二つの願い 2
「は、はい」
人が来ていたと気付かなかった。ノックする音に返事をしつつ、慌てて単語を書き写した紙を机の引き出しの中にしまう。ここにいる人間達はこれから全て敵になるのだ、彼女は緊張で胸の激しい鼓動を抑えられなかった。
「失礼するよ」
入ってきたのは、白衣の五十半ばの白髪混じりの男性。猫背らしいのか、屈んだような姿勢で歩み寄ってきたその人は小柄に見える。
「おや、元気そうじゃないか。助手の話では随分とふさぎ込んでいたと聞いていたのだがね」
特徴的な金色の瞳がリオールの顔を見つめる。美しい色なのだろうが、彼女は彼の瞳が嫌いだった。何もかも見透かされているような気分になる。
「……アルフスレッド博士」
アルフスレッド・パーウォカー博士。<イレブン>の研究室に五人しかいない室長の中の一人。アバランティアの研究を専門とする、アバランティアのサンプル体であるリオールの、直属の研究員だ。
「博士が直々に、どうかしたんですか?」
正直、嫌なタイプの人が来てしまった。焦りを募らせているのに、観察を仕事とする相手にそれを隠しながらその場を乗り切れるのか。リオールは喉まで出かかった溜め息を飲み込んだ。
「まだ確認が取れていないが、脱走者が出たようでね。聞いただろう? 先程の警報を」
「はい」
それは、レイスのことだ。リオールはなるべく表情を表に出さないように気を配りながら小さく頷く。
「まだ、上から大した命令も通達も無いんだが、君の小屋の周りに警備の者を増やさせてもらう。というか既に何名かこの階に連れてきた」
「えっ!?」
とんでもない話だ。リオールは落胆しそうになった。警備の人間が増えるということはそれだけ逃げることに危険が伴うことになる。
「と、いうことだ。ちと、気分が悪いかもしれんが、念には念をな。お前も妙な気を起こさんことだ」
「はい」
「では、失礼するよ」
終始にこりともせず、背中越しに手を挙げたのを最後に、アルフスレッドは小屋をでていった。
「妙な気を起こさんことだ……か」
最後の一言は、こちらの意思を見抜いての言葉なのか、そうではないのか。リオールには分からなかったが、ただ怖かった。自分には何も出来ないのではないか、と決心が揺らぎそうになる。
「しっかりするのよ、リオール! 決心は堅く、確実によ!」
我に返って、自分の頬を軽く叩く。気合いをいれなければ。リオールは何度も首を振ると、再び机へと目を向ける。これ以上の猶予はない。グズグズしていれば、レイスの突入に備えて、この階にもっと多くの兵が投入されるに違いない。そうなれば、初めにしなければならない“見張りへ魔術で眠りを誘え”すら出来なくなってしまうだろう。
「単語の解読は後にするしかないかな」
引き出しから取り出した、単語をメモした紙はインクが既に渇ききっていた。これなら折り畳めるだろう。リオールは小さく頷くと、机の横にかけてある小さなショルダーバッグを手に取って中にそっと入れた。そして、そのほかに最低限必要な物を幾つか詰めていく。
「一人……二人、三人……」
準備をしながら、リオールは窓の外をさりげなく伺う。アルフスレッドがいった通り、小屋の周りには厳つい警備兵五名程が険しい目つきで辺りを油断無く睨みつけていた。
「思っていたより多い」
リオールは知らずと眉間にシワを寄せて呻くと、その場にしゃがみ込む。手にはインクを吸わせたペン。兵士の立つ位置のちょうど真後ろになる壁に彼女は、小さいマークを書き込んでいく。
「よし」
小屋の中を一周りして、だいたいマークを書き終えたリオールは少し不安そうな表情で、ショルダーバッグを肩にかけた。そして小屋の中心にまで歩みを進めるとその場に座り込んだ。
幸い、見張りについている兵は全員小屋に近い位置に留まっている。離れた場所に行ってしまえばマーク、花の形を連想させる彼女の紋章の効力が届かなくなってしまう。
「上手くいくかな?」
同時に何人も安眠の術を使うことなど、今まで行ったことはなかった。体力がもつかどうかすら分からないが、ためらっている場合ではない。
「スリープ」
小屋の中で、暖かい光が瞬いた。
