交わる運命(とき) 2
変化は唐突だった。
まず目の前が真っ暗になったこと、遅れて足首に微かな痛みが走ったこと。この二つが、今のレイスの感覚全てになった。
「そのまま、飛べ!」
テラの鬼の様な怒鳴り声が耳をつんざく。その時初めてレイスは、自分が海に向かって倒れ込んでいることに気づいた。
下から吹き上げる風が全身にぶつかって、思わずレイスは目を細める。
今度は空気を斬る、槍を振り回す音が聞こえた。
どうやらこの瞬間テラは、二人が背を向けたと同時に槍で足を払って、転倒させたらしい。おかげで急所を貫くはずだった弾丸を避けられたのだが、足に走るジンジンとした感覚は地味に痛い。レイスは顔をしかめながらも、素直に身を重力に任せた。
「きゃっ!」
リオールも突然のことに反応仕切れず、あたふたと海に倒れ込もうとしている。
レイスは繋いだ手を引き寄せ、彼女を抱き留めた。
「撃ち方、止まるな! 次弾、狙え!」
ケイスの叫ぶ声が聞こえる。
転倒したことで、レイスの頭部や胸部を狙った弾は外れた。彼は自分の銃が手動装填式のものの為、他の兵士に指示を飛ばしながら、薬莢を捨てて新たに弾を込める。
「そう簡単にやらせるか」
しかし、テラは人間離れした身体能力を駆使し、レイスや己に向けられた弾丸の中でも致命傷になりうる物を選別して弾き返していた。槍の軌道は目に見えないほどで、卓越した動きに敵側に動揺が走る。
「落ちるぞ!」
そんな中、誰が口にしたのだろうか、兵士の悲鳴のような叫びが空気を貫いた。咄嗟に善は戦闘服に胸元に差したナイフを引き抜き、レイスへ向けて投げる。
「う」
テラはナイフを受け止め、その衝撃の重さにうめき声を上げる。腕が今まで以上に痺れ、彼はその後の出来事に反応仕切れなかった。
「ぐっ!?」
レイスの声。テラが驚いて振り返ると、彼の左肩にナイフが突き立っていた。
ナイフは二本、テラが弾いた方の陰に隠れるように、時間差で投げられていたようだ。テラという防壁をそれはすり抜け、命中する。
バランスを崩したレイスは一瞬だけ海に飛び込むことを躊躇しかけたが、それでも地面を蹴り上げた。……腕に抱えたリオールを離すもんかと、痛みを堪えて。
レイス達の姿が消えると、槍を振っていたテラも踵を返し、彼等の後を追って飛び降りた。
三人に向けられた弾丸数は四十を超える。テラはその殆どを弾き返していた。
「……」
信じられないことが次々に起こり、その場にいる一同は、三人が姿を消した後も反応ができず、ただ妙に重い空気が流れる。
「馬鹿者が!」
静寂は司令官の一言だけの怒号で破られた。固まっていた兵士達の体に血が通いはじめ、各々が動き出そうと、司令官に注目が集まる。
胸の鼓動が激しく煩い。善は自分がほとんど呼吸していなかったことを、状況把握のついでに気づいた。
それだけ状況は困難を極めており、善は頭を冷静さを保つことが難しくなっていることが分かる。
「下に部隊を回すか?」
いつの間にか、側にはグレイスがいた。彼は抜き身の双刀を強く握り、血の気が失せたように真っ青な顔で善を見つめる。いや、グレイスだけではない、イヨール、ターナー、シエルとメンバーが集まってきていた。
「善!」
「……無理だ。この下のセリカ海峡は、潮の流れが早い。まして雨だ。船を出せない」
善は苦々しい表情で首を振る。眼下に広がる海はその全貌を見せないが、長年セリカで過ごしてきた者には、波の荒れていることなど簡単に推測できた。
リオールに死なれるのはあってはならないことだ。しかし……
「あの馬鹿! 逃げることがいつの間にか心中することに変わってるぞ」
ターナーが悪態とも嘆きとも感じられる言葉を吐き、がっくりと肩を落としている。善はその彼の動きを見て、何か引っ掛かりを感じ、不意に空を仰いだ。
「心中……いや、違う!」
曇天の夜空。善はその中に信じられないものを見つけて愕然としたのだった。
******
落下している。
下は大きな闇。ザザザーと波が絶壁に打ち付ける音が耳に入ってくる。暗くて何が何だかよく分からずにただ落下していた。
全てを飲み込もうとしている暗闇が迫ってることは理解している。
その闇に飲み込まれれば全てが終わってしまうんじゃないか……そう直感が警告を出していた。
しかし、レイスはその中でも不思議なほど自分が冷静なことに気づいていた。落下するスピードは速いはずなのに、彼の感覚にはこの瞬間瞬間が酷くゆっくりと感じられる。
――思い出せ
理由はおそらく、慣れ。落下することには慣れているのだ。何度も何度も、彼は暗闇に飲み込まれる体験をしたことがあった。
――そして叫ぶんだ。大声で!
