月下の悪戯 ―摩天楼―
夜も更け、ナイフのように鋭い月は空に昇っている。明日は新月だな、とつぶやくアベルは一人。彼に宛がわれている執務室は照明を落としており、暗い。より一層外から入り込む光が強く感じられる。つなぎ目のない巨大な窓に寄りかかっていた彼は、深く息をついた。
新月を前にした月の光は、眼下で輝くネオンに比べると囁かで、弱々しい。それが儚げで趣があるのだと言うものがいるが、そもそも明るすぎる街が月光を阻害していることを分かっているのだろうか。アベルは温いコーヒーを口に含んで、窓から離れる。
この街は未熟だ。アバランティアのエネルギー開発が進み、異常な速さで豊かさを手に入れた、世界最高の文化基準を持つセリカ。豊かな暮らしは人に安定をもたらしたが、果たしてどれだけの人間が、この文化の本質に気づくことができるのだろう。月や星よりも明るく安定した照明が生まれた。武器が強化され指先一つで命を奪えるようになった。多くの富をもたらすエネルギーの奪い合いは争いの火種となり、各地で戦争が起きるようになった。強大なエネルギーのために一人の少女の命が密やかに奪われるようになった――
「失礼します。今いいですか?」
思いに耽るのも束の間。執務室のドアがノックされ、アベルは思考を停止した。
「どうぞ」
許可を出せば、訪問者は安堵したような溜息をついてドアを開いた。
「ターナー・ヴァレージアです。報告に参りました!」
「ああ、ご苦労だったね」
現れたのは、特殊部隊でもお調子者で知られる青年だった。
アベルは壁に近づき、照明のスイッチを入れる。暗闇は一瞬にして光で払拭され、部屋は本来の姿をあらわにした。
「その様子だともう、特殊部隊のみんなは出発したのかな?」
「ええ。今日の夕方には大勢を引き連れて出かけましたよ。作戦実行が任命の翌日なんてこと、よくあるんですけど、慌ただしいもんですよね」
ターナーはまるで世間話をするように、笑みを浮かべて報告をする。こんな態度の部下に、注意する気になれないのは己が甘いのだろうか。アベルはふと苦笑う。
「それより、統括。ちゃんと寝てますか? 目の下のクマが凄いですよ。せっかくの男前が台無しです」
「相変わらずだね、君も」
すぐ飛んでくる軽口。緊張感のない会話。アベルの小さな笑みはやがて笑い声に変わった。
Aの約束。そう名付けられた、アバランティア制御体捜索任務が、正式に特務総合部隊に下されたのは昨日の深夜。レイス達の逃走劇が起こした、<イレブン>内の大きな混乱の後始末に追われていた彼等は、半日の休息の後、慌ただしく編成された戦闘部隊・情報伝達部隊混合遠征軍と共にセリカを後にした。現場の司令官として任命されたのは、特殊部隊リーダーの善。そして、同行する情報部隊リーダーのレキアス。事の大きさの割に小規模の編成の遠征となったが、隠密捜査を基本とする特殊部隊に合わせての対応だということが分かる。彼らは今後、各地に配置されている<イレブン>支部への協力要請のため領土を南下する。
謹慎状態のアベルを残して。
「そんなに俺が残ることが不満ですか? 今なら部隊一、真面目なガキンチョと交換できますよ」
「いいや、ケイスでは荷が重いだろう。君がベストな人選だ。よく立候補したな」
アベルは何とか笑いを抑えて、ターナーを入口近くのソファに座らせる。
特殊部隊に与えられたのはAの約束の作戦任務だけではなかった。先のアバランティア制御体の脱走阻止作戦においての処罰として、司令官だったアベルには部隊とは異なる命が下りている。幹部の補佐という名がついた任務ではいるが、ようは休ませない謹慎処分というところだ、とアベルは理解している。更にその謹慎には道づれが一名必要なのだという。それにわざわざ立候補したのがターナーだ。
特殊部隊は先の作戦失敗から、今窮地に立たされている。そしてアバランティア制御体については前科もあって、組織内でも孤立しているのが現実だ。正直、たった二人で本部に残るのは厳しい状態である。後ろ盾はない、味方はいない、仲間もいない。最悪なカードを引いたのだ。
