第62話
第62話
狭い路地裏。
一つの生命体が四つ足でうずくまり、空を見上げている。
徐々に赤く染まっていく空を見つめていた生命体は、頭を下げて自分の足を見つめた。
確かに、この足は自分の足。
しかし、自分の主人だった人は、自分に気づいてくれなかった。
どうしてだろうか。
自分が何か、悪いことでもしたのだろうか。
おそらく、あの時。自分が主人を守れなかったから、怒っているのだろう。
それでも、最善を尽くして守ったのに、主人はどうやら気に入らなかったようだった。
今からでも、もう一度会いに行って、昔のように尻尾を振って近づけば、抱きしめてくれるだろうか。
頭を撫でて、可愛がってくれるだろうか。
近くに寄って、舌で顔を舐めたら、喜んでくれるだろうか。
主人と、永遠に一緒にいたい。
生命体は、明日もう一度、主人の家へ行ってみることに決めた。
明日になって、また主人が自分を攻撃するなら、その時は死を受け入れよう。
自分を生かしてくれたのは主人なのだから、自分の命を奪うのも主人。
これは、定められた運命。
空が完全に暗くなり、体を丸めた生命体は、ゆっくりと伏せたまま目を閉じた。
暗い路地裏に、うごめく音だけが、か細く響き渡る頃。
路地裏に、一人の人間が入ってきた。
紫色のフードが付いたローブを深く被ったその人は、生命体を見てゆっくりと近づいてきた。
「あら、こんなところに可愛い子がいるじゃない?」
聞こえてくる女性の声に、頭を上げた生命体が女性を見つめた。
尻尾があったなら、激しく振ったであろう動きで、四つ足でゆっくりと女性に向かって歩いていく生命体。
「人もよく懐くのね。すごく気に入ったわ、この子。」
生命体は頭を上げ、ローブを被った女性の顔を見つめた。
暗い月明かりがわずかに差し込み、見える女性の顔は褐色。
微笑む女性の歯が見え、虹彩から放たれる赤い眼光が、生命体に向かう。
「こんな良い子には、ご褒美をあげなくちゃね?」
女性が懐から、小さな瓶を一つ取り出した。
瓶の蓋についているのは、スポイト。
それで、中に入っている液体を生命体に振りかけた。
生命体の瞳に液体が入り、その瞬間。
生命体の瞳が赤く変わると同時に、身体が変化し始める。
「(ハル…)」
最後に、耳元で聞こえる主人の声。
そうして、その夜。
ジェルノータの内部に、狼の遠吠えのような音が響き渡った。
***
マルノフ商人ギルドとフクラ商人ギルドのマスターに頭を下げ、計画を後回しにしてもらい、ここ数日、俺は都市を歩き回った。
しかし、ハルの姿は見えない。
ルアナさんは仕事のため、再びムルバスへ戻り、ターニャとカイル、アニエスさんが俺を手伝って、ジェルノータのあちこちを歩き回って探している。
「外に出たんじゃないか?」
カイルが椅子にもたれかかり、槍を鼻の上に立ててバランスを取りながら遊んでいる。
「外に出るには、城壁を越えるか、出入り口を通って出なければならないけど、出入り口から出たら、警備兵に見つかって、とっくに噂になってるはずだよ。」
「それもそうか。」
「それに、いくらハルでも城壁を越えるのは…」
ターニャが顔を回し、右側を見つめる。
高い城壁、そしてその上に石でできた矢倉が見える。
「だとしたら、中にいるってことだけど…」
アニエスさんが小さく呟く。
「間違いなく、中にいるはずだよ。」
ハルを探しながらミニマップを使わなかったわけではない。
しかし、この都市の中は人口があまりにも多く、数え切れないほどのアイコンが都市の中をびっしりと埋めている。
この中でハルを探すのは、砂浜で針を探すようなもの。
見つけられるはずがない。
「でも、おかしくないか?」
カイルの言葉に、ターニャがカイルを不思議そうな顔で見つめる。
「いや、考えてみろよ。ハルは、昔みたいに犬の姿をしてるわけじゃないだろ?だとしたら、ハルを見た人たちが警備兵に通報してもおかしくないのに、警備兵たちが知らないっていうのが…」
「確かに、そうだね…」
ターニャが頷く。
カイルの言うことにも一理ある。
もしハルが人に見られていたら、間違いなく大騒ぎになっていたはずだ。
なぜなら、今のハルの姿は、モンスターと何ら変わらないから。
そんな姿の生命体を人々が見たら、ジェルノータの内部は大騒ぎになっていたはず。
それなのに、こんなに静かだということは…
‘そんなはずは…’
一つ、予想されるシナリオがある。
ハルが、誰かに捕まったということ。
人を噛むどころか、むしろよく懐くハルなら、人を警戒せずに、ついて行っただろう。
しかし、疑問が一つある。
一体、誰が?
