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Avalantear アバランティア  作者: 海豹
第一幕 ―起―
21/68

牢に閉ざされて……

 ひたすら暗闇の中を走っていた。

 急がなくては、急がなくては。心の中を占める焦燥感は、呼吸と共に荒々しくなっていく。

 星の光を通しもしない夜の森は、先を急ぐ走者には厳しい環境。

 獣道はぬかるんでいて、雫を乗せた草木が走る度に体に纏わりつく。必死に走れば走るほど足は重くなり、息が切れる。

 どこまで走っても終わりが見えない。暗い森では遠目は効かず、己がどこを走っているのかすら分からない。永遠にこの森を出ていくことはできないのではないかと、そう思わせるほど道のりは長い。

 疲れて、足が悲鳴を上げても立ち止まれない。立ち止まれば、一緒にいる彼女が躓いてしまうだろう。


――彼女?


 彼女って、何だ? レイスは、はっと我に返る。


――どうして俺は走っているんだ。


 見覚えのない風景と、身に覚えない状況。先ほどまで自意識がなかったかのように走っていたが、そもそもどうしてこんなところを慌てて駆けているのかまるで見当がつかない。全く状況が掴めず、思考は混乱する。


「早く」


 しかし、意志に反するように彼の口は勝手に動き、己の意思とは違う言葉を紡ぎだす。


「早く!」


――これは誰の声だ。


 更にレイスは自分の口零れる声が、違う声色だと言うことに気がつく。

 そこから導かれる、一つの答え。


――自分は今、自分じゃないのか。


「待って」


 すると今度は女の声がレイスの背後から現れる。振り返らずとも、彼はその声の主に心当たりがあった。

 何度も彼の夢に登場する人物の一人、ソフィア。彼女が出てきているということは、これは夢の中なのか。レイスは冷静に思考を続ける。


「急ぐんだ! このルートの脱出路はまだ誰も知らない。だから今のうちに逃げきるんだ」


 走りながら紡がれる言葉は荒々しく、レイスは息も絶え絶えに声を張り続ける。

 ふと自分の服装に目をやると、やはり己のものとは違っていた。肌の色も、髪の色も。よく考えてみると、視界自体もいつもより目線が高い。

 自分が違う人物に成り代わっているという推測は正しかった。そしてソフィア同様に、レイスはこの人物にも心当たりがあった。


「ソフィア。頑張ってくれ」


 再び、叫ぶ。その力強い声の響きと、彼女を思いやる行動から、レイスは確信した。


――俺はジアス・リーバルトなんだ!


 だんだん状況が掴めてきたレイスは、もう一度辺りを見回す。ここはきっとセリカの森の中で、彼等は二人でその中を駆け回っているのだ。

 これは駆け落ちした五年前当日を表しているのだろう。レイスは湧き上がる焦燥感から、この風景の答えを悟った。


《ざーんねん。今回はちっとばかし違うんだな》


 いつもと同じような夢。レイスはそう考え、いつ目が覚めるのやらと思っていると、突然目の前が眩しい光に包まれる。すると森もソフィアも何もかもが一瞬でかき消えてしまった。突然の変化に、彼は再び混乱する。


「は?」

《お、驚いてる驚いてる。サプライズ成功だな……実はドッキリでしたとか言いたくなるな、こりゃ》


 消えてしまった景色と入れ替わるように、今度は妙に明るい声色の男の声が出現した。


「誰だ」


 真っ白の世界となった夢の中、レイスは馬鹿にされているような気になって叫んだ。


――分からない。分からない。分からない!


