第83話
第83話
涼しい風がキャンピングカーの開いた窓から入ってくる。
「ふふん~」
心地よい自然。
広がる野原と、その野原で草を食む牛の群れ。
今、この風景は夢の中でしか見られないような、とても平和で心地よい風景だ。
ただ一つ。
ほのかな牛の糞の匂いを除いては。
「うぅ…」
自動車というものは、人間に多くの利益をもたらす。
燃料さえあれば、遠い距離も人の力を使わずに短時間で行くことができる。
疲れればキャンピングカーを止めて横になって寝ることもできるし、暑い夏、耐えられない猛暑が来た時は涼しいエアコンを、全身が凍えるほど冷たい寒さが来れば暖かいヒーターをつけて、体を温めることも、体を冷やすこともできる。
「うあああ…」
また、タイヤに滑り止めチェーンさえつければ、凍って滑りやすい地面も、不安ではあるが行くことはできる。
しかし、このように人間に有益であるはずの自動車も、人間に害を及ぼすいくつかのことがある。
車と人、車と車の事故も起き、人が死ぬこともある。
燃料を燃やして走る自動車なので、排気ガスが発生し、発生した排気ガスは周辺の空気を汚染する。
その他にもいくつかあるが、今の状況では、この二つは大きな問題にはならない。
ただ一つ。
俺にとって、俺たちにとって問題になるのは…
「死にそうだ…」
フレイアの姿がルームミラーを通して目に入ってくる。
キャンピングカーの窓を開け、外に向かって頭を出したままのフレイア。
そうだ。
未舗装の道路を走っている今、フレイアはこの揺れるキャンピングカーの中で、死ぬほどの乗り物酔いに飲み込まれている。
「うっ…! おぇぇぇっ!」
窓の外へ、太陽の光に反射した液体のようなものが、まるでヘンゼルとグレーテルが家に帰るために落としたパンくずのように、キャンピングカーが通ってきた道に沿って落ちていく。
「はぁ…」
この香ばしい牛の糞の匂いがキャンピングカーに充満しているのに、窓を閉められない理由がこれだ。
乗り物酔いをする人にとって、車の中の匂いはあまり好ましくないが、こんなひどい匂いが車の匂いの上に覆いかぶされば、乗り物酔いが少しはマシになるので取った措置なのだが、どうやらフレイアには効果がないようだ。
「も…もう少しゆっくり…ゆっくり行って!」
「ゆっくり行ってる最中だ~」
今もかなりゆっくり行っている。
そもそも、こんな未舗装の道路で速く行くつもりは毛頭ない。
俺も命が二つあるわけではなく、一つだけだから。
それなのにこの有様では…先が思いやられる。
「あれでも飲んでみろって。」
「嫌だ!あんな、どこで見聞きしたこともないようなもの、口に入れたくない!」
俺が指差した、バーのようなテーブルの上に置かれた小さな錠剤。
あれはコンビ∞で購入した、乗り物酔いを治してくれる酔い止め薬だ。
もちろん、乗り物酔いが完全に治るわけではないが、少なくともしばらくの間は楽になるはずなのに、絶対に口にしようとしない。
なぜ食べようとしないのか聞いてみたが、聞くたびに、あんな変なものは口に入れたくもないと言う。
あんなに嫌がるのを見ると、奴隷生活をしていた時に何かあったような気もするが…
「分かった…少し休んでいこう。」
「やった…おぇぇぇっ!」
もう一度中身を戻すフレイア。
ただ金を少し握らせて送ればよかった。
こんなにお荷物になると分かっていたら、連れてこなかったのに。
野原にぽつんと立っている巨大な木一本。
かなり広い範囲を日差しから守ってくれる木の下に駐車し、俺は外へ降りた。
「んん~」
伸びをしながら降りる俺とは違い、背後では顔がげっそりしたフレイアが肩を落とし、死にそうな表情で降りてくる。
「私…もうこれ以上乗れない…」
そうして木の下にそのまま身を横たえる。
「だから薬を飲めって。」
「嫌だってば…」
彼女と少し離れて座り、空を見上げた。
ザワザワ―
木の葉が吹いてくる風に揺れて音を立てる。
木の葉がいくつか地面に落ちる様子が、まるで一幅の絵のように感じられる。
「あのさ。」
「坂本優司。」
「何?」
「俺の名前は坂本優司だから、名前で呼べ。」
「あのさ。」
「はぁ…」
なぜ名前で呼ぼうとしないのか。
「なんだ?」
「…ありがとう。」
「何が?」
「奴隷から解放してくれて…また、こうして連れて歩いてくれて。」
自分が奴隷から解放されたと思っているだけだ。
そりゃあ、奴隷の刻印を押さなかったからな。
だが、残念ながらフレイアは奴隷から解放されていない。
俺の能力の中では、すでに奴隷として適用されているから。
「何をそんなことで。」
その言葉にフレイアは眉間を寄せ、上体を起こして俺を睨みつける。
「一体お前は、何を考えてるんだ?」
「また何だよ?」
「いや、300万ブロンもの大金を払って、私を所有しようともせず!もしかして夜伽に呼ぼうとしているのかと…」
そう話していたフレイアは顔を赤らめ、目を閉じて首を振る。
「いや、そうじゃなくて!とにかく!どうして300万ブロンも払って、何もしようとしないんだって!」
「なんだ?夜でも一緒に過ごしてほしいのか?」
「な…ななな何を馬鹿なことを言ってるんだ?!私が、お前ごときと夜を共に…!」
