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Avalantear アバランティア  作者: 海豹
第二幕 ―承―
51/68

始動 2


「水が黒い……」


 イヨールは己の足元を見つめ、眉を寄せた。

 頭上から降り注ぐ温かい水は、彼女の銀の髪を叩き、一糸纏えぬ体を伝って床に落ちる。排水口へと流れゆくそれらは泥と血が入り混じって黒い線となっていた。

 彼女が仮眠室に備え付けられたシャワー室に入ったのはつい先程。それまでは特殊部隊の連絡係として、リオール達が消えた北方の森と、外部との接続を強制的に断たれ混乱するセリカ街、そして<イレブン>本部施設を何度も往復していた。丸一日以上走り回り、ようやく休憩をとりにオフィスに戻れたのは、深夜の二時半。それでもイヨールが一番乗りだったようで、他のメンバーの姿は見えなかった。


「これからどうなるのかしら……」


 イヨールは目の前に己が映る鏡に手をついて頭を下げる。アバランティア制御優先体がいなくなり、幹部は二人を亡くした。表向きには冷静に対応しているように見せているが、実際見た目ほど上層部は落ち着いておらず、ジタバタとしているのは彼女にも分かっている。

 先の見えぬ状況に対して深く溜息をつくことしかできない彼女は、ふと視線を右手首に移した。

 くっきりと残る、五本の指の形をしたあざ。

 イヨールはそれを見つめて、黒騎士と遭遇したときのことが思い浮かぶ。

 ハザードの突撃を諸に受けたケイスを庇いながら戦ったとはいえど、気を抜きすぎていた。今頃はあの巨大な剣に頭を割られていたかもしれない。

 しかし、彼女はここに存在している。


「助けてくれるなんて、思わなかった」


 シャワーの水音に混じって呟きがこぼれた。顔を上げれば鏡に赤面する己の顔が映っている。


「善……さん」


“危なかった。イヨール、ケイスをもっと後ろに下げろ。ここは危険だ”


 不本意とはいえ、好いている人間に助けられたのだ。彼女は思わず口元を緩める。

 耳に残る、荒い息遣い。

 彼にとっても咄嗟のことで力加減を考えられなかったのだろう。手首にあざが残るほどの力で抱き寄せられ、強引に地面に伏せられた。顔は数センチと離れていなかっただろう。


「何考えてるのかしら」


 思い返しているうちに我を取り戻したイヨールは、慌てて己の頬を叩く。柄にもなく乙女のような物思いに耽ってしまったことに恥ずかしくなり、彼女はそのまま蛇口を閉めてシャワー室を出た。

 脱衣所にある大きなタオルで水気を拭き取り、用意した服を身につける。素肌に触れる服は冷たかった。続けて濡れた髪を拭きながら外した眼鏡を手に取ると、度の入っていないレンズは白く曇る。当然そのままかければ視界が悪くなるがイヨールは気にしなかった。


「あ」


 スラックスに足を通した頃、周りの空気に体の熱が奪わて、眼鏡の曇りが取れて来る。上に羽織る服を探していると、彼女はワイシャツを忘れたことに気づいた。


「デスクの上だわ……」


 彼女はキャミソールを身につけた状態で考える。今の格好で人前に出るのは問題だ。しかし、このまま素肌を晒したままにしているのはとても寒い。幸いシャワー室にいたときに誰かがオフィスに入ってくるような物音を聞いていなし、実際に休憩室を挟んだオフィスからは人がいるような気配が感じられなかった。


「さっと行って、さっと着よう」


 結論。イヨールはタオルを肩に羽織るようにかけて小走りでオフィスに向かった。


「うぅ」


 案の定、暖房はあまり効いていなかった。冷たい空気に思わず妙な声が零れる。

 ワイシャツはすぐ目の前にあった。綺麗に折り畳んでデスクの真ん中に置かれている。直ぐさまそれを掴んで袖に腕を通していると、ふいに視界に入ってきたものにギョッとした。


「リーダー……?」


 イヨールのデスクは幾つも並べられた島の中にある。彼女が目を向けたのは、その島から外れた少し大きなデスク。全体を見渡せる一番その高位の席に、グッタリと椅子へ身を沈める善の姿があった。