*****
「なあ、さっきの警報だけどさ、誤報だと思うか?」
「……」
「おいっ、聞いてるのか」
「あ、悪い。昨日から寝てなかったもんで……急に眠くなっ……て……」
「おいって!」
次々と人が倒れる、重みのある音が耳に届く。一人、二人、三人……。数分の内に、小屋の周りにいる警備兵全員の気配や話し声が消えた。リオールは耳に向けた集中を解く。
成功――と言いたいところだが。
「はぁ、はぁ……はぁはぁ…はぁっ」
リオールの体力が殆ど尽きかけていた。いつもは一人で一人分の術しか使ったことがないのに、今日はその五倍もの力を使ったのだから当然だろう。
「早く……行かな……きゃ。早く……行かなくちゃ……レイス……に」
座り込んだ姿勢からなかなか動けない。息は荒く、意識が朦朧とする。リオールはそれでも諦めたくない一心で、体を無理矢理立たせた。
「早く……」
一歩が重い。両足に錘が付けられているような気分になった。リオールは半ば足を引きずりながら、何とかドアにまでたどり着く。
「はぁ……はぁ」
ドアノブを下ろし、押し出す。これだけの動作に三十秒もかかった。
既に、視界ですらハッキリしなくなってきた。
ザク、ザク
気のせいだろうか? 草を踏み締める足音が耳に入ってくる。
「まさ…か…」
まだ見張りがいたのだろうか。そうであれば、異変に気づいてやってきたあたりかもしれない。どちらにしても、こちらに向かって来る相手すら視界に捕らえられない。当然、ふらふらなリオールには抵抗の術があるはずはがなかった。
「はぁ……はぁ……」
ここまでなの? リオールは自問して、無意識の内に首を左右に振る。諦めたくない。諦めたら、レイスの思いを無駄にしてしまう。また自分は狡い人間になってしまうだろう。
「来ないで……」
無茶だとは思ったが、リオールは知らずと右手を前に突き出していた。
足音が止まった。
「それ以上……近づけば……魔法を放ちます」
どこに力が残っていたのだろう。リオールの右手は、今にも消えてしまいそうなほど淡い光を纏っていた。最後にもう一発安眠の術を放とうとしているのだ。
「そこを……どいてください」
返答はない。
「どいて!! ……お願いだから!」
相手が動く物音もしない。
「お願いだから……。見逃して……ください。私は……レイスに……会いに行くんですっ」
リオールは、叫ぶ声が随分と掠れていると思った。頬を水滴が滑り落ちる――ようやく、自分が泣いているのだと、気づく。
返答は無い。そして、一向に動く様子も無い。
リオールは、全く反応の無い相手に構わず、歩き出すことにした。右手には力を入れたまま、威嚇したまま――
「あっ――!」
しかし、体は言うことを聞かなかった。魔法による体力消費はピークに達しており、前に進もうと身を乗り出しても、足がピクリとも反応しない。
当然、重心は前方に傾き、バランスが崩れる。手を着きたくても、右手は魔法の為に使われ、左手は今まで体を支えるためにドアに寄り掛かっていた。
転倒するのは、誰の目にも明らかだった。
衝撃に備えて、リオールは咄嗟に目を固く閉じる。このままなら、まず顔から地面に倒れ込んでしまうだろう。
「…………?」
覚悟した、顔へと来る衝撃や痛みは、なかった。
「あ、危なかった……」
その代わり、リオールの体は、柔らかい人の温もりに包まれていた。
感触は硬い。頬に当たっているのは、革の武装着だろうか。そして彼女は、自分が相手の胸の中にすっぽりと収まっているということに、思い当たった。信じられないが、どうやら転倒の衝撃から助けてくれたらしい。
「ジャック、大丈夫か!」
リオールが現状把握に手間取っていると、新たに草を踏み締める音がこちらに向かって来た。リオールを転倒から救ってくれたらしい人物は少しだけ身じろぎすると、その足音に向けて苦笑混じりに返答する。
「ああ。お姫様は無事だよ。全く、この人は……無茶をする」
「お前も人のこと言えない。無理にスライディングするから、背中が土だらけだぞ」
新たに来た人物は呆れたように溜め息を吐き、リオールの視界に入るように、しゃがみ込んできた。
「リオール。我々が誰か、わかりますか?」
