飛び立った籠の鳥
あれは、ほんの数秒間の出来事だった。
<イレブン>に追い詰められ、無茶と知りつつもリオールを抱き、崖から飛び降りた。すると、“夢”の中にいるような、不思議な気分になっていて、懐かしさと興奮が入り混じる感情が芽生える。
――おかしな気分だった。
微かな笑いを抑える。
しかしそんな中“叫べ”と、頭が割れそうになるほどの大声が聞こえてきて、
「来い! アル!!」
意味も分からず、叫んでいた。
何故そういうことになったのか。ほとんど分からない。
しかし、そこへ白銀の救世主が舞い降りてきた。
――美しい、大鷲だった。
「レイス、手を伸ばせ。引き上げる」
やがて、テラの腕が伸びてきて、手を伸ばす。鷲の背は広く、テラの背中越しにリオールが見えた。
「的だ。的なんだ。あれは……!」
助かるんだ。そう思えたとき、聞こえるはずのない声が耳に届いた。
「ケイス?」
聞こえた。確かに。
もう銃声すら小さく聞こえるほど、崖から離れたというのに。
乾いた銃声が一発。それが自分を狙ったものだとは考えずとも分かった。
狙いは正確だった。
当たり前だ、あれはケイスが放ったモノだから。レイスは妙な確信を覚える。
やられる。
弾丸が自分に向かって飛んでくる――
*****
レイスは跳ね起きた。体中、嫌な汗に覆われている。
ここはどこだ。周囲を見回すが、周りは暗く何も見えない。
「俺は……みんなはどうなったんだ!?」
声が掠れた。妙に口の中が塩辛いような気がする。彼は横になっていた体を起こそうとして、自分の胸の上に乗っている物体に気づく。
キュ、キュ~ン
「……アミー?」
丸くなって眠る彼女を抱き上げ、そっと横に移動させると、ようやく彼は上半身を起こした。
体が鉛の様に重く、左腕などぴくりとも動かない。それでも己が五体満足であること、とりあえず生きていることは分かった。
「はぁ……はぁ……はぁ」
呼吸も荒い。体が熱っぽくだるい。
レイスはそんなぼんやりとした視界の中、なにか見えないものかと目を凝らした。
「あ、起きた!」
すると朝、カーテンが開かれるように、いきなり光がレイスの顔に直撃する。初めは眩しさに目を細めたが、よくよく見るとすぐ前にリオールがいた。
「テラさん。レイスが起きたみたいですよ」
彼女はレイスの姿を見て、安心したように笑うと、再び彼の視界の前から姿を消す。
「やっとか。……よく寝る奴だ」
テラの皮肉った声が耳に届き、レイスは重い体を引きずるように、光の方向へ向かう。
キュ~~ン
アミーも目が覚めたのか、身震いをしてレイスの後をついて来る。いつものように、肩に飛び乗ろうとジャンプした直後、レイスはその場に崩れ落ちそうになった。
アミーの体重など五百グラムにも満たない。しかしそれが自分の体を圧迫するようにすら感じた。
体を持ち直し、カーテンのようなものを開いて、なんとか顔を出してみると、外はまだ暗闇に包まれた夜。簡素な焚火を中心に、テラとリオールがいた。
「ったく……寝過ぎだ。死んだかと思ったぞ」
舌打ちしながら、焚火の火で、魚らしいものを炙っているテラ。彼はイライラと、中々焼目の付かない魚を木の棒で突き、レイスの方へは目もくれない。
「俺は……どうなったんだ?」
レイスが、まだ自由の効かない体で前進すると、
「あの後、レイスはずっと寝ていたわ」
リオールが、レイスの体の支えになるように脇に体を入れる。
「あの後……?」
寝ぼけた頭も、冷たい夜風に当たり、少しは覚醒しつつあったレイスは、はっとして自分の右手の平に目を落とした。
「俺は……撃たれなかったのか?」
弾丸が自分に向かって飛んでくるのは、分かっていたんだ! レイスが信じられないとつぶやくと、呆れたようにテラが溜息をついた。
「撃たれたなら、お前は何者だ? 俺の目がいくら良くても、幽霊までは見えないぞ」
