第89話
第89話
「こ…ここへはどうやって来たのよ?!」
「それは後で話す!」
フレイアは再び詠唱を始めた。
『(frozen nail!)』
聞き取れない呪文とともに、彼女の手元に冷気が渦巻き、虚空から氷の釘が数十本、出現する。
先端はナイフで削ったみたいに鋭い。フレイアが拳を握り込むと、氷の釘が猛スピードで熊へ撃ち出された。
ヒュシュシュシュッ―!
風を裂く鋭い音が耳元を掠めた。
「人間ごときが、この私に逆らうか?!」
熊は叫びながら腕を振り回し、氷の釘を叩き落とした。
「くっ…」
悔しそうなフレイアの声が背後から聞こえる。
フレイアは再び呪文を唱える。
今度は手元からバチバチと電撃が迸る。
電撃が熊を包むが、傷どころか焦げ跡ひとつ残らない。
「クハハッ!たかだかこの程度の魔法で、私に傷を負わせられるとでも思ったか?!」
フレイアは舌打ちをして、再び呪文を唱える。
見たところ、あの手の攻撃は通っていない。
火の玉が体にぶつかり、氷でできた釘が飛んでいってぶつかり、電気が体を包むなら、普通なら、何かしらの跡は残るはずだ。
間違いない。あの熊は体の周りに“何か”を纏っている。
弾力のある薄膜なのか、鋼鉄みたいに硬い何かなのか――透明で判別できない。
グォンッ―!
「キャアッ!」
フレイアは短い悲鳴とともに衝撃波で弾き飛ばされ、木に叩きつけられて落ちた。
俺は細い木の幹にしがみつき、なんとか踏みとどまった。
「ほう…」
熊がフレイアに近づく。
そして玩具みたいに、フレイアの体を持ち上げる。
宙に浮かされたフレイアは、腕と脚で熊の腕を必死に叩き、逃れようとする。
「貴様、何か面白い力を持っているな。我々にとても必要な能力だ。」
「黙…れ…!」
熊の注意は完全にフレイアに向いている。
俺の手には拳銃がある。
いや、俺にあるのは拳銃だけではない。
ゆっくりと拳銃を持った手を上げた。
そして肩に頭を乗せ、片目を閉じて機械式照準器で奴を狙った。
奴は見えない何かを纏っている。
皮も鋭利なもので切られないためか、かなり分厚く見える。
だが、奴が体にまとった膜はおそらく魔法を防ぐための膜だろうし、あの皮は…拳銃では貫通するのが難しいかもしれない。
ここで問題。
あんな貫通しないほど分厚い皮に銃を撃てばどうなるか?
正解はまさに…
タン!
非常に強力な衝撃が全身に伝わるということだ。
グオォン!
一秒間に1000回以上回転する弾丸が飛んでいき、奴の腕にぶつかる。ぶつかった――いや、二の腕に食い込んだ。
目の前のそれは生き物に見えるのに、不思議なことに血は飛び散らない。
血が噴いたのは熊じゃない。少女のほうだ。
「うぅっ…!」
縫い閉ざされた口元から、小さな呻きが漏れた。
そして、熊の腕に開いた穴と同じ場所に、少女の腕にも傷が生まれ、血が流れていた。
「熊の身体と繋がっているのか…?」
そうでなければ、今この状況が理解できない。
だが、どうしてそんなことがあり得るのか。
熊と“繋がっている”少女だなんて。
もし熊を殺せば、少女の命も尽きる――そういうことなのか?
それだけは避けたい。
「貴様…!何をした?!」
熊の声が森に響き渡り、奴が俺に向かって走ってくる。
あの熊の命と子供の命が繋がっていると分かった以上、拳銃はこれ以上使えない。
だとしたら一つ。
致命傷になりにくい手段なら、もうひとつある。
インベントリに拳銃をしまい、もう一つの武器を取り出した。
石弓だ。
ピシュッ。
引き金を引くと同時に、ボルトが一本飛び、奴の体にぶつかるが、貫けない。
やはり、拳銃弾みたいな勢いがないと通らないらしい。
ドォン!
身を横に投げて攻撃をかわし、すぐに立て直す。
「何してるのよ?!さっきのあの武器を使いなさいよ!」
「それはダメだ!」
フレイアがもどかしそうに俺に向かって叫ぶ。
だが、もどかしいのは俺も同じだ。
拳銃であの熊を倒すことはできるが、倒せばあの少女まで死ぬことになるから。
それだけは防ぎたい。
ピシュッ、ピシュッ――
ボルトを二本、続けて放つ。
熊は前脚を振り、ボルトを弾き飛ばした。
奴の体には、先ほどのような余裕は見られない。
ちらちらと首を回して少女を見ているのを見ると、どうやら怪我をした少女が気になるようだ。
ズドン!
奴が前足を振るうたびに木が折れ、地面がえぐれる。
本当に一発でも当たればお陀仏な状況。
とにかく、殺しちゃいけない。
少女を殺さないためでもあるが、今この熊が今回のオーク移住事件について何か知っているかもしれない。
そして、オークたちに文字を教えている者についても。
熊は俺に向かって夢中で突っ込んでくる。――早く終わらせる。
そんな熊に向けて、片膝をついて石弓を構えた。
石弓で覚えたアクティブスキルをひとつ。
奴の反対側の前足に狙いを定めて集中する。
創造の神が授けた能力自体が、俺が何を使うか知っているかのように、体の奥から、得体の知れない力が湧き上がってくる。
グォァァン―!
