和解
柔らかい草木の香りが鼻をくすぐる。穏やかな風が悪戯に髪を軽く乱しては通り過ぎていく。レイスはこの空間が夢であると何故だか認識できていた。
優しいのね
美しい、髪の長い女が現れ、レイスに笑いかける。見覚えがある。彼女は何度もレイスの夢に現れるリオールの姉、ソフィア。
レイスは無我夢中で女性に手を伸ばした。聞きたいことは山のようにあるのだ。
「教えてくれ。貴女はリオールを残し、どうして、どうやって逝ってしまったんだ?」
私は肥やしに過ぎない
「肥やし? あのハザードも俺にそう言った、何なんだよ、肥やしって」
それは
手を伸ばしても、女に届かない。レイスは半ば叫びながらもただがむしゃらに手を前に出し続けた。
******
「レイス」
名が呼ばれた。少女の声だ。
レイスはゆっくりと瞼を開く。白い天井が見え、傍らには目を赤くしたリオールの顔があった。
「目が覚めたんだね」
ここはどこだ。リオールに問いかけようとするが、声にならない。もう一度口を開こうとすると、右側から低く静かな声が、まだ無理をするなと言わんばかりに割り込んできた。
「十一階の研究所の治療室だ。先ほどの戦闘で結晶化病の発作がでたらしい」
視線をそちらに移動させれば、壁に寄りかかって、腕組みをする善と目が合う。彼の手にはあの黒い騎士の白い羽根が握られていた。
「……そうか」
俺は昼に薬を飲み忘れて、発作を起こして、更に黒い騎士にやられそうになったんだった。なんとか返事をかえしたレイスは反射的に起き上がろうとする。だが意志に反して体は言うことを聞かない。
「まだ、無理はしないで」
リオールの心配そうな言葉を無視し、レイスは関節が悲鳴を上げる体を動かした。とにかく起き上がりたい。
「丸一日寝込んでいたのに、まだ本調子ではないだろう。寝てろ」
「俺が本調子の時なんて四年前を境に一回も無い」
善も呆れたように言うが、レイスは首を振った。そんな彼の反応に善は小さく溜め息をつくと、壁から体を離して部屋を出ていこうとする。
「リオに感謝しろ。ずっとお前に回復魔法をかけていた」
背中のを向けたままの善は一度止まるとリオの方へ振り返った。どこかその顔つきは固い。
「時間は十五分が限界だな。それ以上は私でも言い訳できない。リオ、いいな?」
リオールが頷くのを見て安心したように少し表情を緩めると、今度こそ部屋を出ていった。十五分とは? 訳が分からないレイスだが、ふとリオールの額が汗ばんでいることに気づき、ため息をついた。
「ずっと回復魔法を……悪いな。あれって体辛いだろ?」
善の言葉の意味は理解できなかったが、ドアが閉まる音が響いて二人きりになってしまったのだと気づく。レイスは、まず気まずさを紛らわすように先手を打った。なるべく明るく振舞えるように、声色を高めて快活に話すように心がける。
「情けないよなぁ。あの黒騎士にはボコボコにされるし、更に倒れて守らなきゃならない君に迷惑をかけてる」
最悪だよ、レイスは呟く。しかしどれだけ明るく話しても漂う空気の重さに変化はなく、彼は困り果てる。
そこで何とかこの空気を変えるために、一生懸命首を左右に振っているリオールへ、気になっていたことを問い掛けた。
「そういえば、あの俺が倒れた後どうなったんだ? 結晶化病はいくら回復魔法でも発作は止められないだろ」
「善さんが……」
どういうことだ? レイスは首を捻り、先を急かす。
「善さんが、倒れた貴方にまず水と薬を」
「薬?」
「その腰のバッグにあったのを使ったの。善さんは薬くらい持ち歩いてるだろうって、探していたから」
とっさに己の腰に触れるが、取り外されているのかバックは無く、確認できない。実際バックには必要な薬を入れておいてある。レイスは仕方なく、再びリオールに問いた。
