれていた。魔術に関する知識がない彼にも、それが何かの紋章だということは分かった。そしてこれには触れないでおいた方がいいということも、理解していた。この庭には危険仕掛けがあるのだと、涙ぐみながら教えられていれば、さすがに無謀なことをしようとは思わない。

 テラは大股でその文字をまたぎ、何事もなかったように先を進む。彼の散歩コースは忠告通りルナン邸の周辺だけに留められていた。しばらく歩いていると、一陣の風が彼の耳に届く、そして金木犀の甘い香りも。風は優れた五感を持つ彼に多くの情報を与えて、過ぎ去っていった。


「平和な夜だ」


 危険は今のところはないな。テラは再び出かけたあくびを噛み殺し、腕を天に突出し大きく伸びをした。


 ふと、物音が玄関先から聞こえたような気がして、テラは動きを止めた。


 彼はちょうど、屋敷の四分の三を回り切り、玄関先の様子を伺える位置にいる。こっそり伺ったのは別段意識して行ったわけではなかったが、彼は自然と身を隠すことを優先させていた。


「……レイス?」


 物音はやはり玄関の扉を開く音だったようで、軽やかな足取りで外に出てくる人影。意外にもそれはレイスだった。テラの記憶が正しければ、ベッドで高いびきを掻き、ぐっすり眠っていたはず。彼も目が覚めてしまったのだろうか。物音を立てずに自分は外に出たつもりだったが、起こしてしまったのではないかと、テラは一瞬気まずくなる。


「せいっ!」


 そんな思考も、突然上がった鋭い声に途切れた。

 レイスは、いつもの装備をはずして幾分かラフな格好でいたが、抜き身の愛剣を手にしている。腕を高く上げ剣を振り上げると、眼前に敵がいるかのように、容赦なく空を斬りつけた――つまり、素振りをしているのである。


 こんな時間に、鍛錬か。テラは、続けて様々な型で空を斬るレイスを見て目を丸くしていた。

 傭兵は己の強さが売りの職種だ。だから日々、己の腕磨きの為に鍛練はつきものなのだろう。とはいえ、実際に目にしてみると迫力があった。テラは自分の腕に視線を移す。彼の付け焼き刃の槍さばきは、到底鍛錬を重ねたレイスに及ばない気がした。実験で不本意に手に入れた力と、優れた五感があるが、中身の伴わないそれが今後の逃走でどこまで通用するのか……ふと不安に駆られる。


「せいっ!」


 レイスの動きが激しさを増した。ただの素振りから、型の練習、そして走りながらの戦法。順序を踏みながら行われる鍛錬は、今までの戦闘スタイルより派手な印象を受ける。テラはその動きを感心しながら眺めつつ、これが鍛錬というものなのだな、と一人頷いた。

 レイスの攻撃は、頭の悪さと反比例して細やかでかつ計算づくのテクニカル。剣の動きも複雑で、テラにはいつも剣舞のように見えていた。だが、目の前で行われている動きはまるで真逆。大胆で、豪快。力を入れた攻撃は、単純で分かりやすい動きだが、それゆえ迫力がある。


「鍛錬とは、いつもいつも同じことを繰り返すものだと思っていたが、存外違うんだな」


 明らかに様子が違うレイスに、何となく違和感を覚えながらも、戦士の世界は奥深いものだとテラは唸った。


「誰か、そこにいるのか!」


 その時、レイスの剣先がこちらに向く。刃が月の微かな光を反射して、淡い光を放っていた。


「俺だ」

「……テラか」


 もともと隠れているつもりはなかったので、素直に姿を見せるテラ。レイスはぽかんと口を開けて驚いたようだが、元気よく手を振ってきた。


「こんな時間に鍛錬か」

「まあ、そんなところか」


 剣を水平に構え、突きの型の体制を取ったレイス。テラは間合いの内側に入らないように近づいてみると、彼の額には既に汗が浮かんでいた。


「休まなくていいのか」

「あ? いや、それはそうなんだろうけど」


 歯切れの悪い返事。レイスはテラの質問に困惑したように苦笑いする。


「体を動かしてなかったから、ここずっと。……だから、体を慣らしておきたかった」


 悩んだ挙句そう言った彼は、その間にもひたすら虚空に突きを繰り出す。剣を振るう姿は、真剣味を帯びていて、病室で安らかに眠っていた時の間抜け顔が、そこには無い。


 ワンステップの踏込で鋭い一撃を放っては、一歩下がる。そしてまた踏み込んで、右腕を鋭く突き出す。その繰り返し。よく見れば、右手首はひねりを効かせており、相手の身体を抉り取るような力強さがある。一連の動作は単純だが、流れるような無駄のない動きだった。テラは頭の中で彼と対峙するイメージを浮かべたが、まるでつけ入る隙がない。