熊の前脚が俺の頭上に振り上がる。
その前脚が振り下ろされる、その瞬間――
「パワーショット。」
俺の石弓から光が放たれる。
その光はやがて赤い光に変わり、ボルトの鋭い先端に集まる。
そして石弓の引き金を引くと。
ドガァン!
大砲でも撃ったみたいな反動が肩に走った。
ボルトは前脚を貫き、そのまま突き抜けた。
「うぅっ!」
もう一度少女の声が聞こえる。
俺を殴りつけようとしていた熊が手を止め、ゆっくりと振り返って少女を見つめる。
少女の目に涙が溜まっている。
腕と手に穴が開き、血が滴っていた。
熊はこれ以上攻撃してこない。
そして体を回して少女の元へと戻っていく。
少女は熊にしがみつき、悲しそうに泣き始める。
口が縫われていなければ声を上げて泣いただろう。だが声は出せず、ただ熊の毛を掴み、黙って涙を落とすだけだった。
あの姿を見ると、俺が完全に悪者のように感じられる。
熊は首を回して俺を見つめ、牙を剥き出しにしたが、やがて少女を背中に乗せたままどこかへと向かう。
「ちょっと!このまま逃がすつもり?!」
座り込んでいたフレイアが慌てて立ち上がり、追いかけようとするが。
「フレイア。」
俺はフレイアを呼び止めて制止した。
「追いかけないの?」
「ああ。」
俺も追いかけたい気持ちは山々だが、さきほど振り返って俺に牙を剥いた奴を見れば分かる。
熊は傷つかない。
傷つくのは少女だけだ。
おそらく俺が奴を追いかければ、間違いなく奴は命がけで俺と対峙するだろう。
そうなれば俺も危険になるだけでなく、俺が熊に勝ったとしても少女の命は失われることになる。
「本当にもどかしいわね、もどかしい!」
「そんなにもどかしいなら、一人で追いかければいいだろ。」
「そ…それは…チッ、いいわよ。」
俺の言葉にフレイアが顔をそむけたまま鼻を鳴らして戻ってくる。
こいつにも分かるだろう。
俺なしで一人で戦うのは無駄なことだということが。
「それにしても…ボタンを掛け違えたな…」
ただ少し話がしてみたかっただけなのに、どうやらあの熊と子供のだいぶ神経を逆撫でしてしまったらしい。
ひとまずあの子を見ると、おそらく人間ではないだろうし。
以前、ハルをモンスターとして蘇らせ、ジェルノータへ来たあの女。
あの女と同じ種族ではないだろうか。
「魔族…と言ったか…」
もしや今回の件に、魔族が関わっているのではないだろうか。
無性に頭が痛くなってくる。
だが、一つ。
分かったことがある。
今回の件をきちんと終わらせるためには…
「オークの村落は、かなり遠く離れてるな。」
俺が自分で、オークの村へ行くしかないってことだ。
***
村へ戻るやいなや、村人たちが俺たちを囲むように集まってきた。
「優司さぁぁぁん!」
巨体の村長が俺に駆け寄ってくる。
両手で俺の顔を掴むと、怪我がないか覗き込むように見回した。
「森で何かあったのですか?もしやお怪我をされたのでは?相手は誰でしたか?やはりオークですよね?このオーク野郎どもめ!私が直接行って…」
「だ…大丈夫です…」
気まずそうに笑って答えると、村長は俺を見つめ、深いため息をついた。
「森で何があったのか…家に戻ってからお話しください。」
俺とフレイアは村長について一緒に家へと向かった。
村長の奥さんが温かいお茶を出してくれた。
先ほどの戦闘でかいた汗が、戻る間に少し乾いてはいたが、熱いお茶を口にすると、また汗がじわりと滲んできた。
「どうなったのですか?」
「さっき、ある子供が…」
フレイアが話そうとするのを、俺が遮った。
すると、フレイアが俺を見つめ、顔をそむけて頬杖をつく。
「明日、すぐにオークの村へ行ってみます。」
「…?!」
「正気?」
「ああ、正気だ。」
フレイアが呆れたように俺を見つめる。
この世界でオークがどんな存在なのか、俺には分かりにくい。
だが、俺が今言った言葉が、この世界の人々には理解できない言葉であることは俺も知っている。
「はぁ…」
だが、フレイアは止めなかった。
「勝手にしなさいよ。どうせ止めたって、私の言葉なんて耳にも入れないでしょうから。」
俺を止めるのを諦めたように、フレイアは深いため息をつく。
「明日すぐに……ですか?」
「はい。長く引き伸ばしても良いことはありませんから。」
むしろ、今がチャンスかもしれない。
もしオークの村落に何かしようとしている人物が、あの子あるいはあの子と一緒にいる熊なら、怪我をしてまともに動けない今の状況が、この件を解決するのに最も良い時期だ。
「…分かりました。では明日までに準備しておきます。」
「準備ですか?」
「はい。これから大きな戦闘があるでしょうから、今すぐ若者たちを集めて、一緒に――」
「いえ、村の皆さんが出る必要はありません。」
「え?」