「……薬はいくつのませたんだ」
「一種類だけ」
「一つだけなのか?」
「うん」
「薬の瓶は四つあったはずなんだけど……」
レイスは薬瓶の中を思い浮かべた。薬は多少見た目に違いはあれど、殆ど外見は同じ白い錠剤だった。医師でなければ見分けもつかないようなそれを選んだということに、彼は驚きを隠せない。
「よく発作の抑制剤がどれか分かったなぁ。俺だってよく分かってないのに」
善は強く仕事できそうな上に、医学の知識もあるのか、凄いな。レイスは更に感心しながら、リオールと目を合わせた。
話が途切れる。彼女は相変わらず暗い表情で、押し黙っていて、レイスがどれだけ話しても長くは会話も続かないだろう。仕方ない、彼は開き直ると口を閉ざして天井を睨んだ。
「レイス」
「な、何だよ」
しばらくしてリオールがこちらを見つめていることに気づく。更にその彼女の瞳が涙を浮かべ始めるので、レイスは焦った。あたふたと辺りを見回すが、助けを求められる者は一人もいない。彼はどうしたら良いのか分からず、とりあえず今度こそ体を起こすことにした。
「ごめんなさい」
「へ?」
唐突にリオールがこぼした言葉は、レイスは困惑した。上半身をなんとか起こし切った彼は、言葉の意味を問うために再び彼女の瞳を見つめる。
「私、自分ばっかり不幸だって考えていて……レイスが結晶化病だと知らなかったから」
リオールは時折言葉が詰まらせ、目にたまった涙を膝下に落としながら、話す。つっかえながらも必死に言葉を紡ごうとする彼女を見て、レイスは静かに耳をそばだてた。
「レイスは生きたくても長く生きられないのに……私、勝手なことばっかり言ってしまって」
一週間前、生きていても仕方がないと言う台詞のことを言っているのだろうか。レイスは思い出してふと苦いものが口に広がった。
あれは明らかに、レイスの八つ当たりだった。彼女は彼の素性など知らなかったのだから、あの場で攻め立てられるのは酷でしかない。しかし、彼女はあの言葉の意味を考え、ずっと悩んでいてくれたのだろう、レイス同様に。
それがレイスには嬉しく感じた。彼はリオールの話を聞きながら、自然と彼女の赤く染まる頬に手を添える。
「俺のことは気にするなよ。あれは俺が八つ当たりしただけで、謝るのは俺の方だ……ごめんな。だから泣かないで」
せっかくの美人が台無しだ。レイスは微笑み、そっと彼女の目元の涙を指で拭う。
「リオが生きていても仕方がないと思うことにだって理由があるんだろう? 俺が口出しする権利はないさ」
リオールは小さく頷くとにっこりと笑う。レイスにはその笑顔はどこかまだ泣いているようで心配だった。
「……あの、実は」
「十五分だ。入るぞ」
重々しい口調でリオールが何かを語ろうとした時、廊下に出ていた善がドアを開けた。少し焦る彼は早口で要件を言う。
「リオ、そろそろ花畑に戻れ、上の連中に見つかると厄介だ。今日は上層部の視察日だから早く行った方がいい」
「……はい」
リオールは少し開いた口を閉じ、言いかけた言葉を飲み込む。そして善の言葉に従って治療室を出て行く。レイスは彼女の言いかけた言葉がかなり気になったが、それよりも先に聞かなければならない事があることに気づき、大きく息を吸った。
「善」
リオールに続くように、善も治療室を去ろうとしており、レイスは声を張り上げた。善はその声に少し驚いたようであり、すぐに振り返る。
「話したいことがあるんだ」
何だ? 眉間に皺を寄せ、嫌そうな顔をする善。だが、レイスが真剣な顔をしていることに重要性を感じたのか、リオールを廊下に待機していた双子の警備兵に頼み部屋に戻った。
彼はレイスの横たわっているベッドに寄る。
「あんた、五年前何があったんだ? リオールが悲しげな理由はそこにある気がするんだ」