皮肉った言葉。レイスは混乱する頭を抑え、更に記憶が覚醒するのを待った。
「覚えてないのか? まだお前、その時は起きていただろ?」
レイスはなんとか、頭を活動させて、崖から落ちた後のことを思いだそうとする。
「黒い騎士!」
そして、ようやく疑問の答えを弾き出す。
「……思い出したか」
テラがここで初めてレイスへ目を向けた。
「けど、なんであいつが!」
レイスは答えを得たが、新たに浮かぶ謎に混乱ではなく怒りを感じて、いたたまれなくなる。
「それより、こっちに来て座れ。リオール、連れて来い」
テラは、突然かっかし始めるレイスの様子に肩を竦めると、焚火の近くの地面を示した。
「いきましょう」
リオールに誘導されるがまま、地を踏み締めるレイスは、足に絡み付く細かな砂の存在に気づく。ここは砂浜なのだろうか。
「食え」
なんとか焚火の前に座り込んだレイスに、テラは何も言わずに魚をその鼻先に突き付けた。
「なっ、そんなことより――」
「食え」
話を続けようとしていたレイスは、目の前に出された、良く焼け目のついた魚に戸惑う。しかし、テラは有無いわせぬ顔でレイスの顔から魚を離さない。
「食え」
観念したように、魚を受けとったレイスは、仏頂面でそれを口にした。
悔しいが、彼はそこで自分が空腹だったことを思い知らされる。初めは控え目だったが、一口、二口と進むに連れ、食べるペースが上がっていった。
「お前も食え」
「……はい」
レイスのそんな様子を、心なしか満足げに見るテラは、安堵の息をこっそり吐き出していたリオールにも魚を突き付ける。しかし突き付け方は乱暴で、ナイフでも突き付けているようだ。リオールも苦笑を混じりにその塩だけで味付けられた魚を受け取る。テラは続いてアミーにも魚を与えようとレイスの肩から彼女を下ろした。アミーは初めて口にするそれに警戒を意を示したが、しばらくしてがっつきだす。
「お前、<イレブン>を振り切った途端に眠ったかと思えば、そこから丸二日間意識が無かったんだぞ」
レイスが二匹目の魚を平らげ、三匹目を口にした頃、テラが言葉を挟んだ。
「リオールが直ぐに、結晶化病の発作だと気づいたが、生憎そこは空の上だ。薬は一杯あったが、水がない」
テラは、魚を頬張り、その塩辛さに顔をしかめながらリオールに目を向ける。
「まぁ、アルに用意させたがな」
「アル?」
レイスが首を捻ると、テラが木の棒で彼の背後を示した。慌てて振り返ったレイスは納得したように声を漏らす。
「アル……って、名前だったんだよな」
背後には巨大な白鷲が翼を畳んでそこに佇んでいた。どうやらレイスはその翼の中で守られるように眠っていたらしい。先程持ち上げたカーテンとは翼だったのだ。
「で、用意させたって?」
レイスは、まだ残る疑問を投げる。するとテラは真顔で、
「海水。海の上だからな」
と言ってのけた。
「はぁ!?」
「流石に、飲ませたら噎せていた。が、手で掬っては飲ませるを繰り返したら、観念して抵抗しなくなったがな」
テラの言い草にレイスは、何故自分の口が妙に塩辛く、声がかすれていたのか理解した。
「仕方ないだろう。俺もリオールもそれを飲むしかなかった。お前だけじゃない」
「そんな話聞いたら、無性にのどか沸いてきた」
「はい、水」
リオールが気を効かせて差し出す、木で作った簡易な水筒には、塩気のない水がなみなみと入っていた。
「この辺りに涌き水があったの。助かったわ。私も流石に海水では限界があったから」
リオールの話を聞きながら、水を一気に飲むレイス。中身が空になると、彼は口を拭う。
「涌き水だって? ここは一体何処なんだ」
辺りは暗すぎて今は確かめようが無い。パチパチと薪が燃える音に混じって波の音がするので海が近いのは分かった。