 誰もいないものだと思っていただけに、イヨールは鼓動が激しく波打つのを感じる。しかしそれもつかの間、善の目が伏せられていることや腹が規則正しく上下しているのを見て、安堵の息を吐いた。


「珍しい」


 動揺の去ったイヨールは、少しも身じろぐことなく眠る善の顔をまじまじと見つめる。白のワイシャツはくたびれ、ネクタイは解かれ、いつもの近寄りがたい雰囲気が消えていた。だがその眉間には皴が寄っていて、休んでいるときですらも生真面目さが伺えるようで彼女は小さく笑う。彼がこんなに無防備な姿をオフィスで見せることはまずない。よほど疲れているのだろう。イヨール自身もくたくたなのだから、人のことは笑えないのだが。


「?」


 ふと、イヨールは善の口の端に赤い染みのようなものを見つけて首を傾げた。そのまま視線を下げると、ひじ掛けから力無くこぼれ落ちる左手。


「なに……これ」


 その異常に真っ白な手の平に赤黒いものがへばり付いているのを認めたとき、背筋が冷たくなるのを彼女は感じた。

 口元の赤い染み。手の平の赤黒いもの。

 もし手の平それが、口元を拭ったときに付いたものだとしたら、その赤いものが彼の――


「お疲れ様でぇええええ!?」


 イヨールの“恐ろしい予想”は、オフィスの扉が開かれると同時に吹き飛んだ。

 慌てて入口に視線をむければ、何故か扉の前から飛びずさる人物。

 奇声を上げたのは、指に包帯を巻いているケイスだった。初めはきちんと挨拶をしようとしていたようだが、その表情は信じられないものを見たと強張っている。


「い、い、イヨール先輩!」


 ケイスは几帳面に整えられた髪を振り乱して後退っていた。左に流す長い前髪の下は赤く、よくよく見ると耳まで赤い。


「そ、そ、その……!」


 彼はハザードの突撃を諸に受け、直ぐさま治療を受けさせていた。衝突の衝撃をその直後にターナーが軽減させたことにより、幸いにも軽い脳震盪と突き指だけで事なきをえたのだった。


「イヨール先輩、服! 服を着て下さい!」


 ガツン、と頭になにかがぶつかったような衝撃をイヨールは受ける。

 思い出した。

 イヨールは、はたと自分の姿を確かめる。ワイシャツは左腕を通しただけで停止していて、髪もまだ生乾き。つまり、今だ肌着姿同然である。更に決まりが悪いことに、身につけているキャミソールは全体的に小さめのため、胸元からは下着がのぞいてしまうのだ。