彼がベッド横に置かれた椅子に腰掛けると同時に口を開く。
レイスはオフィスでグレイスの言っていた“五年前の事件”という単語が頭から離れずにいた。どうしても聞いておきたかった。
「俺にも聞く権利があるはずだ。なにも知らないまま俺は仕事を続けるつもりはないぞ」
善は無表情のまま、レイスの言葉を黙って聞いている。だが、なかなか口を開かない。レイスは焦れったくなり、起き上がって彼のスーツの襟を掴んだ。
「教えてくれ! 俺はリオールの姉さん……ソフィアがどうして亡くなったのか知りたい、あんた達は料理を囲んで食べていた親友だったんだろ」
「どうしてそれを……」
初めて善が反応を示した。レイスは畳み掛けるように言葉を繋げる。彼はここ最近身の回りに起きる全ての出来事が繋がっているような気がして仕方がなかった。
「知ってるさ、あんたは昔は目玉焼きすらまともに作れない不器用な奴だったとか、親友のジアスは剣士のクセに体術であんたに闘いを申し込んでいたとか、いつもソフィアがその様子を微笑ましそうに見守っていたとか! 全部夢で見てたんだよ」
「夢?」
レイスは今まで見た奇妙な夢に全てに善が出ていることに気がついた。夢なのに何もかもが生々しく、彼は確証もないのだが、ただただ善に喰いかかっていく。
「どうして俺の夢にそんなことが見えるか知らないけど……気味が悪い。第一、アバランティアって何だよ!? ソフィアが死んだのも、リオールが悲しそうで生きていることに絶望するのも全部そいつが原因なんだって、その謎のエネルギー体!」
「落ち着け」
聞きたいことが多すぎ、レイスは一気にまくし立てる。善は先ほどとは打って変わり少しだけ声を大きくしてレイスを諫める。動揺しているのは彼も同じ様だ。
「俄かに信じられないが、不思議なこともあるようだな」
レイスが口を閉じ、部屋に静寂が戻る。善はどこか険しい顔で眉間に指を添え、呟いた。
「お前が見たという夢の内容は全て事実だ。しかもそのどれもが今となっては私しか知り得ないことばかり。アバランティアに影響を受けているのかもしれないな」
「アバランティアが?」
「可能性の話だ、本気にするな」
「可能性? だから、何なんだよアバランティアって」
ますます分からない。レイスは簡潔すぎて口を割ろうとしない善に多少の苛つきを覚える。
「私はお前をまだ信用はしていない。〈イレブン〉は秘密事項が多く、それらを教えて良い人間なのか私は分からない。何せよお前はよそ者だ」
レイスは善の用心深さに思わず狼狽しそうになる。最近、すっかり自覚が薄れてきてしまっていたが、彼は〈リジスト〉から派遣された間諜であり、事実現在にいたるまで多くの〈イレブン〉の情報を手紙という形で流していた。善が警戒の様子で彼を睨みつけるため、レイスは内心バレているのではないかとハラハラした。
「アバランティアは〈イレブン〉の第一級秘密事項だ。小さくはあるが組織の部隊をまとめる身にある私の口から語ることは出来ない」
「え? それって」
「リオールが詳しい事を知っている。彼女から聞くと良い。私が秘密事項を口にすることはない、よく覚えておくんだな」
だがその考えは杞憂に終わり、善はレイスに言い聞かせるように頷きかける。彼なりの譲歩なのかもしれない。レイスは意外な彼の言葉に目を丸くしてしまった。
「しかし、何故こうも無関係な人間の夢に彼女達が入り込んでは、奇妙すぎる」
彼はレイスが驚いている中、呟くように言い、自嘲気味に小さく笑った。初めて目にしたその笑みは、何故だかリオールの笑みと同じ泣いているように見え、レイスは目をそらした。
「ソフィアは優しく、聡明な女性だった」
軽く目を伏せた善は、突然そう言って、 組んでいた腕を解いた。声は若干穏やかになり、先ほどとは違う柔らかい笑みさえ浮かべている。
