第82話
第82話
「その…用事も終わりましたし、そろそろ失礼しようかと。」
「え?!お帰りになるのですか?!まだ一日しか経っていないのに…」
「今日もここに泊まれば、ずっとここに泊まってしまいそうですから。」
良い言葉で包めば、こうなる。
実際のところは、「他人の家で寝泊まりしたくない」が本音だ。
自分の家ではない場所でずっと過ごすのは、俺にとってはかなり負担になる。
もちろん、恩返しも兼ねて、善意で食事をもてなし、寝床まで用意してくれたことは分かっている。
だが、落ち着かない。
ベッドもそうだし、広い部屋もそうだ。
おそらく、元の世界で住んでいた家も広くなく、この世界に来てから過ごした小屋もそれほど広くなかったからだろう。
「そ…それなら、せめて両親にご挨拶だけでも…」
「それも…お二人には、感謝しているとお伝えいただければ幸いです。」
「本当に…お帰りになるのですか…?」
「はい。」
残念そうな表情が、彼女の顔にありありと浮かんでいる。
命を救ってくれた恩人とはいえ、会ってまだ間もない人間にここまで名残惜しそうにするとは。
ヘメラは、一見すると強気に見えるが、かなり情に厚い性格のようだ。
「(情に厚い性格か…)」
元の世界では、情に厚い性格は利用されるのに格好の的だった。
ここでは、そんな性格を利用しようとする人間はいないのだろうか。
おそらく、元の世界よりずっと多いだろう。
「では、また今度お会いしましょう。」
「はい…また…」
そのまま振り返って歩き出し、フレイアを見つめた。
俺が振り返るたびに隠れていたフレイアは、今回は隠れずに俺の目を見つめ、腕を組んだまま鼻を鳴らす。
「貴族にあんな口の利き方をしていいのか?」
彼女の口から、かなり澄んだ高音が流れ出る。
歌がうまそうな声ではないが、声だけを聞けば、どんな人間でも好感を持つほどの、清らかで澄んだ声だ。
「構わない。」
彼女を通り過ぎ、入り口へと歩いた。
太陽が頭上にあるのを見ると、もう昼に近い。
天気も良く、まさに出発するのにちょうどいい時間だ。
「お前は、これからどこへ行くんだ?」
「さあ…知らない。」
「知らないだと?」
「ああ。最終目的地は決まっているが、途中でどこへ寄るかはまだちゃんと決めていない。あちこち回りながら、ゆっくりとそこまで行ってみるつもりだ。」
「旅でもするってことか?」
「ああ、そうだ。」
理解できないという表情だ。
「嘘だろ…?都市の外はモンスターだらけだって言うのに。なのに…旅をするだなんて…お前、全てのモンスターに勝てるほど強いのか?」
「俺が強い…というよりは、俺には良い武器があるからな。」
この世界の並大抵の武器を凌駕するほど強い武器(銃)が、俺の手にはある。
「武器は持っていないようだが…」
「亜空間バッグに入っている。」
「亜空間バッグも持っているのか…?」
「お前を買う金が、どこから湧いてきたと思ってるんだ?」
「それは…」
信じられない者を見るかのように、腕を組んだまま俺を見下ろすフレイア。
「ふん、私が嘘をつく人間をどれだけ見てきたと思ってるんだ?そんな嘘に、私が騙されるとでも?」
「信じるも信じないも、お前の自由だ。それより、お前は行くのか?」
俺の問いに、彼女の眉がぴくりと動く。
「なんだ…?」
「行くのか、と聞いている。」
俺は彼女に、最大限の自由意志を与えようとしている。
一緒に行きたくないと言うなら、そのまま行かせるつもりだ。
そもそも、こんな幼い子供が殴られているのに同情心が湧いて、解放してあげようと思って買っただけだ。
一緒に行くならこき使うつもりではあるが、行かないからといって引き止める気はない。
「行くのか、だと…私が一緒に行かないと言ったら、解放してくれるつもりか?」
「そうだ。そのために奴隷の刻印をしなかったんだが?」
ああ、その表情。