いや、慣れているというには語弊がある。彼が“実際”にこの場面で落下するのは初めてなのだから。
視界の全てが黒く塗り潰され……
《叫べ、レイス!》
「来い! アル!!」
口が勝手に動き、腹の底から叫び声を上げていた。
*****
「上だ!」
レイスが叫ぶのと時を同じくして、善も声を荒げていた。彼は、近くにいた狙撃班の兵士の手から、スナイパーライフルを奪うと、銃口を空に向け、スコープを覗く。
しかし、指揮官の素早い動きとは対照的に、特殊部隊を含め、周りの兵士達の反応は鈍い。何をして良いのか分からず、ただ善が睨む空を揃って見つめるだけだった。
「あれ、何か見えるぞ」
「白いな……雪と混じってよく分からないが」
「いや、大きいぞ!」
しかし、時間が経つごとに彼等の誰もが顔色を変えていった。
「あれは、何だ!?」
白い塊。いや、まるでクジラのように大きい鳥が鳴き声を上げ、猛スピードで舞い降りているのだ。
「……グレートイーグル!」
善の目が鋭く眇られる。
白い鷲は翼を畳み、善が狙う弾丸の間を見事にすり抜けていく。
「駄目だ! スピードが早過ぎる」
ケイスが唸り声を上げた。的の動きは最早スコープで追えるものではない。テラの動きもそうであるが、想定を遥かに凌駕する生き物の力に、知力を優先する人間に成す術は無かった。
鷲は、あと数秒で地上という辺りで、翼を広げる。巨体に繋がる白い翼は、レイス達を照らしていた照明の前を通過する一瞬、白銀の如く輝きを見せた。それは存在感を誇張しているかのようで、美しく、そして驚異的だった。
あっという間に鷲は、兵士達の視界から崖下へと消えていく。善は、銃をたたき付けるように、隣に並び立つイヨールに渡すと、前にいるケイスへと歩み寄った。
「ケイス、お前の腕を見込んで命令する」
ケイスは片膝立ちで愛銃を構えたまま、善と目線を合わせる。
「レイスを撃て。あの鷲は奴の援者だ」
「僕一人で?」
「ああ、一人でな。他の者に間違ってリオールを撃たれても困る。かといって、欲を出し、鷲に被弾させて彼女が荒れる海に投げ出されては話にならない」
やれるな? そう確認されているようで、ケイスは固唾を飲んだ。善は現状によるリオール奪還を諦めていたらしい。が、それで身を引くほど彼も愚かではない。せめてレイスだけでも、と冷たい瞳には力が入っていた。
「了解」
ケイスは、頷く。
善の期待に応えたい――いや、何がなんでもレイスを止めなければならない。それが、自分達の使命だ。善の真剣な顔を見たせいなのか、ケイスはふとグレイスの言葉を思い出す。
“いつ何を仕掛けてくるか分からない連中からお前達を守るには、それだけ上層部に認められる隊にしなければならないんだ”
ケイスは、全身が冷たくなって、神経が研ぎ澄まされていくのを感じた。
止めなくては……
自分が止めなくては……皆の為に
******
「な……」
同じ頃、二人に遅れて飛び降りたテラは、突然現れた“声”に驚き、落下する体を空を見上げるように動かす。
「白い、鷲?」
激しいその“声”に、テラは頭をどつかれたような衝撃を受けた。
そもそも、テラの動物会話というのはテレパシーに近く、声というよりも彼は動物達の感情を読み取る。目の前に現れた鷲から強い思いを感じたテラは、やがて自分を追い越すように並んだ鷲の羽根を掴み、手繰り寄せるようにして背にしがみついた。
「助けたい……か。どいつもこいつも、熱血馬鹿だな」
何とか体を安定させて、目を瞬いたテラは呆れ果てたように首を振り、何故か笑う。
「まぁ……そういう俺も馬鹿の仲間入りか」