「私は九つの時には〈イレブン〉に所属していた。自分で言うのもなんだが、そのころはかなり人見知り……いや、人間全てを恐れていた。まあ今も似たようなものだが。そんな中、ソフィアとは十八の頃に出逢った」
懐かしいと、何かを思い出したのか、彼は一瞬苦笑した。レイスは善が無表情だと思っていたために、昔話一つでこうも豊かに表情を変えていく彼を見て、少なからず驚いた。いつもの鉄仮面は気づかない内に身につけた演技なのかもしれない。あの夢を見たせいなのか、ふとレイスはそう思った。
「正直、最初に護衛の任を受けたときはなんだこの女は、と鬱陶しく思っていた。彼女が気を遣って話しかけてくれる行為が、当時の私には馬鹿にされているように感じていたからだろう」
「奇遇だな、俺もリオールとは最初から仲は良くはなかった」
「女心とはよく分からないものだ」
「確かに」
レイスは善のこぼす言葉に大きく頷いて、話の先を促した。
「初めは鬱陶しく思えた彼女の言葉や行為に優しさを感じることができたのは出逢ってから一年と半分もたった後、アルティス傭兵団からやって来た男が共に彼女の護衛についた時だった」
「ジアス・リーバルト」
「……奴はふざけた男だ。腕っぷしはあるのにいつも護衛は適当にこなして隙あらばサボり、私に押し付けては上司に怒られてばかりいた。しかも妙に馴れ馴れしくソフィアと私を連れて映画を見に行くために脱走作戦を企てたり」
言っていることは愚痴なのか、苦笑を浮かべる善は少し戸惑ったように言葉を止めた。今更だが、自分は何を話しているのだろう、と思ったに違いない。途端に無表情を繕おうとしているため、レイスは小さく笑って肩をすくめた。
「そこまで言ったのなら、続けてくれ」
「私は幸せだったのかもしれない。仲間と共に過ごす日々は私の組織の一員であるという責任感を薄れさせてしまっていた」
一瞬、言葉を詰まらせた善は声を低くして、再び腕を組み直した。話の雰囲気が変わる、レイスはそう感じて耳をそばだてる。
「五年前の事件はそんな私の責任感のなさが原因で起きたと言っても嘘ではないはずだろう」
五年前の事件。レイスは疑問に思っていたワードが善の口から飛び出してきて、目を大きく開いた。
「ジアスはある日、ソフィアを連れて組織を脱走する計画を持ち出した」
「まさか」
「そう、駆け落ちという奴だ。私は初めはその計画を受け入れ、彼らを無事に逃がすルートを提案した。その時の私はソフィアを苦しめる組織のやり方を受け入れることができずにいた。とにかくただ彼女に笑っていてほしい、それだけが私を動かしていた。今思えば浅はかな考えだったと思うがな」
善は組織を裏切ったことを悔やんでいるようだったが、声は淡々といつもの調子に戻っている。
「だが、私はやはり組織を裏切ることはできなかった。二人の姿が組織から消えて最初に疑われたのはやはり私だった。もちろん、知らないとしらを切ったが……」
「バレてしまったんだな」
「言い訳はしない。どちらにしても彼女達は死んだ。私は恨まれて当然だろうし、リオールの姉を奪ってしまった。彼女が今、生きることに絶望しているのなら、それは私の責任かもしれない」
善はそこで言葉を切り、再び無表情に戻った。レイスはそれ以上なにか言えるわけではなく、押し黙ってしまった。
「不思議だ。彼女達について、こんなにもしゃべったのは何年ぶりだろう」
しばらく沈黙が続くと、善が口を開く。
「レイス、お前が見た夢は良い夢だったのか?」
「最近は穏やかな夢ばかりだ。でも良い夢ばかりじゃないさ」
「そうか」
善はその返答にため息をつくと、遠くを見るように、治療室の窓を見つめた。
「悪夢なら、私に見せればいいものを」
レイスは彼の冷たい風貌が今は妙に頼りなさげに見えたのだった。




