逃走
遠くで殺気立った気配を多数、肌に感じる。
雨水を含んだ草木で覆われた獣道を、男は息を切らせ駆けていた。体に濡れた葉がいくつも纏わりついてくる。まるで通る者を取り込もうとしているように感じた。男の右手には一振りの剣と、左手は共に走る女の手を強く握っている。夜の暗闇の中をがむしゃらに走っていた二人だが、やがて断崖絶壁を前に足を止めた。
足元より遥か下。決して穏やかではない波の音が五月蝿いほどに耳に入ってくる。引き返すにも二人にはその場所がなかった。
二人を追う追っ手の数はおそらく二十ほど。
辺りの気配を全身で探りながら、男は海から吹く冷たい風に顔をしかめる。少し伸びすぎた髪が強い風になぶられ、意志を持っているかのように踊っている。髪留めの紐は途中で切れてしまった。
「しつこい奴らだな」
崖を降りることは可能なのか。彼は視線を海へと落とし眉間に寄せた皺を深くする。昼間まで降っていた雨のせいで波は想像以上に荒れていた。更に夜の海は、暗闇でその全貌を伺い知ることはできない。先に進めない状況は二人を焦らせた。
「まさしく崖っぷちだ」
気がつけば、ついつい皮肉までこぼれる。彼はここに至るまでの過程を思い起こし、ため息をついた。
所属していた組織を裏切り、
友を傷つけ、
当然追われる身となって。
逃げて、逃げて、逃げて。
たどり着いたのは逃げ場のない断崖絶壁。
男は酷い現状に、呆れるどころか笑い出していた。
「戻りましょう、無理だったのよ」
黙ってついてきた女が、男の迷いに気づいて声を上げた。
彼女は体のあちこちに擦り傷を作り、服を汚して、乱れた身なりだった。走り慣れていないのか、ふらふらと安定しない足元は、疲れきって今にも倒れてしまいそうだ。
「何を言っているんだ」
頭を抱える状況ではあったが、男はその言葉にすぐ振り返って否定した。
「このままじゃ、貴方が殺されてしまうわ」
「それでは君が救われない」
女は強く反論するが、その声は頼りなく揺れている。それに気づいた男は、逃げ腰の彼女の手を取った。
「戻れば俺達は、二度と会うことが出来なくなる」
言い聞かせるように男は囁き、彼女の瞳を真っ直ぐ見つめた。
「戻れば、君はあの場所へ……俺は……」
言葉は全て紡ぐがれることはなく、男は両手で彼女の手を優しく包み込む。震えはゆっくりと彼の手の中に消えていった。
「逃げよう。誰も追いつくことが出来ない所へ、二人で!」
女は手を包む温かさに泣き笑いを浮かべ、頷いた。離れたくない、心から想っているのは、二人共同じだった。
「急ごう、善が足止めできる時間はとっくに過ぎている。奴らは」
「そこまでだ」
一歩踏みだそうとした時、目が眩むようなライトが二人の姿を捉える。思わず目をかばったが、すぐに男は女を引き寄せ、背に隠すように促した。
「随分、ご到着が早いじゃないか?」
「抵抗は無駄だ。大人しく投降しろ」
スピーカー越しの機械的で感情の無い声。
冗談など通じるはずのないそれは、非情さまでも物語っている。
耳にするのも鬱陶しいのか、男は話を続けようとする彼らの声を遮った。
「俺が大人しく従う訳無いだろう?」
追っ手に向けられた剣は絶対的な拒否を意味しており、男は更に不敵に笑ってみせた。
もちろん死ぬ気はない。
「代わってくれ、いいから代われ!」
両者の間に張り詰めた空気が漂い始めたその時、スピーカーの奥から慌ただしい声が入り込んできた。
「聞こえるか、私だ」
「善?」
「戻るんだ。君達を……死なせたくない」
走ってきたのか、スピーカーからこぼれる声は途切れ途切れで荒々しい。
突然の登場に呆気にとられた男だが、しばらくしてその声に、他の人間へとは違う怒りを感じた。
「今更何を言っているんだ! 分かってくれたんじゃなかったのか」
返事は、無い。
男は改めて前を強く睨み、少しだけ息を吐くと、仕方なさげに頬をゆるめた。
「その優柔不断さがなくなればいいな、善。俺は行くよ」
男は剣を鞘に納める。
そして逃げ場のない周囲をひと回り見回すと、女の手を取ったまま、暗い海へと足の向きを変える。
「ま、待て。どこへ行く気だ。そっちは」
「俺を信じろ」
微かなどよめきに、男はチラリと女の方へ目を向け、強く言う。
「はい」
女はただ大きく頷いて、強く強く手を握って一歩、また一歩と歩き進める。
もう震えは無い。
「ダメだ、行くな」
悲痛な叫びが空気を斬り裂く。だが二人はその声にはもう振り返らず、荒れ狂う冷たい海へと姿を消した。




