五年前の作戦
善は己の部屋を出て、すぐに月の間へと戻った。先ほどの動揺や憤りの表情は拭い去られており、いつもの無表情で彼は月の間の中へと一歩踏み出す。月の間は相変わらず忙しいようだが、脱走者達の発見は出来ていないようであり、苛立った雰囲気すら感じられた。
「戻ったか」
彼が近づいて来る気配を察したのか、息詰まる状況に顔を伏せかけていたアベルは忙しく指令を飛ばすのを止め、何処かホッとしたような顔付きで彼を迎える。
善は口を開く事はせず、アベルの隣――レキアスがいる方向を真っすぐに目指して歩いていた。善がこちらを睨みつけるような表情で近付いてくるので、レキアスはそれに対しておどけるような声色で話し掛ける。
「一体いきなり何処に何しに行っていたんだ? イヨールも一緒ではないようだし、さっきの君はかなり普通じゃなかった」
「――イヨールは、施設裏の森に戦闘員を向かわせるように指示した」
レキアスまであと三歩というところで善は立ち止まり、視線をアベルへと投げる。
善が口にした一言は決して大きなものではない。だが、それでも月の間にいる全ての兵士達を青ざめさせるには十分だった。
「本部への連絡無しで、勝手な事を」
ぽつりと、誰かが呟く。それが善への非難だということはその場全員に伝わった。
本来、殆どの指令はここ月の間の本部が出すことになっている。もちろん各部隊の長が独断で指示を出すことはあるが、それは本部の指令を踏まえた微々たる内容に過ぎない。だが、善が指揮をする特殊部隊は例外だ。今回の作戦を仕切る部隊であり、メンバーがバラバラに他の部隊の指揮に回されているのだから、彼らを動かすことは、<イレブン>全部隊を動かしていることと同じ事を示している。これは全体の指揮を任されているアベルが下す指令と同等の力であるのだ。本部の意見を聞かずに指示をした善は、規則……いや、アベルを蔑ろにしたことを表しているのだ。力関係の崩れは本部を離れた現場に混乱をきたす原因になる。善が非難を受けるのは当然のことだった。
「どういうことか、説明できるかい?」
アベルは善の視線を受け止めると、鋭い目で彼を見つめる。アベルは怒ってはいなかった。むしろ、善が規則を破ってまで行動を起こすほどの出来事の内容に興味があるのだ。
「もちろんです、統括。私は先ほど、七階0925(マルキュウニゴ)室、つまり私の……自室に行きました」
善には、周りの非難など全く耳に入っていなかった。ただ事実を早く伝える必要がある、それだけしか彼の頭にはなかった。
「自室は鍵を開けられており、何者かの侵入が確認されました。そして、入口近くの廊下の壁が切り取られ、“例のダストシュート”が露になっていました」
「何だって!?」
反応したのは、アベルではなくレキアスだった。彼は信じられないといった表情で善を睨みつける。善は真実だと言わんばかりに、レキアスに頷きかける。レキアスは頭を抱えた。
「“例のダストシュート”?」
しかしアベルを含め、大半の兵士達は何がなんだか分からない様子で首を捻っている。
「<イレブン>施設の建設途中、製作を断念した、個室用のダストシュートです。今も未完成のままダクトが残っています。五年前、ジアス・リーバルト、ソフィア・アバランティアが<イレブン>脱走時に利用した脱出路ですよ」
レキアスは眉間に深々とシワを作りながら、皆に聞こえるような通る声で言った。五年前……とアベルは思わず善の方を向く。レキアスはそのアベルの視線に微かに笑みを浮かべた。
「そう、そこの施設内を熟知した優秀な兵士が見つけだした“警備の穴”ですよ」
「あのダストシュートは<イレブン>の警備の穴でしょう。ですから、穴は壁に隠していたし、知っているのは僅かな人物のみです。今、この時あのダストシュートが出てくるということはL―10達が探し出した以外に考えられません」
レキアスの皮肉を聞いていないかのように、善は真っすぐにアベルを見て話を紡ぐ。流石に今の言葉は言う必要は無かったとレキアスもそれ以上何も言わなかった。