テラの腕が片方、鷲の背から離れ、それは、目の前を落下するリオールの腕に突き出された。若干スピードの速い鷲は、直ぐさまにリオールに近づく。
「掴まれ」
「は、はいっ!」
気配を感じたリオールは、懸命に腕を伸ばす。
「よしっ!」
海面ギリギリ、約一メートルと迫った時、テラはリオールの腕を取った。
鷲はその拍子に一気に上昇。大きな翼の一回のはばたきは海面に大量の空気を叩き込み、荒れている波の上に美しい波紋を作った。
「うぉわ!!」
……が、上昇による風圧は凄まじく、リオールを抱き留め、実際には手が繋がっているだけのレイスには、それを耐えることはできなかった。彼は穴の空いた風船のように、勢いよく空に放り出される。
「レイス!」
「馬鹿っ! お前まで落ちてどうする!?」
テラは暴れるリオールを引き上げ、背に乗せると、苦々しくも彼女を叱りつける。
「でも、レイスが!」
「……大丈夫だ」
「えっ?」
やがて急上昇も無くなり、鷲が安定した飛行になると、テラは尚食い下がるリオールに、下方を指で示した。飛ばされまいとしがみついていたリオールは、半信半疑で彼の指す方向へ恐る恐る身を乗り出す。
「し……死ぬかと思った」
レイスは、鷲の足に両肩をガッシリ掴まれて、宙ぶらりんになっていた。表情は青ざめてはいるが、命に別状はなさそうである。
「ナイスキャッチ。やるなお前」
リオールが安堵するのを見届けたテラは、そういいながら、親しげに鷲の背を軽く叩いた。
「レイス、手を伸ばせ。引き上げる」
「あぁ、助かるよ。実は防具の上からでも、爪が食い込んで痛いんだ。さっき刺さったナイフのこともあるし」
レイスは両肩の痛みから解放されるべくテラの差し出された腕を掴んだ。
*****
「約四百メートル先、目標確認。射程位置誤差修正」
ひとつひとつ口にしながら、ケイスはただスコープを覗く。
「風向き、北々東」
ケイスの狙撃能力は“イメージする力”に特化して長けている。その場から得られる情報を瞬時に脳内で視覚的にイメージし、平面的に、立体的に現場を描くことにより正確な照準・弾道を割り出すことができる。狙撃者としてこれほど適性のある能力はないだろう。
しかし、いくらイメージ力があるといっても、手ブレや風、湿度、気圧、火薬の劣化等の影響はいつもついて回る。よって狙撃者は、長距離の着弾位置を予測することは難しく、長い経験と豊かな技量を持って水平、垂直共に照準を定めなければならない。
況して、的は猛スピードで動いている。
「離れていくぞ!」
「飛空艇の手配をしろ。回線繋げ」
周りの音が騒がしくなってきた。
「レイス……」
誰が呟いたのだろうか。ケイスはスコープの中で、鷲の足にぶら下がるレイスを意識してしまう。
「的だ。的なんだ。あれは……!」
ぶれるな。これが特殊部隊皆を守る方法なんだ。ケイスは何度も口にして、己を鼓舞する。しかし、口にすればするほど、頭にレイスの苦痛に歪む表情を“イメージ”してしまう。
「あれはハザードだ。ケイス」
そんな動揺に気づいたのか、善は酷く落ち着いた声でケイスに言い放つ。
「我々を仇なす存在だ。お前はそれを打ち落とす……それだけだ」
「はい」
魔法の言葉だ。ケイスは、自分がレイスのイメージを浮かべても、恐怖を感じなくなったことに気づく。
「大丈夫だ。お前ならやれる」
スコープの中でレイスがテラに引き上げられはじめた。そのスピード鈍く、妙な揺れが無い。
引き金に掛ける指に力を入れる。
レイスが振り返った。
一瞬、スコープの中で、レイスと目があった気がした。




