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第87話

第87話


そして、思わず息を呑んだ。

目の前のオークが、あまりにも巨体だったからでもある。

泥沼から漂ってくる、ひどい悪臭のせいでもある。


だが、息を呑んだ本当の理由は別にあった。


「グルル…」


一瞬だけ向けられた、オークの視線のせいだ。

フン、と強い鼻息を鳴らしながら俺を見つめる――あの視線。

仕事でミスしたとき、社長が叱りつける前に睨みつけてくる――あの視線に、息を呑んだ。


俺の姿を見ても、奴は何も言わなかった。

ただ、入浴中に現れた邪魔者でも見るように俺を眺め、やがて「気にする価値もない」とでも言いたげに、再び泥沼へと視線を移す。


「あ…あのさ。」


とりあえず話しかけてみるために俺が声を出すと、奴は再び視線を俺に向ける。

どうやら攻撃の意思がないことに気づいたようだ。


「何だ、人間。」


口の中から聞こえる、分厚い鉄の筒に雨粒が落ちるような響きのある低い声が、耳に突き刺さる。


「オ…オークも人間の言葉を話せるんだな。」

「いや、普通のオークは人間の言葉、話せない。」

「今、話してるじゃないか?」

「俺は特別だ。人間と話すために、村で訓練を受けた。」


語順はめちゃくちゃだが、おおむね聞き取れる程度の言葉だ。


「そ…それでも良かった。人間の言葉を話せるオークに会えて。」

「人間の村から送られたか?」

「送られたとまではいかないけど。とりあえず、少し話をしようと思って来たんだ。」

「話?する話はない、人間。」


そう言って、オークは腰を上げた。

今回は下半身が泥まみれで、例の部分は見えなかった。


「ちょっとだけ話を…」

「変わることない。話しても。俺たちはするしかない。人間の村、攻撃。」

「するしかないって?」

「人間は知らない。話しても。」

「ちょっと待て、話をしようって言ってるだろ…!」


そう言い残し、オークはふいに去っていった。

あの言葉。

オークたちの間で、何かが起きているらしい。

オークが人間の村を攻撃せざるを得ない理由。

それが果たして何なのだろうか。


***


オークはモンスターだ。

モンスターは基本的に人間と敵対する生物だ。

しかし、あのオークは人間と対話できる。

それも自ら勉強したのではなく、村で人間の言葉を訓練されたという意味だ。

つまり、あのオークの村は人間と対話する意思があるという意味に他ならない。

だが、なぜ?


