第78話
第78話
ルアナさんの顔に、緊張の色が浮かぶ。
当然だろう。ルアナさんは金銭的な問題で契約内容を変更しに来たのだと思っていたはずだから、理解できないのも無理はない。
「じゃあ、何なの?」
「しばらく、旅に出ようと思いまして。」
「旅…?」
「はい。最近、色々なことがありましたので…少し気分転換も兼ねて、あちこち見て回ろうと思っています。」
「それじゃあ、納品の件はどうなるの?」
「その納品の件で、契約条件を少し変更したいのです。」
「どうやって?」
キャンピングカーに乗ってムルバスまで来る道中、いくつかの方法を考えてみた。
一つは、俺が直接馬車引きを雇って品物を届けること。
だが、馬車引きを雇って品物を届けた場合、代金を受け取る術がない。
ルアナさんが俺の雇った馬車引きに代金を渡したとしても、馬車引きが俺のいる場所まで直接代金を届けてくれるはずもないし、そもそも相当な額の代金を馬車引きが持ち逃げしないという保証もない。
二つ目は、俺がムルバスに一度ずつ立ち寄って納品すること。
もちろん、これも却下だ。
ムルバス周辺だけを旅するならまだしも、ムルバスから遠ざかれば遠ざかるほど、ムルバスに来るのが難しくなる。
最後に考えた方法。
おそらく、これが一番現実的な方法だろう。
俺はインベントリから、品物を二つ取り出した。
「これから俺がどこに行くか、これでご連絡します。」
目の前の新しい品物を見て、ルアナさんとルエリが目を輝かせる。
「これは何?何をする物なの?」
「これは何ですか?」
長方形の、手のひらほどの大きさの品物。
俺にとっては、かなり久しぶりに見る物だ。
どんなに遠くにいる人でも、番号さえ知っていれば互いに会話できるようにしてくれる、貴重な品物。
「これは、携帯電話です。」
携帯電話だ。
もちろん、スマートフォンではない。
スマートフォンはVIP 3等級で解放される品物で、これは電話とメッセージだけが送れる、2Gの品物だ。
携帯電話を手に取り、開いてから渡すと、あれこれと触ってみる。
「携帯電話…?」
「どんなに遠く離れていても、番号さえ知っていれば、メッセージも、会話もできる品物です。」
ルアナさんも、ルエリも、俺の言葉に信じられないといった表情を浮かべ、やがて苦笑いを浮かべた。
「な…何を馬鹿げたことを…番号さえ知っていれば、どんなに遠い場所にいてもメッセージを送って会話できるですって?」
「そうです…!優司様がいくら不思議な品物を納品されるといっても、それは…!」
「嘘ではありません。」
俺は携帯電話を開き、慣れた手つきでメッセージを送った。
その瞬間、ルアナさんが持っている携帯電話から「ピロン!」とアラーム音が鳴り響く。
電話も同じだ。
番号を押して通話ボタンを押すと、「トゥルルル…」と聞き慣れた着信音が繰り返し鳴り響く。
「ご覧の通りです。」
ここに来る道中、何度もテストしてみた。
「これは、どうやって受ければいいの?」
「そこに見える緑色のボタン、ありますよね?」
「こ…これか…?」
ピッ。
通話ボタンを押すや否や、着信音が止まる。
「では、こうして耳に当ててみてください。」
俺が見本を見せると、ルアナさんはごくりと唾を飲み込み、恐る恐る携帯電話を耳に当てた。
「こ…こうか?」
「はい。その通りです。聞こえますよね?」
「―はい。その通りです。聞こえますよね?」
「え?」
ルアナさんが驚いて、携帯電話と俺を交互に見つめる。
「ほ…本当だ…?!」
「本当ですか?!」
ルアナさんが驚いて携帯電話をテーブルに落とすと、ルエリも素早く携帯電話を耳に当てた。