「毎日、毎日、毎日、変な夢ばかり見せやがって。今度は変なやつが話しかけてくる夢かよ!」

《変な奴はないだろ。傷つくな。まぁ、いいか。せっかく話が出来るまでに“接続”できてきたみたいだしな》


 接続? また訳の分かんないこと言いやがって。レイスは立て続けにわが身に起きる、奇妙な現象にいい加減飽き飽きしていた。己の夢見の悪さを呪うだけでは納得のいかない、生々しい夢は彼に精神的な負荷を与えていた。

 行き先のない苛立ちはここにきて現れた、新たな“訳の分からないもの”に一気にぶつけられる。


《今見せた夢、忘れるなよ》

「は?」


 レイスが静かになったのを見計らって、声は真剣なものに変わる。

 だが、訳の分からないレイスは、首をひねることしかできなかった。


《今、二人が走っていた場面をわざわざ見せたんだ。しっかり覚えておけ》

「それってどういう」

《悪いが説明できるほど余裕がない。だが、後々分かるさ。じゃあ、頑張れよ》

「お、おい! 何なんだよ、何がどうなってんだよ」


 ……ていうか、俺の夢の中どうなってんだよ! レイスは爆発しそうになる頭を抱えてただ叫ぶことしかできなかった。




 *****




「何がどうなってんだよ!」


 レイスは、叫んで飛び起きた。先程まで見えていた白い光は途端に吹き飛び、彼は息を乱したまま現状を把握しようと辺りを見回す。

 見覚えのない所だった。薄暗く、狭い部屋は周りを冷たい金属の格子と灰色の石の壁で囲まれている。格子の先は狭い廊下で、天井についた電球がここでの唯一の照明だった。

 人一人ぎりぎり横たわれる固いベッドに寝かされていたので、なんとか上半身だけを起こす。そしてレイスはようやくここが夢の中ではないということだけは理解できた。


キュ~~ン


 聞き覚えのある鳴き声が耳に届き、レイスは目を自分の腹部に向ける。微かに温もりを感じた。


キュ~~ン


 そこにはレイスの腹と薄い掛け布団の間に潜り込んで身を縮ませている白いイタチのアミーがいた。確かに、ここは体が震えるほどに冷え込んでいた。彼は慌てて布団を手繰り寄せる。


「……アミー」


 やけにお腹が暖かいと思ったら。レイスは眠そうな顔でこちらをみる彼女を抱き上げて、冷えた体をその体温で暖めた。そして、ごちゃごちゃになっている頭をなんとか整理させる。まずはここがどこなのか、知る必要があった。


「確か、俺は花畑でリオを逃がそうとした。でも、善にやられて……そうか」


 順序を辿って、意識が飛ぶ以前のことを思い返したレイスは、ぽんっと手を打った。


「俺は、捕まったんだ! ……ということはここは牢だな」


 間抜けな話だ。彼は苦笑いしながら、首もとに手を添える。善から受けた打撃は思いの外強く、首は熱を持っていた。


「……ふっ」


 そんな時、レイスの大きな独り言に思わず吹き出してしまったと言ったような、小さな笑い声が響いて、レイスの耳に届いた。


「だ、誰かいるのか?」


 間抜けすぎる。レイスは今の今まで、一人でいると思っていただけに、迂闊だったと鋭い目で声の主を探した。

 残念ながら、手元には剣も、武器になりそうな物もなかった。捕まった時に取り上げられたのだろう。善を相手にあれだけ暴れたのだから当然だ。

 それだけに、声の主の正体が分からないことでレイスは冷や汗をかくはめになった。牢にいる以上、相手が味方である可能性はほぼゼロだろう。


「お前は目がないのか?」


 今度はしっかり、はっきりとした声が発せられた。レイスはその声がすぐ左隣から聞こえてくることに気づいて、目線をそちらへ移動させる。

 暗くてまだ目が慣れていなかったため、気づかなかったが、隣りの牢にもレイスと同じように囚われている人物がいた。敵ではなさそうだ。


「こ、こんにちは。はじめまして」


 目が合う。鋭い視線に一瞬、怯みそうになったが、レイスはとりあえず挨拶はしておこうとおずおずと笑いかけた。

 無視。


「あのぉ」


 再び無視。いや、微かながら舌打ちが聞こえた。

 レイスは全く反応しない相手の態度にムッとしながらも、懲りずに声をかける。もしかすると何か話が聞けるかもしれない。それが何の話かは期待していないが、現状もほとんど把握出来ていないレイスにはすがるような思いだった。