 その後もテラはレイスの鍛錬を無言で観察した。なぜか目が離せなくなったのだ。

 片手で振るわれる剣は、空気を斬る度に低く唸り声をあげる。そして、踏込と後退の足運びが砂を激しく擦り、音は絶え間なく響いた。非常に激しい動きだった。


 しばらくするとテラには、レイスの前にいないはずの対戦相手が見えるような気がしてきた。それはレイスが、架空の敵を想定して剣を振るい始めたからである。

剣を繰り出す先の最高位が、いつもレイスの頭上……かなり背の高い人物。攻守の型の入れ替わりの早さから、相手は素早い攻撃を得意とするのだろう。テラはぼんやりと架空の人物の影を、目の前に想像する。


 するとレイスの一人芝居が、突然色鮮やかな戦闘風景に切り替わった。


 架空の相手はレイスの頭を狙う。

 レイスは剣を引いて体を反らせると大きくバックステップ。

 再び前に踏み込んで、逆手に持ちかえた剣を腰のあたりから頭上へと切り上げる。

 相手はそれをよけて懐に入り込む。大きく振り上げたレイスの胴体はがら空き。

 相手の方が動きが早い。

 剣を振り戻す時間が無いレイスは、上に振った剣の軌道を、空いていた左手で柄頭を押さえつけることで、無理矢理刃を己の体へ向けて押し戻す。まるで切腹するかのように。

 慌てて、相手は間合いから後退する。

 追撃すべく、脇にそらした剣を左手で順手に取る。

 そのまま水平に剣を薙ぎ払おうとして


――剣を落とした。


「……」


 乾いた音がテラを現実に引き戻す。対戦相手の影が靄のように脳内から消えた。突然何の脈絡もなく動きを止めたレイスは、苦々しい表情で左手を睨みつけている。


「あのバカが。よくこんな腕で……」


 低く、小さく呟いているつもりなのだろうが、テラの耳にはしっかりと聞こえる言葉。意味はよく分からないが、随分不機嫌そうである。 

 レイスは数十秒間そのまま停止してから、ようやく剣を拾い上げる。その際、目がふとテラのいる方へと向けられた。


「……っ!」


 その瞳に一瞬殺気が纏っているような気がしてテラは背筋が凍った。明らかに雰囲気が違う。


「あ」


そこでテラがいたことを思い出したのだろう。レイスははっと我に返るように目を丸くした。とたんに空気が緩む。緊張が解け、テラは無意識に深く呼吸をした。


「まだいたんだな、気づかなかった」


 レイスは先ほどの険しい表情などなかったことのように、笑みすら浮かべている。


「俺の剣技なんて見て楽しいか?」


 変な奴だな、と笑うレイス。テラはそんな彼をまじまじと見つめる。先ほどの別人のような表情のかけらを探すように。


「何?」


 レイスは不思議そうに、テラの顔を見返す。


「お前は……」


 今、俺を殺そうとしただろ。


「?」

「いや、なんでもない」


 テラは、深く息をついた。おそらく、レイスは自分の存在を忘れていたことで、害敵の気配と勘違いしたのだろう。深く考えることでもないじゃないか。テラはあの一瞬の疑問をそう結論づけた。結論付けてみると、それが正しいと思えた。


「さて、俺はそろそろ寝る。お前もほどほどにしろよ」


 安心したせいか、どっと眠気が襲いかかってきた。テラは欠伸を零して踵を返す。


「え? ……ああ、分かった」


 結局なんだったんだ? レイスは間の抜けたような声で返事をしてきた。それを背中で聞きながら、やはりあれは何かの勘違いだったのだと、テラは納得した。

 玄関の扉を開き、音を立てないように足音を忍ばせる。テラは後ろ手で扉を閉めながら、一瞬だけ背後に目をやった。


 新月前の淡い月光に照らされた金髪が、なぜか緑かかって見えた。




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