オークの立場からすれば、彼らにとっての「モンスター」はむしろ俺たち人間だ。

我々がオークと対話する気がないように、オークも我々と対話する気を起こさないのが普通なのに、どうして人間の言葉を訓練させたのだろうか。


「ううう…あああ!」

「あっ、もう!びっくりした!」


頭をガシガシ掻きながら立ち上がると、フレイアが目を丸くして俺を見つめる。


「狂ったの?」

「いっそ狂ってしまいたいよ…」


ただモンスターを退治するだけなら構わない。

ゴブリンを退治した時のように、拳銃一丁、ライフル一丁を持って弾倉を満タンにして持っていき、撃てばいいだけなのだから。

だが、知能があって意思疎通までできるとなると話は別だ。


人は相手と通じ合えると思った瞬間、傷つけるのをためらうものだ。

人々が飼っている犬、猫だけを考えても分かる。

見た目が可愛いのも一役買っているが、意思疎通ができると感じれば、人はその生き物に親しみを抱く。


ましてや、今のオークの反応からすると、何か事情がある様子。

何か事情があることを知ってしまったのに、これを無視して攻撃するというのは、気が咎めずにはいられない。


広場のベンチに再び座り、周りを見回した。


「だからって、このまま放っておくわけにもいかないしな…」


壊れた建物が見える。

片側には墓地があり、墓地では人夫数人が墓穴を掘っている。


このまま旅に戻れば、この村が潰されるのは時間の問題だ。


「フレイア。」

「何?」

「お前は、もしモンスターが人の言葉を話せて、そのモンスターが仕方なく人間を攻撃すると言ったら、どうする?」

「はぁ?そんなわけないじゃない。」

「お前、『もしも』という言葉の意味を知らないんだな?」

「もしも」って、まだ起きてないことの話でしょ? それをわざわざ考える必要あるの?」

「本当に能天気な奴だな。お前は。」


俺の言葉に、フレイアが瞬間的に俺を睨みつける。


「どういう意味よ?」

「別に大した意味はない。」


そう言って席を立とうとすると、フレイアの声が再び聞こえる。


「私から見れば、お前が無駄な心配をしてるように見えるけど?」


振り返ってフレイアを見つめた。


「起きてもいないことに気を使う余裕があるなら、その余裕をもっと現在に投資しなさいよ。」


そう言い終えると、フレイアも立ち上がり、俺が向かおうとしていた村長の家へ向かって歩いていく。


「未来のことを考える余裕があるなら、今に回せだなんて…」


未来を予測し、未来に備えることは、高等知能生物の祝福とも言える。

もしもというのは、未来に備えるためのこと。

なのに、それをせずに現在に投資しろだなんて。


「価値観の違いだろうな。」


肩をすくめ、俺は彼女の後を追った。


***


静かな部屋の中で、村長の声が響き渡る。


「オークと対話をされたのですか?!」

「あ、はい…」


俺の言葉に、村長が驚いて俺を見つめる。

そして、隣にいたフレイアも少し驚いた様子だが、表情にわずかに表れただけで、特に驚いた様子は見せない。


「オ…オークとどうやって対話を…」

「もしかして、夢でも見たんじゃない?」

「夢を見た、か…」


オークと会った時を思い出してみる。

素っ裸のオーク。

そして、オークの巨大な…


「うっ…!」

「ど…どうされましたか?」

「ゆ…夢だったら良かったんですけどね…」


こみ上げてくる吐き気を何とかこらえた。


「それにしても、共通語を話せるオークだなんて…」

「聞いたところでは、自分の村で訓練を受けたと言ってましたよ。」

「妙ですね……。オークが他より知能が高いのは事実ですが、人間の言語を学べるほどではないはずです…」


人間の高等言語を学べるほどの知能がない奴なのに、そいつは一体どうやって学んだのだろうか。


「もしかして、そのオークとどんな話をされたのですか?!」

「それが…大した話はしませんでした。私と話すのを嫌がっているようだったので。」

「そうでもなさそうだったけど?」


フレイアが腕を組んだまま俺を見つめる。


「え…?」

「さっき広場で言ってたこと。それ、オークが何か言ったから私に聞いたんじゃないの?」

「広場で言ってたことって…?」


村長の視線が俺に向かう。


「あ、それは…別に気にしなくてもいいさ。」

「本当に?」

「うん…本当に…」


言おうとした俺は言葉を続けられず、深いため息をついた。


「大して重要なことじゃないんだ。オークたちに何か起きているような感じがしただけだから。」

「その「感じ」、たぶん当たってるわ。」


瞬間、驚いた目でフレイアを見つめた。


「それをどうして分かるんだ?」

「どうして分からないのよ?オークが人間の言葉を使ってるって言ってるのに。」

「それがどうした?」


俺が聞き返すと、フレイアが呆れたように俺を見つめる。


「本当に分からなくて聞いてるの?」

「俺は知らなきゃいけないのか…」

「そりゃ当然でしょ!直接解決しなきゃいけない人が知らなくてどうするの!」


フレイアは深いため息をつく。


「オークが人の言葉を話せるということ。そしてオークの村で習ったということ。この二つから、何かおかしい点を感じない?」

「ちょっと待て…」


じっと座って考えにふけった。

オークが人の言葉を話せるが、その言葉をオークの村で習った。

何かを学ぶためには、教えられる師匠に習うか、書物で学ぶしかない。

だが、人の言葉も話せないオークが本を読みながら学んだはずはなく、残るは…


「人の言葉を話せる誰かに学んだ…」


俺の言葉に、フレイアが鼻を鳴らして再び席に座る。


「でも、それがどうした?」


何かよく理解できなくて聞き返した。

すると、呆れたようにフレイアが俺を見つめる。


「それを分かってて理解できないっていうの?」

「そりゃそうだろう。人の言葉を話せるオークがいるんだから、また別のオークが人の言葉を話せて、そのオークが人の言葉を教えているのかもしれないし、そうでなくてもどこかで人に会って学んだのかもしれないじゃないか。」

「そんなわけないでしょ。そもそも人の言葉を話せるオークがどれだけいると思ってるの?それに、オークと人間が会って対話だなんて…あり得ないことよ。そもそもオークが人間を連れていく理由は一つよ。まさに食うため。それ以外には理由が存在しないってこと。」


かなり怖い話だ。

食うために連れていくしかないなんて。


「それなら、誰に習ったって言うんだ?」

「それは…知らないわよ、私も。」


一番重要なこと。

誰に習ったかということだ。

いや、それよりもっと重要なことがある。


その教えた者が、どんな目的でオークに人間の言語を学ばせたかということだ。

教えた人がいるなら、何か理由があってオークに言葉を教えたということ。

言葉を教えるほどの理由って、いったい何だ。


「嫌な予感がするな…」

「私もよ。嫌な予感がするわ…」


フレイアと俺が深刻な表情で座って考え込んでいると、村長が気まずそうに笑う。


「あ……少し深刻に考えすぎでは? オークが人間の言葉を使うことが、そこまで重要なのでしょうか……。倒してしまえばいいのでは?」

「言葉は簡単ですが、そう簡単なことではありません。もしオークたちの後ろに誰かがいるなら…やられるのは私たちになるかもしれないのですから。」

「そんなまさか…」

「とにかく、今回のことはもう少し調査が必要そうね。それまでは動かないということで。」


そう言ってフレイアは立ち上がり、奥の部屋へ引っ込んだ。


「はぁ…」


村長が深いため息をつく。

気持ちはよく分かるが、命がかかっている以上、俺たちもむやみに動くことはできない。


「心配しないでください。どうなろうと解決はするでしょう。」

「はい…優司様だけを信じております…」


そう言ってフレイアと同じように部屋に入る村長。


「言語を教える理由か…」


オークに言語を教える者は、一体どんな理由で教えるのだろうか。


「何だろうか…」


**

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