「どうやってそのダストシュートの存在を知ったのかは謎ですが。今はそれを追求している場合ではありません」
善は焦らせるようにそう言って、再びレキアスへ視線を移す。
「レキアス、施設の設備図はあるか?」
「用意させよう」
軽く頷いて、レキアスは側に控えていた自分の部下に声をかけた。すると一分と掛からずにアベル達の前の机に数枚の地図が置かれる。善は机に置きっぱなしの赤色のペンを手に取ると、体を屈めた。
「ここが私の部屋、0925室です。ここから、施設をぐるっと一周するようにダクトが伸びているのが分かりますね?」
七階の数ある部屋の一つを丸で囲むと、細い線で表示された未完成のダストシュートをなぞっていく。すると、善の手先を見つめていた情報部隊の兵士の一人が、むうと唸りを上げた。
「不思議な形のダストシュートだな。脱出で使うのにこんな遠回りするようなダクトをわざわざ選ぶのか? 降り切るまでに時間がかからないか」
兵士が指摘するように、ダクトは直ぐには下の階へ向かわず、に七階を一周するようにして階数を下っており、随分と長々としている。確かにこの脱出路では遠回りで下がり切るまでの時間が掛かってしまう。
「勾配の関係だ」
善は、手を休めることなく次々にダクトをなぞりながら、兵士の疑問に答える。
「<イレブン>の施設は、セリカ街に多く立ち並ぶような建物より背が低い。だが、七階から直線距離で一階まで降りるダクトを選ぶのは自殺行為だ。距離が短いほど勾配はキツクなる。ということは降下スピードは激しく速くなる上に体にかかる風圧の負担は大きくなるだろう。そして、停止時はそのスピードによって壁に体を強く打ち付けて終りだ」
急げは良いとは限らないということだ。善は、更に下の階のダクトをなぞりながら解説する。疑問を感じた兵士はもちろん、若い兵士の何人かが納得したような声を上げる。
「幸い、<イレブン>は背は低いが施設の平面積が広い。長いダクトなら、勾配は緩やかだろうし、カーブの際にはスピードの調整をする余裕もある」
善は、二階の地図まで進めてペンを止めた。
「……ここだ」
探していた物をようやく見つけたような善の声色だが、ここでも大抵の兵士が首を傾げている。
ペンを止めた所は、施設の北側。別に目新しい物はなく、止めた先もまだダストシュートは続いていた。
「ここに、地図に無い分岐点があるんです」
善は、そう言うと無造作にペンを横に走らせる。そして、一階にある空調ダクトと線を繋げた。
「工事のミスなのか、敢えてそうしたのかは分かりませんが、ここでダストシュートと空調ダクトが繋がっています」
ペンは空調ダクトを三メートルほど垂直に引くと、施設の外に出られるという矢印を書き足す。そして再び分岐点にペンを戻した。
「この分岐点の存在は、恐らく私しか知りません。ですからL―10達もこの先を右に行くのか左に行くのかは分かりません。空調ダクトの方へ行けばストレートに施設の裏の森に出られます。そして……」
善はペンを再び、ダクトに沿って走らせる。しばらくしてダクトは終点の焼却施設フロアに行き着いた。
「焼却施設に降りたっているのなら、東側のセリカ街に出るでしょう」
そう言った善の表情は、どこか辛そうに見えた。
*****
「時間がないと判断し、イヨールを先に現場に行かせました。本部を蔑ろにしたつもりはありませんが、過ぎたことをしました。――すみません」
報告を終えた善は深く頭を下げていた。
しかし、もう彼を非難する者は一人としていなかった。
善の報告は謎な部分も多いが、信憑性があった。アベルは戸惑う他の兵士を無視して、口を開く。
「頭を上げてくれ、善。それよりそのダストシュートは、どれくらいの時間で地上に降りられるんだ? なるべく正確な時間で知りたいんだが」
のんびりしている場合ではなかったな。アベルは善が正しい見識をしている、ということをさりげなく強調しつつ、腕時計を見た。
――善が月の間を飛び出して行ったのが約八分前。時間はない。それは、確かなことだった。