まだ世間を知らず、物事を真っ直ぐに捉えるケイスにはまず耐えられない。アベルはこれから起きるであろう憂鬱な出来事を想像して、気が滅入りそうになった。
「統括。あと三十分で予定時刻の二十八時になります」
「ああ、そうだったね」
二人は十一人幹部の一人、ツヴァインの補佐につくことになっており、さっそく顔合わせとの連絡を受けていた。こんな夜更けに、二人を呼びつける幹部。謹慎処分状態の二人に、一体何を補佐させるというのだろう。憂鬱なことも多いが、それ以上に謎なことも多い。アベルは先が読めない状態に頭痛を感じていた。
「君も、すまないね。全然休めていないだろう?」
アベルの体を気遣ったターナーだが、今一番疲れているのは彼だ。彼は本部に残ることが決まったことで、捜索に出る者たちが休息をとれるように、労働時間を重ねてあちこちを走り回っていた。
「まだまだ頑張るんで、この間の減俸を取り下げてくれます?」
「うーん」
アベルがあいまいな笑みを浮かべると、ターナーは冗談ですって、と拗ねたポーズを取る。先日の作戦行動中、通信回線で場をわきまえぬ発言をした彼には、厳しい減給処分が与えられていた。口は災いの元というが、ターナーには教訓として今回の処罰を謹んで受けた方が良いと、アベルは思っている。
「それはそうと」
距離感を忘れさせる軽口から一変、ターナーはおもむろに己の膝の上で手を組んで前かがみになった。
「ツヴァイン様のところに赴く前に、見てほしいものがあるんですが……」
よく見ると、彼は手にはアタッシュケース。書類が入るほどのサイズのそれを開けると、何やら紙に包まれた金属の塊が現れる。アベルは対面方向のソファに腰掛け、改めてそれを見つめる。
「これは?」
「錠前です」
「はあ」
「リーダーの部屋が開けられていたのは知っていますよね」
ターナーの言葉に大きく頷くアベル。
善の部屋がレイス達の籠城場となり、破棄されたダストシュートによる逃走を図ったことは、作戦後すぐに皆の知るものとなった。調査の結果、善の部屋は鍵を不正に開錠されており、室内には複数の人間の毛髪が検出された。更に、部屋へと到る通路の一部が通行不能に陥っていたという。これも、通路に設けられていた扉の鍵が弄られていたからである。作戦行動中、目撃情報が途絶えた空白の五十分。それは確実に計算された相手の目論見だったということになる。恐るべき策士がいたものだと畏怖すると共に、それでももっと各部隊との連携がとれていれば、結果は違っていたはずだ、とアベルは感じていた。
「調査後、俺はリーダーに頼まれて鍵を直しに行ったんです」
一人反省会を開き始めるアベルの思考は、目の前にまで近づけられた金属の塊によって急停止する。
「これは取りはずした錠前ケースを分解したものなんです」
「こ、これは……」
差し出された錠前は、正直アベルにはどんなものであるかすらさっぱり分からない。だが、明らかにそれが異常なことになっているのだけは理解できた。
「信じられますか? これはドアに埋め込まれているものなんですよ」
金色の無機質なそれに、蔦植物がねじ込まれているのだ。分解された錠前ケースは構造が包み隠さず見える。それらがどんな役割を持っているのかなどアベルの知識は皆無であったが、鍵の中に植物が入り込んでいることは素人目にもありえないことだと分かった。更に、蔦は縦横無尽に這っているわけではなく、意思を持つように一本だけが長々と構造体の隙間をかいくぐり、一部の部材に巻き付いているのだ。
「なんだ、これは……」
「びっくりしましたよ! 全然直らないので、取り外してみたら植物が絡み付いてるんですから」
凄い長さでしたよ、とターナーは鋏で切断された植物の先をつまんで見せる。曰く、植物はドアサッシの下から伸びていて、どこが根元なのかも分からなかったらしい。