ハルを、なぜ?
ハルは今、誰が見ても逃げ出すほどの姿をしている。
普通の人間なら、逃げ出してすぐに警備兵に知らせたはず。
「くそっ…」
今にも流れ落ちそうな涙を、かろうじて堪えた。
「兄貴、もう少し探してみようぜ。すぐに見つかるって。」
カイルが俺を応援するように、手を差し出す。
「そうだよ、お兄さん!ハルが外に出てないってことは、ジェルノータの中で絶対に見つかるってことじゃない!」
ターニャも席から立ち上がり、俺を見つめて笑う。
「そうですよ、優司さん。必ず見つけて、どうにかして一緒に元に戻す方法を探しましょう!」
アニエスさんまで。
「ありがとう、みんな…」
こうして助けてくれる人々がいて、俺はどれほど幸せか。
そうだ…あの時とは違う。
元の世界で、毎日俺に仕事ばかり押し付け、仕事がうまくいかなければ俺のせいばかりにしていた、あのクソみたいな上司たちとは。
もし、あいつらがここにいたら、間違いなく俺のせいだと言って、むしろ俺の精神をさらに蝕んでいただろう。
「ああ、探そう。」
見つけられるはずだ。
そして、見つけたハルを元の姿に…
ピリッー
俺の耳にだけ聞こえる、小さな信号音が聞こえる。
これは、ミニマップから聞こえる音。
「…?」
ミニマップを見つめると、赤色の丸いアイコンが、素早い速度で街を疾走している。
そして、疾走しながら、灰色の光を放つ中立アイコンが消え始める。
「兄貴?兄貴?!どこ行くんだ?!」
慌てて冒険者ギルドのドアを開け、外へ飛び出した。
そして、赤色のアイコンがある場所へ向かって、駆け出した。
グルルルン…
そこに、一匹の狼のようなものがいた。
いや、狼とさえ言えないだろう。
狼の形をした四つ足の獣。
紫色の霧のようなものが、血の滴る体から流れ出ており、犬の頭蓋骨のようなものが飛び出している、人間ほどの大きさのモンスター。
「ハル…?」
キャン、キャン!