何度か話しかけると、ルエリも目を丸くして驚き、携帯電話を見つめる。
「本当だ…?」
「当然でしょう。俺が今まで、嘘をついたことがありますか?」
「それは…ないけど…いや、これは一体どういう仕組みなの?原理は何なの?」
「それは…」
残念ながら、俺も知らない。
正確に言えば、この世界で動く原理を知らない。
元の世界で電波を使うには、衛星も、電波塔も必要だ。
だが、この世界に衛星も、電波塔も存在しない。
携帯電話が使えない環境だということだ。
なのに、理由は分からないが、互いに連絡がつく。
今、俺が考えられるのは…
創造の神。
その神の力ということだけ。
「お教えするのは、少し…」
「待って、待って。静かにして。」
携帯電話をあれこれと触っていたルアナさんは、顎を撫でる。
「これは…間違いなく売れる…貴族だけでなく、値段さえ手頃なら…各村に普及させて、緊急事態に対処できるかもしれない…」
もう緊急通報のことまで考えているとは。
大した人だ。
「よし。優司!次の納品はこの携帯電話というものを…」
「ダメです。」
「なんで~?!」
ルアナさんが残念そうな声で俺に尋ねる。
俺も普及できるなら、それに越したことはない。
だが、この携帯電話を普及させる上で、一つ問題がある。
まさに、携帯電話の番号だ。
「この携帯電話は番号を指定しなければならないんですが、それは俺が直接やらなければならない作業なので。納品するほどの携帯電話を、俺一人で作るのは…」
俺は首を振った。
可能ではある。
一日に50個ずつ携帯電話を買うとして、一年ほどすれば納品するほどの量になるかもしれない。
だが、そうしたくはない。
旅を楽しもうと行くのであって、仕事をしようと行くわけではないのだから。
「私が手伝ったら…」
「申し訳ありませんが、それは俺にしかできないことなので…」
コンビ∞で携帯電話を買う時に、番号を指定しなければならない。
他の人にコンビ∞を見せるわけにはいかないし、もし見せられたとしても、ページは一つだけだ。
結局、一人で全部やらなければならないということだ。
「ちぇっ…それなら仕方ないわね…」
ルアナさんは携帯電話を置いた。
「じゃあ、契約条件を変えるというのは…」
「はい。納品する場所は俺が直接お伝えしますので、そちらへ人を送っていただく、ということでお願いします。」
「ふむ…」
ルアナさんがソファに寄りかかり、深いため息をついた。
「ルエリ、どう思う?」
横で話を聞いていたルエリは、顎に手を当てて上を見上げながら言った。
「う~ん、私の考えでは、可能だとは思うんですが…やはり、遠くなればなるほどお金がかかるので…」
ルエリが気まずそうに笑う。
「そうよね?」
「はい。遠くなれば山賊やゴブリン、オークといったモンスターの襲撃にも備えなければなりませんし…馬車の馬も乗り換えながら動かなければなりませんし…やはり今よりは、色々とお金がかかると思います。」
「だそうよ?」
ルアナさんの表情に、笑みが浮かんでいる。
彼女が何を考えているのか、大体予想はつく。
「分かりました。納品する代わりに、俺が受け取る割合を少し下げます。」
「どのくらい?」
「6対4くらいなら、 悪くないと思うけど。」
「6対4…悪くない気もするし…もっと下げるべきな気もするし…」
「これが嫌なら、違約金を払って契約を解除するまでですが…」
「あ…分かった、分かった!冗談よ、冗談。」
どこまでも、この契約の主導権は俺にある。
俺が契約したくなければ、違約金を払って解除すれば、それで終わりだ。
ここで惜しいのはルアナさんであって、俺ではない。