 そんな格好でいたら、流石に誰でも驚く。


 イヨールは固まった。羞恥もこう一気に頭に駆け登ると、なにも出てこない。急ぐという思考すら憚られた。

 そんな行動の鈍いイヨールをケイスは見ていられないのか、早く! と急かしてそっぽを向いている。相変わらず顔は赤い。いつも白い肌が、今は林檎のようだ。

 だがそのすぐ後、廊下側に視線を逃がしていた彼の顔に更に動揺が走った。


「お! ケイスじゃん。お前も今帰ってきたのか」

「た、ターナー先輩!?」


 お気楽そうな声に、続いてケイスの狼狽する声。イヨールも今の状況に危機感を覚えはじめた。


「なんか、お前顔が赤いな……大丈夫か? ハザードの攻撃での大きな怪我は無かったんだろうな――って、おいコラ!」

「来るな!」


 バタン、と大きな音を立ててオフィスの扉が閉まる。気づくとケイスが全力で扉を閉めて体をそれに押し付けていた。よほど慌てているのか、言葉遣いが荒い。


「おい! 何だよ!」


 初めは遠くから聞こえてきた声も、一気に近づいて鮮明になった。


「どうしたんだ!?」


 そして、扉をどんどん叩くターナーの声が妙に真剣でイヨールは場違いにも笑ってしまう。


「おい――」

「早く、イヨール先輩服を着て下さい! これでは妙な誤解を生みます!」


 ケイスの怒鳴り声に、彼女は分かったわと服を身につける。しかしもう一度善の姿を見た時、彼女は事の重大さにようやく気づく。

 服装の乱れた善と、ほぼ肌着姿のイヨール。何があったのかと、誤解されるに決まっている。特にそういった話題が好きなターナーには尚更だ。


「服って、何か!? イヨちゃん、裸なのか」

「そんな訳ないでしょうが! ちょっと着替えているだけですよ。先輩は入らないでください」


 飛躍しすぎ。誰が裸だ。イヨールはそう思いながらワイシャツのボタンを閉める。その間にもターナーとケイスの会話は面白おかしい方向に進む。


「おい、ケイスずるいぞ。俺だって見たいぞ!! なんでお前だけセクシーなイヨちゃんを見れるんだよ」

「見てません!」


 全力で叫ぶケイスは、親の仇とでもいわんばかりに扉を物凄い形相で睨む。お人よしの彼のことだ、イヨールに恥をかかせぬようにと考えているに違いなかった。


「だいたい、先輩は僕なんかより見慣れているでしょ。今日くらい我慢してください」

「よく言うぜ。お前は綺麗な姉さんが三人もいるじゃねーか。俺よりかお前の方が慣れっこだろ! 日常生活、風呂場で全裸でばったり――」

「し・な・い!!」


 状況を大胆把握できたらしく、ターナーは声に笑いを含めながら扉を叩き続ける。こういう時の彼は口にする言葉と本音が違う。イヨールの姿を見たいというのも本心なのかもしれないが、殆ど今はケイスが慌てていることをからかっているだけだ。


「なんというか……元気ね」


 二人のやり取りを呆れ気味に見つめるイヨールはワイシャツはもちろん、スーツの上着を羽織ることができていた。ケイスに礼を言いたいところだが、まずは二人の口論をどうにかするべきかと考えていると、背後に気配を感じて振り返る。


「こうも五月蝿いと、仲がいいのも問題だな」


 近い。振り返ると鼻先が背後の人物のワイシャツにぶつかりそうになり、思わず一歩下がった。


「おはようございます」


 視線を上げると不機嫌そうな善の顔。いつの間にか目覚めていたらしい。まだ寝ぼけているのだろうか、彼は覚束ない足どりでイヨールの横に移動する。


「つい寝ていたようだ。お前が休憩室にいるので、出てくるまで待っていたんだが……」


 善は扉ごしに言い合いをする二人を、困ったもんだと見る。


「騒がしくて、寝れませんよね」

「ああ」


 善の考えていることをイヨールが代弁すると、彼は小さく頷いた。


「黙らせてきましょうか?」


 元は自分が原因で起きた騒ぎであるからあまり口出ししにくかった彼女だが、他の迷惑になるのなら早急に手を打たねばならないと考える。


「いや、いい。今まで働き詰めだったんだ。好きにさせてやれ」

「働き詰めなら、騒がしくする前に寝ろというべきでは?」


 イヨールはいかぶしげに善に進言すれば、彼は小さく肩を竦めて彼女に背を向ける。


「グレイスがな」

「え?」

「あの二人はああやってじゃれて、馬鹿なことをしてストレスを発散させているのだと言っていた」


 ぶっきらぼうな声で、無理矢理不機嫌を繕っているように善は言う。しかし言っているうちに照れ臭くなってきたのか、結局最後に彼は、判断は任せるとイヨールに言って休憩室に向かっていく。中途半端で不器用な気の遣い方に思わずイヨールは吹き出した。


「笑うな」


 善も己の妙な発言に首を傾げていたらしく、笑うイヨールに苦し紛れの抵抗をする。


「彼等のじゃれあいは私にも原因がありますので、やはり止めてしまいますよ」

「好きにしろ」


 口元に笑みの形を残したままのイヨールに、気まずそうに一瞥をくれた善は休憩室に向かっていった。


「さて、と」


 休憩室の扉が開閉する音を聞いて、満足したイヨールは直ぐさま騒ぐ二人組に近づく。改めて見ると、確かに扉を挟んで言い合う姿は子犬がじゃれあうそれと近い。彼女は込み上げる笑いを抑えながら、扉にはりついているケイスの金色の頭を優しく小突いた。


「二人とも、コーヒーいれるから席につきなさい」



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