今までの表情は嘘だったと言われても信じるほど、かなり驚いた表情だ。
「狂ってるのか?300万ブロンだぞ…!300万ブロンの私を…そんなに簡単に見逃すというのか?」
「金はまた稼げばいい。それで、もう本当に行かないといけないんだが。」
笑いながら言う俺に、彼女は呆れたようにじっと見つめ、やがて苦笑いを浮かべると、目を閉じて考える。
しばしの後。
「仕方ない…今お前とここで別れたとしても、私には金がないからな…ついて行ってやる。」
「もう少し、言葉を選んでくれると嬉しいんだが。」
「気に入らないか?なら、このまま行こうか?」
「言っただろ。お前の好きにしろと。」
「ちょ…待て!」
肩をすくめて歩き出すと、彼女は慌てて俺に向かって駆け寄ってきた。
***
「わあ…」
ぽかんと口を開けた表情が、実に滑稽だ。
フレイアが見つめているのは、俺がインベントリから取り出したキャンピングカー。
キャンピングカーの内部に入ってからは、さらに驚いた表情で内部をあれこれと見て回る。
「わあ、ふかふか!これは何?冷たい風が…食べ物も冷たい!それとこれは?」
「ゆっくり見物しろ。怪我をするぞ。」
先ほどとは打って変わって、明るく笑う表情を見ると、やはり子供は子供らしい。
スマートフォンさえあれば、あの姿を写真に収められたのに、実に残念…
「あ。」
技術の発達によりスマートフォンでしか写真を撮らなくなったせいで、写真を撮れるもう一つの道具を忘れていた。
コンビ∞を開いて品物を検索してみると、やはりあった。
小さな四角形。
上部には「Ganon」というロゴが刻まれ、その下には大きなレンズがついた黒い物体。
まさに、カメラ。
カシャッ。
音が鳴ると同時に、驚いたフレイアが俺を見つめる。
「それは何だ?」
彼女の驚いた顔を、もう一度撮った。
「うまく撮れたな。」
背面のスクリーンに、楽しそうな彼女の表情と、驚いた目で俺を見つめている姿が、順に映し出される。
「ちょっと、こっちに来てみろ。」
「なんだ?」
彼女が横に近づき、カメラの後ろ側を見た。
そして、自分の姿が映っているのを見て、はっと驚く。
「こ…これは何だ?」
「お前だ。」
「わ…私だと…?」
「ああ。どうだ、気に入ったか?」
「き…気に入るも何も…!」
言葉はそう言うが、目を離せないでいる。
そんな彼女を眺めながら、一つ良い考えが浮かんだ。
「ちょっと外に出てこい。」
「なぜだ?」
「出発する前に、一緒に写真一枚撮ろう。」
「写真を撮るって…」
「これを一緒に撮ろうってことだ。」
キャンピングカーの外に出て、コンビ∞で三脚を購入して置き、角度を合わせた。
キャンピングカーと森を背景に配置し、タイマーをセットした。
「こっちに来い。」
おずおずとキャンピングカーの外に出てきた彼女の腕を掴んで引き寄せ、肩を組んでポーズを取った。
しばしの後。
カシャッ!
「さて…うまく撮れたかな…」
カメラへ駆け寄り、撮った写真を見ると。
「ふっ。」
瞬間的に、笑いを堪えきれなかった。
「なんだ?私も見せろ!」
「後で…後で見せてやる。」
笑いを堪えながら、すぐにインベントリにしまうと、彼女が頬を膨らませた。
「なんだよ!どうしてお前だけ見るんだ?!私も見せろ!」
「後でな。さあ、もう出発するぞ、出発~!」
恥ずかしがりながらも、かなりぎこちなく笑う彼女の表情。
後で彼女がこの写真を見たら、消してくれと大騒ぎするだろう。
「そんなのありか?!早く見せろ!」
「さあ、出発だ!」
ジジジジッ―
ブルン―
運転席に座ってエンジンをかけると、彼女が慌ててキャンピングカーの中へ飛び込み、ドアを閉める。
「お前、覚えてろよ!」
「ああ、後で見せてやるって~」
鼻歌を口ずさみながら、アクセルを踏んだ。
素早く動き出すキャンピングカー。
背後から聞こえるフレイアの怯えた声を聞きながら、俺は道路に沿ってキャンピングカーを運転した。