「じゃあ、あんたが言った通りに契約書を修正するわ。」
「修正は後で結構です。」
今から、ルアナさんがしなければならないことがある。
「ん?どういうこと?」
「ルアナさん。今から俺が携帯電話の使い方を教えますので、明日までに覚えてください。」
「ん…?私はただ受け取るだけでいいんじゃ…」
「違いますよ。ルアナさんも俺に到着予定日だとか、行けない場所なら行けないと連絡をくださらなければ、俺も日程を合わせられませんから、当然覚えるべきでしょう。」
「でも、私は仕事が…」
「仕事は後でしてください。」
明日はムルバスを少し見物してから、すぐに出発するつもりだ。
必ず今日中に、全てのことを覚えさせてやる。
***
「んん~っ」
伸びをしながら、眠りから覚める一人の少女がいる。
癖のある髪に顔がすっぽりと隠れた少女が、ベッドから起き上がり、バルコニーのある窓の方へ歩いていく。
「すぅ~、はぁ~」
窓を開けるや否や、鼻腔に入ってくる爽やかな空気に、少女は深く息を吸い込んだ。
こん、こん。
「お目覚めですか、ヘメラお嬢様。」
ギィィッ。
聞き慣れた声と共に開く扉の音に振り返ると、メイド服を着た女性が頭を下げて立っている。
彼女が入ってくると、ヘメラは慣れた様子で化粧台の前へ歩いて行き、腰掛け、続いてメイドが彼女の後ろへ歩いて行った。
化粧台にある櫛で、ぼさぼさの髪を梳かしたメイドは、彼女の前髪を上へ完全に上げて、後ろ髪と一緒に紐で結んだ。
すると、ヘメラのつるつるした額と共に、ぱっちりとした瞳と何も塗っていないのに赤い唇が現れた。
「お目覚めになられても、大変お美しいです。お嬢様。」
「それは当然でしょ。私は寝て起きた時も、起きている時も、寝る時も綺麗なんだから~」
ヘメラは鼻歌を口ずさんだ。
他の日より、かなり楽しそうに見える彼女を眺めながら、メイドは微笑んだ。
彼女の機嫌が今日、特に良い理由は一つだった。
まさに、一人の男性との町のデートのためだった。
「優司様は、もう起きられた?」
「昨夜、少し遅くにお戻りになられたので、まだお起こししてはおりません。」
「そう?じゃあ、私が起こす!」
「お嬢様が?」
「うん。この美しい私が朝を起こして差し上げれば、優司様もきっと喜んでくださるわ。」
「そうでしょうとも。お嬢様は美しいですから。」
「そして、朝食の後にすぐ町へデートに行くの~ブティックでお互いの服を選び合って~、広場の市場で軽く食事をして!帰りにはアクセサリー店に寄って、お揃いの指輪を選んで、お互いの左手の薬指にはめるの!」
そう言ったヘメラは、恥ずかしそうに「きゃあ~!」と小さな悲鳴を上げた。
彼女の姿に、メイドは気まずそうに笑った。
「お嬢様…結婚までお考えで…」
「それは当然でしょ!優司様と私は、運命の糸で結ばれた仲なのよ!運命の糸で結ばれた者同士が結婚するのは、当然の理じゃない!」
「はい~、はい~、お嬢様のおっしゃる通りですとも~」
そう言うと、髪留めに蝶の形の飾りまでつけたメイドが、明るく笑いながら鏡を通してヘメラを見つめた。
「じゃーん~今日は蝶の形をつけてみましたが、いかがですか?私は綺麗だと思いますが。」
ヘメラは顔を向けて、後ろ髪の飾りを見ては微笑んだ。
「うん、気に入った!」
「さあ、ではお嬢様。優司様を起こしに行きましょうか?」
「よし!」
そう言うと、すぐに化粧台から立ち上がり、扉の方へ駆け寄ろうとした。
その瞬間、メイドが彼女の腕を掴んだ。
「お待ちください、お嬢様。お召し物をきちんと整えてから行かれませんと。」
「あ。」
ヘメラが顔を赤らめたまま、気まずそうに笑った。
***