視界は今だハッキリしない。リオールは左手で目を擦った。再び、相手を凝視する。
「あっ!?」
その時の、彼女の驚きは凄まじく、思わず口をあんぐり開けてしまった程だった。
「さあ、敵ではないと分かったら、体勢を整えましょう。これでは先に進めませんよ」
相手は、リオールの人の表情に小さく笑みを浮かべると、彼女の手を取った。
「先? あなた達は何を――」
リオールはあたふたとしたまま、相手の力を頼りに何とか立ち上がる。下敷きにしていたもう一人も、彼女の肩を支えてくれた。
『あなたのお手伝いがしたいんです』
二人は、そっくりな顔を同じようにくしゃくしゃにして笑う。声も動作も顔も瓜二つな二人を見つめていると、まだ自分の視界がハッキリしていないのかと勘違いしてしまいそうだ。
『行きましょう。とりあえず、ここを出るんです』
彼等は、制御優先体“肥やし”待機フロア警備兵。
いつも、彼女に背を向けていた、それでも一番彼女の近くにいた彼等が初めて手を差しのべた瞬間だった。
*****
「あ、あんた等って、あの! あの、いつも花畑の扉の前に立ってた、双子の警備兵か!!」
レイスはリオールの話に一段落が着くと、興奮するように手を打った。
「で? 結局、お前達はリオールを本気で助けるためにこの部屋に連れて来たんだな?」
双子の兵士の存在など知りもしないテラは落ち着いた様子のまま、話を続けていく。
『はい』
同時に頷いた二人は、一度お互いの顔を見合わせると、顔を隠していた兜を外した。
「改めてご挨拶を。我々はリオール専属警備兵のジョーカーと――」
「ジャックです」
二人は、印象的な顔がくしゃくしゃになる笑みを浮かべる。髪の色は色素の薄い灰色。瞳は驚くことにオッドアイだった。レイスは珍しい瞳の色につい見入ってしまう。右が青左が赤――
「?」
レイスは二人の顔を覗きながら、首を傾げた。
「あ、判別が難しかったら、目の色の違いで判断なさってください。ジョーカーが右が青で左が赤です」
「そして、ジャックがその逆で、右が赤で左が青です」
レイスの疑問をすぐ理解したのか、二人はそれぞれの瞳を指し示し、説明をする。レイスはその説明通り右と左をオロオロと見比べて、諦めたように笑った。
「どっちにしてもややっこしいぜ。――っていうか、ありがとうな」
『?』
「あんた等、リオをあそこから助けてくれたんだろ? しかも俺等もさ」
礼を述べながら、レイスは寄り添うリオールに目を向ける。
キュ~~ン
久しぶりの再会に喜んでいるアミーと戯れていた彼女は、小さく微笑む。レイスは彼女の表情と、今までの二人の行動を考えて、敵だと疑うのはやめようと決めた。
「解せないな」
だが、テラは違った。相変わらず難しい顔をして、油断なく二人を睨みつけている。
「テラ?」
「レイス。こいつらはお前の知り合いらしいが、今の話だとこいつら、<イレブン>の兵士だろう。俺には信用できない」
「なんで!? 二人はリオを助けてくれんだ。現に俺達も」
「では聞くが」
テラはレイスの言葉を遮る。手には槍がしっかり握られていた。
「こいつらが敵でない証拠があるのか? リオール」
「そ、それは」
リオールに振られた質問に、彼女は答えられない。顔は真っ赤で、必死に言葉を探しているように見えた。レイスはそんな彼女へ助け舟を出すつもりでリオールとテラの間に割り込む。
「だから、さっきから言ってるだろ? 二人は俺達を助けてくれたんだ」
「レイス」
テラは首を左右に振った。そして緊張した面持ちでレイスへと目を移す。
「先程の行為もそうだ。<イレブン>の兵士であるこいつらがその<イレブン>を裏切り、リオールや俺達を助けるメリットがどこにあるんだ?」
「メリット?」
咄嗟に言葉が返せない。確かに、二人は何故危険を冒してまでレイスやリオールを助けたのか。それが善意によるものなのか、そうでないのか、レイスには分からない。
「説明できるのなら、説明してもらおう。信用するかどうかはそこからだ」
テラは黙ったレイスを押しのけて、再び二人を睨みつける。彼の銀色の瞳には微かな殺意すら込められていた。