「……うるさい」


 しばらくして返ってきた返事は、セリカの夜風よりも遥かに冷たい。レイスはさらにムッとして相手を睨みつけた。

 目が完全に闇に慣れてきたらしく、少ない光の中でも相手の姿を確認出来るようになっていた。相手は二十代半ばと思われる長い銀髪の男。だがレイスは彼の姿を見て、思わず息を飲んだ。


「あんた、どうしたんだよ。その左眼」


 男には左眼がなかった。正確に言うと、人の眼らしき物がないのだ。眼があったと思われる部分には身震いしてしまいそうな深紅の“眼”がはまっており、右隣の銀色の瞳とは明らかに形も色も異なっている。

 まるで獣の眼のようだった。


「答える必要があるのか?」


 男は品定めするようにレイスをそのアンバランスな両目で見ている。だがレイスの目線が赤い眼だけに向けられているのが分かると、覚束ない手つきで長い銀髪に触れて、前髪で顔の左側自体を隠してしまった。

 気にしていることだったのだろうか? 相変わらず鋭い視線を向けてきている男だが、彼の一連の動作にレイスは悪いことをしたような気になった。


「俺、レイス・シュタールっていうんだ。あんたは?」


 やはり答えない。レイスは、はぁと小さく溜め息をついた。話を聞くまでになるには時間がかかりそうだ。


「入るぞ、化け物ども」


 そんな時、ギイッと金属をこする嫌な音が響いて、やけに大きい足音が入ってきた。牢の看守か? レイスはそう考えて、アミーを抱く腕を強ばらせた。


「ジロジロ見てんじゃねぇーぞ。こら!」


 足音は初めは離れたところからきこえ、こちらに近づいては止まり、他の牢に八つ当たりでもしているような、罵声と物音が耳に入る。


「馬鹿大将のお出ましだな」


 隣の男も足音に耳を向けているらしく、大きな舌打ちをしてレイスから目をそらした。


「お、新入りが起きてるな……」


 しばらくすると足音はレイス達の牢にまでやって来る。とおめにはガタイのいい男に見えていたが、制服のようなものを身につけているあたり、やはり看守だと分かった。

 しかし牢の前に立った看守の姿を見て、レイスは口をあんぐりと開いてしまった。

 何しろでかすぎる。

 二メートル半以上はある天井に頭をこすりつけるようこちらを見下ろしている。がっしりとした肩に、出っ張った腹。肌は黒く目は細い。小さい鼻にエラの張った無精髭だらけの顎。お世辞でも整っている顔とは思えない中年男だ。


「今日は自慢の紅い目が隠れているみたいだなぁ。隣りに来た奴に怖がられたのか?」


 看守の視線は男に向けられていて、明らかに馬鹿にしてニヤニヤしている彼は黙っている男に唾を飛ばすと、改めてレイスへと視線を動かした。


「よぉ新入り。〈イレブン〉を裏切るとはなかなかの度胸だが、しばらくはこの化け物の隣りにいてもらうぜ。まだ上の連中がお前の処罰を決めてねぇから、俺は何も出来ねぇんだよ」