「今日の夕暮れ、私達もここに降ろされたばかりだからそれは分からない」
「そうか」
レイスはふぅ、と息を吐き出す。分からないことが多い。それでも、とりあえず今彼には一つだけ分かることがあった。
「まだ信じられないけど、<イレブン>から脱出できたんだよな。俺達」
「何を今更」
テラが渇いた笑いを零した。レイスもぎこちなく笑みを返し、再び思考の渦に巻き込まれるのを感じた。
「何だったんだろうな。あの黒い騎士」
レイスは食事を終え、残った骨を焚火に放り込んだ。炎はパチパチと心地好い音を立てて燃え、自然と火の番役に徹しているテラは手元に擦り寄ってきたアミーを片手で撫でている。そんな様子を眺めるリオールの表情は穏やかであった。しかし、食事の間ですら疑問と見つめ合っていたレイスには、穏やかな満腹感に浸れるような気分になれず、リオールに問いを投げていた。
「黒い騎士だけじゃない、他にも沢山のハザードがいた。ハザードはアバランティアがリオを連れて帰る為に、送り付ける使者なんだろ?」
「……うん」
穏やかだったリオールの表情に一瞬で影が落ちる。己の宿命を再確認されたような気がしたのだから、気落ちするのは仕方ないだろう。
「ならなんで、リオールをさらわない」
おかしいじゃないか。レイスは唸った。朧げではあるが、あの時ケイスの放った弾丸を、身を割り込んでまで弾いたのは黒い騎士。花畑で、殺されかけている彼は、ハザードを引き攣れ、<イレブン>から助けてくれる騎士の行動に、納得がいかなかった。
「あの混乱に乗じれば、いくらでもリオを狙うことなんてできたはずだ」
「それは、ハザードは私を守るために無理な誘拐をしなかったから……」
リオールの言葉に、レイスは少し考える。確かに、あの時は三人はアルの背に乗ってはいたが、荒れ狂う海の上にいることには代わりない。万が一に転落したら命は無いはずだ。
「ハザードは、私に大きな怪我をするような事はしてこない。多分それは逆も同じじゃないかな」
リオールは考えるレイスに、更に言葉を付け足す。
「大きな怪我をさせないために、無理な誘拐はしない。そして怪我をさせるかもしれない<イレブン>を邪魔した。……随分と慎重な奴らだな」
「ハザードはアバランティアの使者よ。何を考えているかはきっと私達には分からないと思う」
リオールの指摘は正しい。相手は人間の物差しで計ることが出来る存在かも分からないのだ。あれこれと詮索したところでたいした意味は無いかもしれない。
「おい」
二人で難しい顔で考え込んでいると、
「あの片翼だけの化け物共はハザードというのか」
俺は詳しいことは知らないんだぞ、とテラが口を開く。彼の手元にはアミーがじゃれ付いていたが、ハザードという単語に、彼女もピクリと反応した。
「今の話から推測して、アバランティアが関わってるみたいだが、あれは敵か?」
助けてもらって不躾だがな。遠慮がちに聞いているようが、テラの声に微かな鋭さが混じった。
「敵だ」
レイスは即答する。リオールも何処か思い詰めたような瞳で頷き、彼の言葉を補う。
「ハザードは私をアバランティアのもとへ連れていくのが目的なんです」
「なるほど」
テラはさほど驚いた様子もなく、アミーを撫でていた手で、木の端くれを火の中に入れ、弱る火力の調整を続ける。
「アバランティアを制御できる者の安全とはいえ、ハザードとやらが俺達を助けることはおかしいんだな?」
「そういうこと」
レイスは深く頷いて、腰のバックからひらべったい容器の塗り薬を出す。左腕をさらけ出すと、エメラルドグリーンに結晶化する皮膚が、焚火の光を受けて禍禍しく輝いた。
会話が止まって、静寂が下りる。レイスは騎士のことを、リオールはハザードに追われる身である自分のことを、テラは弱る焚火の火のことを、それぞれが各々の思いに耽った。