震えながら話していたフレイアは、深いため息をついて「ふん」と顔をそむける。
「いいよ、お前と何を話すっていうんだ。」
「あまりそう心配するな。俺も無駄にお前を買ったわけじゃないから。」
「何?」
当然、無駄に買ったりはしなかった。
「や…やっぱりお前も、他の奴らと同じように私の血を利用しようと…!」
「俺はお前の血に興味はない。」
「じゃあ、何をさせようっていうんだ?」
「配達。」
「は…配達…?」
こいつは、俺の代わりに物を配達すべき人材だ。
言ってみれば宅配便のドライバーだ。
俺が物を渡せば、大きな宅配車を運転してムルバスへ行き、配達する宅配便のドライバーのことだ。
もちろん、こいつが物の配達を始めるのは、俺が教える運転の授業を全て終え、射撃術まで完全に終えてからのことではあるが。
「いつから教えるのがいいかな…」
今すぐ教えるのは難しい。
自動車を買うには資金がぎりぎりだし、何より運転というのは、こんなでこぼこした熟練者用コースではなく、初心者でも簡単にできる単純で平らな道路が最適だからな。
そんな空間はないだろうか。
「私を配達員として使うつもりか?」
「ああ。」
「わ…私の血を利用せずに…私を配達員として使うって言うのか?」
「ああ。なぜだ?気に入らないか?」
その言葉に、呆れたように鼻を鳴らしたフレイアは、腕を組んだまま席を立ち、俺を見下ろす。
「こんな美しい私を、たかが配達員として使おうだなんて。お前、頭がおかしくなったんじゃないか?」
「嫌なら都市で肉体労働でもして金を持ってこい。」
「お…お前がそんなに配達員が必要だと言うなら、仕方ないな。私がやってやるよ。」
「はいはい、そりゃどうも。」
本当に生意気な口だ。
頭を一発小突いてやりたい。
「で、何を配達すればいいんだ?」
「ひとまず今は違うから、大して気にすることはない。時が来れば俺が呼ぶから。」
フレイアは黙って立って俺を見下ろしていたが、やがて俺の隣に近づいて座り、ちらりと俺を見る。
「お前は心配じゃないのか?」
「何が?」
「私が、お前を殺して逃げたり、あるいは配達する物を持って逃げるかもしれないだろ。いや、配達まできちんとしたとしても、金を受け取って二度と戻ってこないかもしれないのに、それでもいいのか?」
「別に構わない。」
どうせ位置は俺のマップに全部表示される。
こいつが俺の金を持って、物を持って逃げたら、俺が探し出して徹底的に痛めつけてやればいいだけだ。
「ふっ。ははは!」
俺が面白いことを言っただろうか。
フレイアが声を出してははっと笑う。
そんな彼女の姿を見て、俺は少し横に動いて彼女と離れて座った。
「あ?」
俺の行動にフレイアが当惑し、俺を見つめる。
「な…なんだよ?どうして私を避けるんだ?」
俺がフレイアから離れて座った理由。
「お前から臭いがするからだ。」
そうだ。
臭いがする。
一日中胃の中身を戻していたせいで、口の中に、服に戻したものの臭いが残り、かなりの臭いを放っている。
「そ…それが淑女に言うことか?!」
俺の言葉に顔を真っ赤にしたフレイアは、席から勢いよく立ち上がる。
「でも、臭いがするんだから仕方ないだろ?」
「くぅ…!だからって、そんなに露骨に避けるなんて…!」
そう言って、後ろを向いて前へと歩いて行く。
「おい、フレイア。どこ行くんだ?」
「体を洗いに行くんだよ、悪いか?!」
「じゃあ、洗面用具持って行け~!」
インベントリから洗面用具を取り出して振ると、フレイアが叫ぶ。
「いらない!」
そう言って再び歩き出したフレイアは、ほどなくして後ずさりしながら俺に近づいてくると、手で洗面用具が入ったバッグをひょいと奪い取り、早足で歩いて行く。
座ったまま笑顔で彼女に手を振りながら思うこと一つ。
「キャンピングカーで洗えばいいのに、どこへ行くつもりなんだろう…あの子…」
***
「ふざけてるわけでもないのに、臭いがするだなんて…!淑女に対して、どうしてそんなことが言えるわけ?」
フレイアが不平不満を漏らしながら前へと歩いて行く。
野原と繋がった森の中。
そこへ入ったフレイアは、手に持った洗面用具バッグを両手で破裂させんばかりに強く握りしめ、歯ぎしりをする。
「絶対に復讐してやる。それも、すごく残酷な方法で…!」
どうやって復讐するか、体系的に計画を考えていたフレイアは、ほどなくして自分の腕を見つめ、鼻をクンクンさせて臭いを嗅いでみた。
「す…少し臭いはするみたいね…だ…だからって、臭いからって横に避けるのは絶対に許せない!」
フレイアは頬を膨らませたまま足を踏み鳴らし、ひたすら奥へと入っていった。
しばらくして、耳元で聞こえる小川のせせらぎに、フレイアは視線を向けて小川の音が聞こえる方向へと歩いて行った。
そうして歩くこと少し、目の前に小さな小川が姿を現した。
彼女が姿を現すと、先ほどまで小川で水を飲んでいたウサギは逃げ出し、岩の上にいた鳥たちは、周りに危険な生き物が現れたことを知らせるように大きくさえずりながら空へと飛んでいった。
「誰もいないわよね…?」
フレイアは周りをきょろきょろと見回し、小川を眺めて頷いた。
「よし…」
彼女は小川へ歩いて行き、洗面用具バッグを岩の上に置き、ゆっくりと服を脱いだ。