「正確な時間は、十九分三十三秒。誤差を考えてもプラスマイナス二十秒ほどかと」
「急がせなくては」
善の説正しいとするなら、仮にレイス達が善が飛び出した頃にダストシュートに入っていたとしても、あと十分とはかからない内に外に出てしまう。そして、もっと早くにダストシュートに入っていたとしたら既に外に出てしまっている事になる。
「間に合わない……か?」
今は通信機関が故障しており、この情報が全体に行き渡るのにも時間がかかる。アベルは焦りを感じながら、その場にいる全員を見回した。
ここにいる兵士を全員動かしたとしても、大して意味はないだろう。レイスは優秀な傭兵だ。中身の伴わない方法では逃げられてしまうかもしれない。しかし、ここで諦める訳にも行かない。
アベルは腹を決めるしか無かった。
「聞いた通りだ。現状は一刻を争う。君達にはすぐにでも現場に向かってほしい。そして――」
〔はい、はぁ~い。ご機嫌よお。ハローハロー、聞こえてるか~〕
緊迫した中、重大な指令が下されそうとしたその時、この場には似つかわしくない軽い調子の声が大音量で上がった。
その場の兵士全員が固まった。意味が分からない。月の間にいる人間全ての気持ちが一つになった瞬間だった。
「なんだ?」
「空気読めよな」
「誰だ、こんな時に!」
思わず、すっ転びそうになった兵士達はあれこれ口にする。依然として雰囲気をぶち壊した声は呑気な言葉を発しており、月の間に妙な空気を作り上げている。アベルも突然の事に動揺を隠せず、あちらこちらを見回していた。
「なぁ、善。聞いていいか?」
そんな小さな混乱を起こしている中、冷静に声を聞いていたレキアスは、少し引き攣った笑みを浮かべて善の方へ目だけを向ける。
「この声だが、僕には兵士の腰につけられている無線機から聞こえているように思うんだが」
「そうだな」
善は深い溜息を付きながら、近くの兵士から無線機を借りる。案の定、無線機からは今だに気の抜ける声が流れていた。
「回線の修復に整備士隊に行かせた君の部下の名前……何て言ったかな」
レキアスも善につられるように、盛大に溜息を吐き出した。
「……レキアス。もう、その部下の名前は好きに呼んでくれていい。馬鹿とでも、女垂らしとでも、機械オタクとでもな。私が許す」
善はレキアスにそうとだけ言うと、目頭を指で強く抑える。そしてもう一度だけ息を吐き出し、無線のスイッチを入れた。
〔えっ、ふざけてないでしっかりやれって? りょーかい。無線の回線が回復したようなので確認中。マイクテスト中、テスト中〕
「…………ターナー」
溜息混じりの善の声は、その場の無線機を通じてこぼれる。
〔あ、リーダー! 俺の声、聞こえてるんですね。やっと無線の回線修復完了してやりました〕
やはりターナーの声だった。お気楽な声を耳にして、一瞬手の中の無線機を握り潰したくなった善だが、そこは抑える。
「回線は直ったんだな?」
〔はい。これでわざわざ指令に人員を裂かなくても良くなるはずですよ〕
「あぁ。ご苦労様だった。いきなりですまないが、今から全戦闘部隊に指令を出したい。大丈夫か?」
今は部下を叱る時でも無いはずだ。善は頭の中で何回もそう呟き、目線をアベルへ投げる。アベルも苦笑いで頷いていた。何はともあれ通信機関が回復したことは喜ばしいことだ。
〔大丈夫ですよ。月の間に多分無線通信用のマイクがあると思うので、それを使ってくれれば〕
「そうか」
気を利かせたレキアスが、直ぐにアベルの前にマイクを用意させる。善はそんな様子を視界に入れながら、最後に一言、
「ターナー。今月、お前は減俸処分だ」
〔えっ、なに――〕
あくまで冷淡に言い切ると、返事を聞かずに回線を切った。
調子が狂う。
恐らく、その場の人間は全員そう思ったに違いない。
「アベル統括」
「ああ」
一秒で気持ちを切り替えたアベルは、善に頷き、マイクのスイッチを押した。
〔全戦闘部隊、聞こえているか。司令官のアベル・ロムハーツだ――〕