「あ~、止めだ、止めだ!」
しかし、そんな静寂も、レイスの大声で霧散した。おおあくびして、怠そうに体を伸ばしていることから、レイスは考えることが億劫になったのだろう。
「まぁ、とにかく<イレブン>から出れた。それは良かったじゃないか」
薬を塗りながら、レイスは肩に入った力を抜く。
「良かった……だと? 能天気な奴め。どれだけ逃走中に死にかけたことか。今生きていることすら怪しいくらいだ」
テラの眉間に深々とシワが刻まれ、低く唸る声がレイスに向けられる。
「だからさ! 生きてることを喜んでるんだ。これが奇跡でも何かの間違いでも、良かったことに代わりは無いだろ?」
いいじゃないか! レイスは満面に笑顔を咲かせた。確かに不可解なことは多い。だが、今ここに存在できることを幸いだと彼は思いたいのだ。
「……お前のポジティブシンギングには、たまに畏怖を覚える」
レイスの考え方を聞き、テラは知らずと目に入れていた力を緩めていた。思い悩むことに今意味が無いのなら、幸いだったことを素直に喜ぶ。逃走中もそうだったが、単純で何処までも真っ直ぐなレイスを嫌いにはなれなかった。
「ポジティブシンギングって、テラだって喜んだっていいんじゃないの? そもそもテラがいなかったら脱出はできなかったし」
レイスは笑顔を崩すことなく、不機嫌そうなテラの顔をまじまじと見つめる。テラはそんな彼の顔を気色悪そうに睨みつけ、
「そうだな。あの巨大組織から逃げおおせてみせるとは、かなり名誉なことだ」
何故か自嘲的に言って、テラは両手を使ってアミーを抱き抱える。その様子は、幼子が人形を抱きしめる仕草に何処か似ていた。
「けどな、俺はむしろ恐れを抱いている」
「恐れ?」
なんでさ? レイスは気まずそうに頬を指先で掻き、俯き加減のテラと目線を合わせようと努める。
「死ぬばかりだと思っていたからな。無論、お前も俺も」
しかし、焚火の光はテラの顔を照らすほどまでは届かず、風で揺れる前髪の隙間から、あの紅い眼だけがまがまがしく光を反射しているのだけが見えた。
「死ぬときは一緒だ、と言ったのもあながち間違いではなかった。自分は牢からは出ても、日の光を目の当たりにすることはできない。それが俺の本心だった」
「本当に死ぬ覚悟で、俺に協力……いや、リオールを助けようとしたのか」
テラの本音を聞き、釈然としないレイス。今更ながら、フツフツと彼に対する疑問が浮かんできたのだ。
「なぁ。そこまでして俺達を助けようと思えるのは何でなんだ? あんたには良いことなんて一つも無いじゃないか?」
レイスは思い切って、その疑問をぶつける。今、聞かなければは一生話してくれないような気がしたのだ。
「前にも話したが――」
テラは珍しく、面倒くさらず口を開く。
「ある男と約束をした。リオールを助けるとな」
「あぁ、そんなこと確かに言ってたっけな」
<イレブン>の地下牢のときだった。レイスは遠い昔を思い出すように、天を仰ぐ。そんなに時間が経った訳ではないのに、奇妙な気分だと彼は思った。
「それは、どなたなんですか」
レイスがフムフムと頷く横で、リオールが身を乗り出した。忙しない様子に、うとうとしかけていたアミーがテラの腕の中でビクリと体を強張らせる。
「心当たりはないのか?」
「……はい。ごめんなさい」
「何故謝る」
心当たりが無いことを、悪いことをしたかのように落ち込むリオールに、テラは首を傾げる。
「本当に無いのか?」
テラは呆れというより、驚いたように、リオールに同じ質問を投げる。リオールもそこまで問われると、と眉間にシワをよせて更に考え込んだ。
「ジアスというやつなんだが。俺の記憶では、お前の姉の恋人だと……」
しかし、次にテラが口にしたその人物の名前に、リオールは一瞬頭の中に電流が流れたような衝撃を受けた。