 拳をバキバキと鳴らし、恐怖を煽るようにしようとする看守。だがあまりレイスには効果はなかった。


「面白味がねぇなぁ」


 看守はそう言いながら、再び隣の男に目をやる。そして何か面白いことでも思いついたようにニヤリと笑い、腰から牢の鍵束を取り出した。


「お前、出ろ」


 パタンと軽い音と共に牢が開かれ、看守は男に命令する。だが、やはり男は無視していた。若干、その表情は憂いを帯びてはいたが……


「おい、早くしろ! 誰に逆らっていると思っているんだ。いい加減学習しろ」


 命令に従わない男にいらついた看守は鍵束のある腰のベルトの隣りに固定された鞭を手にした。


「……分かった」


 鞭が視界に入ったとたんに男は一瞬体を強ばらせ、仕方ないといったようにゆっくりと立ち上がる。そして、ふらふらとした歩みで看守の元へ向かった。


「分かってるじゃねぇかよ」


 看守はやって来た男にニヤリと笑いかけると、突然鞭を振り上げる。

 短く鋭い音が響き、鞭は男の頬を打った。突然のことで男は反応しきれず、床に倒れこむ。レイスは思わずその場から立ち上がった。


「何してんだよ、オッサン」


 オッサン。その言葉に少し反応する看守だが、相変わらず口元に醜い笑みを浮かべて鞭を振るう。

 今度は倒れた男の左頬をわざと狙うようだった。皮膚は赤くなり、何度も打たれるうちに血が滲んで涙のように滴り落ちてくる。眼が紅い為にそれは涙のようにも見えた。


「何してるって? 教えてやってんだよ。この牢では俺に逆らうとどうなるかってことをこの化け物にな」

「化け物ってなんだよ。彼は人間じゃないか!」


 一声も上げず、ただやられるがままになっている男の姿を見ていられないレイスは、格子に体当たりするようにして看守に喰ってかかる。

 身を縮ませ、痛みに耐えている男の姿を見て、愉快そうに看守はガハハと声を上げて笑い、彼の胸倉を掴んでレイスの目の前に引きずってきた。


「こいつ、実験材料なんだよ」

「実験?」


 看守は首を傾げるレイスに見せつけるように男の左目を露わにすると、鞭の柄で彼の頬をぐりぐりと押す。


「この牢は、〈イレブン〉の研究施設に送り込まれたサンプル体の貯蔵庫なんだよ。つまりここにいる連中はみーんな体のどっかはいじられてるんだ。ほら右側見て見ろよ」


 看守は差し棒のように鞭の柄でレイスの右側の牢を示した。つられて目をそちらに向けた彼は、ギョっとして体を強ばらせてしまう。

 耳を澄ませると、何かが身動きする音がして、そこには元は人間であっただろう生物が横たわっていた。

 腕、足はある。だが明らかに人間ではない。言葉に表現することも恐ろしいそれは、レイスに大きなショックを与えた。サンプルといえばリオールが思い浮かんだが、彼女などまだ扱いとしては温い存在であり、〈イレブン〉の残酷さはこの現状にあるのだと彼は思い知るのだった。


「そこの奴、三日前まで普通の女だったんだぜ。化け物と呼ばすなんていうんだよ? えぇ?」


 看守は勝ち誇ったように笑い、レイスに歩み寄る。


「俺はそんな奴らの世話を任されてる責任者なんだよ。元々罪人で、人間でもねぇこいつらを俺がどうしようたって誰も非難しねぇんだよ」


 レイスはショックを受ける中、笑い続ける看守に確実な怒りを覚えていた。人がどんどん異形な物に変わり果てていくというのに、彼はその弱い者達に暴力で快楽を得ている。感情が腐っているとしか思えなかった。


「お前も今のうちに覚悟しとくんだな。罪人は〈イレブン〉では処刑か、実験サンプルの仲間入りのどちらかしかねぇから、俺に媚びを売るくらいのことが出来るようにしとけよ」


 正直へたり込みそうになる衝動にも駆られたが、なんとか踏ん張り、レイスは看守を睨みつける。


「ほらどうした化け物! 泣き叫んでみろよ。少しは抵抗してみろ!」

「哀れだな」


 再び看守は男に鞭を向け始める。レイスはとうとう我慢できなくなり、そう鋭い声で言葉を吐き出した。

 ピクリと看守のこめかみが動く。


「……なんだって?」

「哀れだっていったんだよ。このクソ看守!」

「はぁ?」


 レイスは怒りで拳が震えた。鞭に打たれていた男が彼の怒鳴り声に目を見開いているのが見える。


「なにお山の大将気取ってんだよ! か弱い罪人とか囚人とかを力で押さえつけて、ニタニタ笑うなんて哀れすぎるっての。あんたいくつだよ? 小さい子をいじめて楽しんでるそこらのガキみてぇなことしてんじゃねぇよ! 化け物? お前のほうが人間離れしてる面のくせに!」