「巻き付いているこの部材、カムっていうんですが、こいつが動くことで鍵の開閉ができる、いわば閂みたいな奴なんです。今回この気持ち悪い蔦植物は、このカムに巻き付いて開錠させていたんです。空き巣の常習犯が、棒とかを直接突っ込んで開錠したりするんで、“カム送り”なんて名がついている手法的にはありがちなものなのですが、それが植物で行われていたというなら話は別です」
「植物でそんなことは……」
「不可能でしょ、普通」
ターナーは気持ち悪い、と呻いて錠前をアタッシュケースにしまった。そして、アベルに向けて身を乗り出す。
「ここからが本題です。この異常な状態はリーダーのドアだけでなく、通路の扉にも起きていました。果たしてコレは本当に、L-10達がやったものなのでしょうか? 彼らにこんな芸当ができる者がいるとは思えません」
「どういう意味だ、ターナー」
「この逃走劇、いくらなんでも出来過ぎているとは思いませんか」
ターナーの一言は、アベルに大きな衝撃を与えた。頭の片隅に留めていた、考えないようにしていた疑問が、溢れ出してきたのだ。抑える間もなく飛び出す、悪戯なびっくり箱のように。
たった二人が、圧倒的戦力差をひっくり返す逃走劇。捜索に追われ、追求することを諦めていたが、冷静に思い返せば不可解なことが多すぎる。
「俺は、この騒動を特殊部隊の責任だというのが納得いかないんです」
「……」
驚きで言葉を失っているアベルを見て確信を得たのか、ターナーは言葉を続ける。
「絶対に裏があるんです。レイス達の行動を後押ししている何かが。せっかく俺達はこうして本部に残ったんです、徹底的に調べてやりましょうよ」
だから俺はこっちに残ることを希望したんです。ターナーはにんまりと笑みを浮かべアベルにウインクした。
「ターナー……しかし、な」
魅力的な誘いだった。アベルは危うく頷きそうになった、己を必死に抑えて俯く。
「私たちはツヴァイン様の補佐だ。そんなことをしていれば、更に特殊部隊の株を下げかねない。私は……賛成できない」
「なに言っているんですか! 今更立場も何もないじゃないですか。俺達はもう死刑台に首を置いているも同然でしょう!? これ以上何が悪くなるんです!!」
信じられない、とターナー。アベルは左目に走る傷をゆがめ、唸る。
「君の言いたい気持ちは痛いほどよく分かる。しかし、私は統括という立場上、部隊をこれ以上の危険にさらすことができない。現場の善たちには十全の状態で任務にあたってほしいからだ」
「だから、補佐を名目に飼殺されるのを受け入れるんですか!?」
ターナーは激情にかられるように、ソファから立ち上がる。彼の苛立ちは最もで、自分たちの理不尽に納得がいかないという気持ちがアベルには手に取るように分かった。それはアベル自身も強く感じていることだからだ。彼は薄緑の瞳で上から突き刺さるターナーの視線を受け止める。
「私たちは、やり通さなければならない。たとえそれがどんなに厳しい道でも。分かってくれターナー。その疑問は忘れるんだ。――これは統括としての命令だ」
「統括!」
それでもアベルはターナーの意見を飲めない。それが彼の立場だった。
「いいじゃないか、アベル。彼の疑問は最もだ、やりたいようにさせてあげなさい」
にらみ合う両者の間に、不穏な空気が流れようとしていたその時。流れを変える低い声が、空間に響いた。
「!?」
突然の他者の乱入に、驚く二人。気が付けば、執務室のドアが開けられていた。そしてそこには一人の人物。アベルはその姿を見て、慌てて席を立った。
「な、なぜこちらに……」
「いや、待ちきれなくて私の方から来てしまった。――しかし、なにやら面白そうな話をしているじゃないか。少し声が大きいのが難点だがね」
祭司のような裾の長い服。顔を覆う仮面。低くよく通る声。突然の登場に慄いているアベルは深々と頭を下げ、呆然としているターナーはその姿を見て続いて立ちあがる。
「せっかくの面白い話だ、ここでせき止めるのはもったいない。突き詰めれば意外な真実が顔を出すかも知れん――では、こうしよう」
そこにいたのは、十一人幹部の一人ツヴァイン。二人が補佐につく予定の男だった。
「今の話、詳しく話してくれ。これは十一人幹部としての命令だ」