四つの赤く染まった瞳が、俺に向かう。
「ハル、お前だよな…?」
こんな姿になれるのは、間違いなくハルだ。
しかし、ハルの姿が、どうして変わったのだろうか。
いや、姿がどんな姿であろうと、ハルはハルだ。
「ハル…!」
ようやく、また会えた。
俺のハル。
この世界に来て、俺と共に過ごしたハル。
俺の愛おしいハルが、今、俺の目の前に…
「お兄さん!」
ターニャが身を投げて、俺に覆いかぶさる。
横に倒れると同時に、俺の頭の方へ飛んでいく円錐形の物体一つ。
それは、後ろにある建物に突き刺さり、壁を崩した。
「しっかりして、お兄さん!」
「しっかりするって何があるんだ…?ハルじゃないか…!」
あれはハルだ。
そうだ、ハルが俺を攻撃するはずがない。
ハルは、俺を守るために、あの鋭いものを撃ったんだ。
それもそうだろう、ハルが俺を攻撃する理由がないじゃないか…
「みんな~、こんにちは~」
ハルの背後から、一人の女性が近づいてくる。
紫色のローブを着て、ローブのポケットに手を入れたまま、カツカツと鳴るヒールの音、黒色のストッキング。
風が吹き、女性が被っているローブのフードが脱げる。
青白い褐色の肌、銀白色の髪が風に舞い、かけている眼鏡の奥で、真っ赤な瞳が太陽の光にきらめく。
「真っ赤な瞳…まさか…」
アニエスさんが、小さな声で呟く。
「魔族?!」
それと同時に、カイルが叫ぶ。
「ピンポーン~、正解。私は魔族でーす~」
活気のある声で話す女。
しかし、俺には聞こえない。
今、重要なのは、あの女が魔族かどうかではない。
「ハル…こっちへ来い…」
ハルに向かって、両手を広げる。
ハルなら、間違いなく俺に向かって駆け寄ってくるだろう。
そして、俺の胸に抱かれて…俺の頬を舐めるはず。
「こ…この前は、ごめんだったな、ハル。もう一度、戻ろう。家へ…そして、一緒にここから去るんだ。一緒に、この世界を旅しよう。」
「あら?この子の名前、ハルっていうの?」
女性がハルの頭を撫でる。
すると、ハルはまるで女性が主人であるかのように、彼女の胸に抱かれる。
いや、そんなはずはないじゃないか。
ハルが、俺ではない他の人の言うことを聞いて、抱かれるなんて…
「名前も可愛いのね、ハルだなんて。」
そう言って、顎を撫でながら俺を見つめて、笑う。
「ハル。あそこにいる、間抜けな顔した男が、あんたの前の主人?」
ハルが俺を見る。
「…!」
そして、顔を背け、再び女性を見つめて、ハァハァと息をする。
「違う…ハルが…他の人に…」
バチンー!
瞬間的に感じる痛みに、頬を掴んで顔を背けた。
「お兄さん。いつまで、そうしてるつもり?」
「ターニャ…」
「お兄さんには、あれがハルに見えるの?あれはハルじゃない!ハルじゃ…」
ターニャの目から、涙が流れ落ちる。
「ないってば…」
「ターニャ…?」
「お兄さん、ハルを取り戻したいでしょ。だったら今、こんなことしてる場合じゃない。あの魔族を倒して、ハルをあの魔族の手から、解放してあげなきゃいけないんだって…!」
そうだ、そうだ…
今、ハルを連れているのは、あの女だ…
だとしたら、力ずくででも奪えばいいじゃないか…
インベントリを開き、手を伸ばしてアイコンを押す。
装着ボタンを押し、インベントリから拳銃を取り出して握った。
「その武器は…?」
女性が首をかしげる。
俺が取り出した武器が何なのか知らない奴に、銃を向ける。
そして…
タン。
引き金を引くや否や、風を切り裂いて弾丸が魔族の頭へ向かって飛んでいく。
ザシュッ。
魔族の頭に穴が開き、血が飛び散る。
目も閉じられないまま、後ろに倒れる。
人を殺したのは初めてだが、不思議なことに心の動揺のようなものは感じられない。
以前にゴブリンのようなものを殺したことがあるからだろう。
「殺し…」
「その武器、結構痛いじゃない~」
女性がよろめきながら立ち上がり、後頭部を掻く。
「何よ?前より、後頭部の方がもっとひどくえぐれてるじゃない~」
穴がもう少し大きく開いた後頭部をいじり、自分の血がついた手を見つめる。
それと同時に、俺に向かって、にやりと笑う。
「でも、どうしましょう~?私は、そんなもの当たっても死なないんだけど~」
その言葉が終わると同時に、頭に開いていた穴が、瞬く間に再び塞がった。