 あえて言葉は選ばなかった。看守は痛みつけている男から離れる。予想通り茹でタコのように顔を真っ赤にさせて、怒りの形相でレイスに向かってくる。


「処罰が決まってないから、大人しく手を出さないでいればしゃしゃり出やがって! あぁん? 舐めんじゃねぇぞ、クソガキがっ」


 そして鍵束を取り出してレイスの牢の扉を開けて入ってくると、看守は鞭ではなく拳で容赦なくレイスを殴りつけた。


「……っ!」


 善との戦闘で傷付いた体は、勢いに耐えきれずにそのまま後ろの壁に打ちつけられる。痛みはあまり感じなかった。善にやられたのと比べると、そよ風が当たった位にしか威力がない。


「処罰が下ったら、こんなもんじゃねぇからな! 覚えとけよ。俺を怒らせたことを後悔させてやる!」


 看守はいきり立って、レイスの背中に鞭で一発打ち出すと、男を牢に戻らせる。乱暴に鍵を掛けると、鼻息を荒くして、大きな足音を立てて去っていった。

 看守が居なくなると牢全体がほっと安堵するような空気になり、静寂が戻った。

 レイスはどこかやりきれない思いで溜め息を漏らし、再びベッドに腰を下ろす。ふと隣の男と目が合い、苦笑いしながら声をかけた。


「あんた、大丈夫か?」


 やはり返答はない。だが、レイスは構わず喋り続けた。


「ひでーよな。あの看守」


 レイスは背中をさすりながら、腰の収納バックに手を伸ばした。幸い、結晶化病の薬などは取り上げられていなかったらしい。彼は幾つもある薬の中から瓶の物と平べったい容器の物を取り出す。


「これ、本来は痛み止め薬なんだけどさ、鎮痛剤には変わりないから使えよ。その傷ほっとくと酷くなりそうだからな」


 見た様子、涙のように流れていた血は止まったようであり、レイスは平べったい容器の薬を格子の隙間を狙って隣の牢に投げ入れた。


「何のつもりだ」


 素直に薬をキャッチした男は、それを手にしたまま、小さな声で呟く。レイスは戸惑いを感じている様子の男に、少し呆れて肩をすくめた。


「何のつもりって、普通に怪我してるから薬をやっただけだけど?」


 一瞬、男がその言葉に驚いたように言葉を詰まらせると、少しだけ声を大きくして続ける。


「……あの看守は、まともに戦えばまず負けないが、牢にいる上では迂闊に逆らうのは命取りだ。何故庇った」


 薬のことじゃないのか。レイスは 少し恥ずかしい気にもなったが、男の言葉にまた首を捻る。


「何故ってね。普通、目の前でリンチされてる奴がいたら助けるだろ? それに、俺はここの詳しい事情のことなんか全然分かんないし、深く考えてないって」

「妙な奴だ。自分が痛い目に遭うとは思わないのか?」


 男は呆れ全開といった様子で、 ようやく薬の容器のふたを開けた。そしてこちらに視線を向けたまま、クリーム状の薬を頬に塗り始める。どこかその表情は目覚めた頃と比べると、随分と柔らかくなっていた。


「……あんまりそういうこと言うなよ。あんたを助けたことを後悔しちゃうだろ」


 少し冗談めかして、にっこり笑いかけると、男はため息をついて下を向く。そして何やら口を動かした。


「…………だ」

「え?」


 なんか言ったか? レイスは首をひねって耳を澄ます。男は相変わらず下を向いたままもう一度言った。


「……テラ」

「テラ? 名前か?」


 何とか聞き取れたのはそれだけ。男は少しじれったい様子で、


「そう呼んでくれ」


 と言うと、ふたを閉じた薬をまた投げ返した。


「あと、薬の件とさっきの看守のことは借りだ。必ず返す……」

「いいって、勝手に貸しにするなよ。そういうつもりで親切にしたわけじゃないからさ」


 聞く耳持たずと言った様子で口を閉ざした男――テラは、再び左側の紅い眼を銀髪で隠す。そして、彼はレイスが持っているもう一つの薬に目を向け、微かに眉を寄せた。


「お前……」


 彼は立ち上がってレイスのいる牢の方へと歩み寄る。銀色の瞳が真剣であることを語るため、レイスは息を飲んだ。


結晶化病クリスタル・シックなのか?」

「よく分かったな」


 レイスは驚いて、手に持っている瓶の薬をテラに向けて突き出した。


「薬に詳しいのか?」


 感心しているレイスを見て、テラは険しい表情のままなにも答えない。レイスは彼の視線に息苦しさを感じ、薬を取り出して口に放り込んだ。


「……そういやあのバカ看守さ、俺が処刑か実験サンプルいきのどっちかって言ってたよなぁ」

「お前は即処刑行きだと思うが」

「えっ?」


 身の回りに水らしいものが見つからないのでそのまま薬を飲み込んだレイスは、思いがけないテラの言葉に鳥肌が立つのが分かった。


「どうしてそう思うんだ?」


 テラはその問いに、レイスの右隣にいる“人間だったもの”を指し示す。


「俺や、あそこの奴みたいなサンプルは〈イレブン〉の“合成獣キメラ”研究をする連中どもの玩具だ。だが、お前のような結晶化病クリスタル・シックにかかっている奴は必然的にその研究対象にはならない」


 合成獣か。テラの紅い眼を思い返して、更に身震いしそうになったレイスは、内心ホッとしながら右に向けた視線を戻した。


「必然的って言ったよな? それはどうして?」

「簡単なことだ……結晶化病クリスタル・シックの人間は長く保たない。せっかく体をいじって結果を残そうとしてもサンプルが死んでしまったら意味がないからな」

「俺は賞味期限ギリギリの食べ物みたいだな」


 ついつい皮肉を口に出てしまった。


「つまり俺みたいな、いつ死ぬか分かんない奴は駄目ってことか」


 俺は人間以下の扱いすら許されないんだな。〈イレブン〉の手前勝手すぎるやり方に、レイスは今更ながらお腹の辺りにじんわり怒りが蓄積されていくのを感じた。


「それだけじゃない。お前は結晶化病クリスタル・シックなのだから、合成獣の研究ではなく結晶化病対策専門の研究サンプルになるのが妥当なんだが。生憎、結晶化病クリスタル・シックのサンプルはわざわざこんな牢にいる人間を使わなくても、世界中のどこにでもサンプルになれる人材はいるから、これ以上必要ない状況にあるらしい。お前が選ばれずに処刑されることは想像がつく」


「本当か」


 怒りはだんだんと焦りへと変化しつつあった。すぐに殺されるのは、レイスにとって困ることで、彼は絶望的になる。


「俺は、今死ぬのは困るんだよ」


 レイスはここに来てようやく、自分の状況を完全に把握することができた。あまりにも不利なことに彼はただ頭を抱える。


「やはり、命が惜しいと言うことか」


 往生際が悪い、と馬鹿にしたようにテラは鼻を鳴らした。牢に入れられるようなことをしたのだからある程度想像はついていたんじゃないのか? 無言ではあるが、彼の冷めた目がそう言っているようにレイスは思えて、大きく首を左右に振った。


「違う。俺は自分の命なんて惜しくない。今死んだって、一年先で死んだって同じことだ。けど、俺にはやらなきゃならないことがある」


 レイスは声を低く抑えて、決意を確認するように静かに呟く。


「守りたい人がいるんだ」


「守り……たい?」


 テラはなぜか目を細め、掠れた声でレイスの言葉に反応した。明らかにそれは驚いているようであり、レイスは彼の視線に今度は照れくさくなる。


「自分の命だって危ういのに、守りたいなんて馬鹿だとは思うけどさ」

「それは、リオとかいう女のことか?」


 話を割って入ったテラの言葉にレイスは思わず言葉を失い、立ち上がる。今度はレイスが驚く番だった。


「えぇぇえ!? 何で分かったんだ?」


 お前は超能力者か何かか? 頭の中でも読みとれるのかよ! そんなことを考えながら彼はテラに向かって二、三歩足を進めると、テラが更に低い声で言葉を紡いだ。


「リオ。確か、ソフィアとかいう女の妹だったよな」

「どうして?」

「お前がここにぶち込まれた時、黒いスーツの男……あれは特殊部隊だな。その男が看守に事情を話していた。お前はまその時まだ眠っていたから知らないはず」

「なるほど」


 事情説明を聞いただけでどうしてリオがソフィアの妹だって分かるんだ? レイスは頷きながらも、テラの言葉に疑問点があり少し唸りながらも、照れくさい気持ちが戻ってきたため、頭を軽く掻いた。


「リオは、アバランティアや〈イレブン〉のせいで自由をなくしている。むしろ飼い殺しが正解だ。姉も〈イレブン〉に奪われて、一人ぼっちでいずれアバランティアに生け贄に捧げられる時を待ってるんだ。俺は自由だけどあと一年しか余命ない。皮肉だよな、命ある人間が死ななきゃならない運命にあるんだから」


 テラの息を吐く音が響く。彼もサンプルとしての運命を悟っているのだから、気持ちが分かるのだろう。


「助けたい……助けたかった。俺の残りの人生かけてでも。運命に逆らいたいんだ。俺が死ぬことはどうにもならなくても彼女が自由に生きることはやろうと思えばできる事なんだと証明したかった」


 リオールを助けたい想いは、そんな自己中心な理由からだった。


「だから、俺はここで死ねない」

「脱獄でもする気か?」


 馬鹿にしたような笑いが上がる。テラが突然、発作的に笑い始めた。


「そうするしかないだろ!」

「ここがどこか分からないのにか? 意識のないまま連れてこられたのに、脱出ルートも分からないんじゃないのか。諦めるんだな。やるだけ無駄だ」


 確かに、テラの指摘は正しい。レイスはいきり立ちながら、牢を仕切る格子を掴んだ。例えそうだとしても諦めるのは早すぎる。


「やってみないと分かんないだろ!」

「……」

「……」

「……お前もそんなことを言うのか」


 黙り込んでしまうと、テラは荒れているレイスの様子に何を思ったのか、小さく溜め息をついて、彼の頭をわし掴んだ。

 何する気だ。レイスはつい身構えたが、テラは物凄くゆっくりとした動作で彼の髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。

 もしかして頭を撫でられてるのか? レイスは反射的に閉じてしまった目をゆっくりと開いた。


「……五年前。今のお前みたいに脱獄を試みようとした馬鹿がいた。そいつは無駄に元気な奴で、やっぱりお前みたいに無駄だと思ったことを全力でやろうとしていた」

「テラ?」


 ワシワシと、覚束ない手つきでレイスの頭をかき混ぜるテラは、どこかを思い出しているように遠くを見つめている。レイスの困惑した声も届いていない。


「まさか、その通りになるとはな……」


 しばらく何かを考えていたテラは、不意に手を止めてレイスと目を合わせた。


「借りは借りだ。約束は約束」


 そして、呪文のように唱えるとレイスから手を離す。


「脱獄を手伝ってやる」

「えっ、ぇぇえ!?」


 やる気のない目で小さく言ったその言葉は、レイスを叫ばせるには十分だった。




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