第61話
第61話
元の世界での貨幣には、高度な技術が組み込まれている。
光にかざせばホログラムの絵が見えたり、特定の角度からしか見えない小さな文字や模様があったり。
様々な複合的な技術を用いて貨幣は作られる。
そのおかげで、偽造紙幣は注意さえ払えば、簡単に見分けることができる。
しかし、この世界にホログラムや潜像のような高度な技術は存在しないだろう。
そもそも魔法が存在する世界。
そんな世界で科学が発展しているとは考えにくい。
もし科学が発展していたなら、今この都市の姿ではなく、SFのような姿をしていたはずだから。
「理解してくれて、よかった…」
俺がバンクランについて説明した時、彼女たちは理解したのか、明るく笑って頷いた。
奴らが取引のために人々に配った紙幣はただの紙だ。
それも、印刷技術一つだけが使われた低級な紙幣。
つまり、大量に複製さえできれば、奴らが持っている金を全て奪い取れるということだ。
しかし、そうすれば誰がやったのか特定されてしまう。
特に、一人の人間が大量の紙幣を両替しようとすれば、奴らは必ず裏調査をするだろう。
そうなれば、俺だけでなく他のギルドまで被害を受ける。
それどころか、道連れにでもしようと、何とかして自爆する可能性もある。
だから、これは一人でできることではない。
「はぁ…」
フクラギルドの外に出た俺は、深いため息をついた。
ギリアムにも話してみると、少し信じられないという様子ではあったが、万が一バレても自分たちのことは口外しないという条件で、俺を手伝ってくれるという約束を取り付けた。
あとは、二つのギルドの準備が終わるまで待つだけ。
家へ帰るために、方向転換した。
その時、背後から何かが駆け寄ってくる音が聞こえる。
タタタッと四つ足で走ってくる、聞き慣れた音。
振り返ってそれを見た瞬間、俺の体に大きな衝撃が走る。
ガガガガガッー
地面に押し付けられ、地面を引きずりながら、俺の服の背中が床に擦れて破れる音が耳を打つ。
痛む腹を抱え、俺を襲った奴を見上げた。
「…!」
俺を襲ったものを見て、瞬間的に恐怖に駆られた。
これは人間ではなかった。
かと言って、獣だろうか。
いや、獣でもなかった。
うごめく肉塊。
頭のように見える部分には、眼球が筋肉に沿って動いているのが見えた。
湿った肉塊と繋がった腕は、犬なのか、狼なのか分からない足がついていた。
「な…なんだ、こいつ?!」
驚いてそれを突き放し、素早く立ち上がって奴と距離を取った。
頭から冷や汗が流れ落ちる。
一目で分かる、モンスター。
こんな奴が、どうやってジェルノータの中に入ってきたのだろうか。
インベントリから拳銃を取り出し、奴に銃口を向けた。
再び奴が俺に向かって飛びかかり、俺は奴に向かって拳銃を発砲した。
タン、タン!
衝撃のせいだろうか。
俺が撃った弾は、奴の体に当たらず地面に突き刺さった。
俺に向かって駆けてきた奴が、後ろに跳んで俺を見つめ、首をかしげる。
そして、ゆっくりと口を開く。
『ご…主…人…様…?』
「ご主人様…?」
俺に向かってご主人様と呼ぶとは。
俺はあんなモンスターの主人になった覚えはない。
おそらく、俺と似た人間と勘違いしているのだろう。
そうでなければ、俺にご主人様と呼ぶはずがない。
いずれにせよ、奴をこのままにしておけば、街で何をしでかすか分からない。
今すぐ、奴を殺さなければならない。
タン、タン、タン!
俺が拳銃を発砲するたびに、奴が後ろに跳んで距離を取る。
そして、四つ足であちこちと動き回り、まるで不安なように動く。
しかし、絶対に俺から目を離さない。
カチャッ。
インベントリから弾倉を取り出して交換し、再び奴に銃口を向けた。
今度こそ必ず当てるという思いで、片目を閉じたまま照準器に目を当てて奴を狙った。
そして、引き金を引いた。
「優司!」
タン!
引き金を引くや否や、誰かが俺を呼び、俺の拳銃の向きを変える。
タンー!
弾が地面に突き刺さり、モンスターが素早い速度で逃げ始める。
俺の銃口の向きを変えたのは。
「ルアナさん…?」
てっきり、もう帰ったものと思っていた。
そもそも取引ももう終わりだし、ルアナさんがこれ以上ここに留まる理由はないから。
なのに、どうして彼女がここにいるのだろうか。
それに、あのモンスターをどうして守ったのだろうか。
「はぁ…間に合ったわね…」
ルアナさんが安堵のため息をつき、後頭部を掻く。
「ルアナさん、帰ってなかったんですか?」
「ええ。用事があってね。」
「用事と言いますと…」
おそらく、あのモンスターの問題だろう。
俺は虚しく笑い、インベントリに拳銃を入れた。
「ルアナさん、何をしくじったんですか?」
「しくじった?」
「はい。ジェルノータの中に、あんなモンスターがうろついていたら危険じゃないですか。」
俺の言葉に、ルアナさんは悩むように、繰り返し「すぅー」と息を吸い込み、腕を組んだまま足を揺らす。
「何かあったんですか?」
「あ、それがね…」
俺に話すのが、ためらわれるのだろうか。
「話しにくいなら、話さなくてもいいですよ。」
どうせ聞いても、頭が痛くなるだけだ。
俺は俺がすべきことだけをすればいい。
他人まで助ける必要はない。
「優司。」
顔を背けた俺を呼ぶルアナさんを見つめた。
そして、ルアナさんがゆっくりと口を開く。
「さっき、あんたが見たモンスター…のことなんだけど。」
「はい?」
「あのモンスター…」
ルアナさんが、俺が話すか話すまいか悩んでいたこと。
俺は、最後のルアナさんの言葉を聞いて、目を大きく見開いた。
「あんたが飼ってたペットよ。」
…
「これはこれは?!ルアナに優司まで…」
挨拶するハンスさんを無視し、ルアナさんの腕を掴んだまま中に入って席に座った。
「どういうことですか?」
信じられなかった。
あのモンスターが、ハルだなんて。
そもそもハルは死んだ。
そんなハルが、どうしてモンスターになったというのか。
それも、あんなおぞましいモンスターに。
「それがね…」
ルアナさんがゆっくりと口を開く。
「ダンジョンで、時々死んだ後にモンスターになるケースがあるのよ。あんたも知ってるでしょ?スケルトンとか、ゾンビとか。」
この世界でスケルトンも、ゾンビも見たことはない。
しかし、どんな感じかは分かる。
「つまり…今、ハルがゾンビになったということですか?」
「いいえ、ゾンビじゃないわ。」
ルアナさんが腕を組んだまま顎を撫で、考えに耽った。
「あの姿は、ゾンビというよりはキメラに近いから…おそらく、キメラに変わったんでしょうね。」
「どうして…どうしてハルにそんなことが起こったんですか?!」
ハルは、ただ俺を守って死んだ。
内部にある酸性物質のせいで、ターニャやカイルが入るのは危険だと言ったので、死体さえ探しに行けなかった。
だから、持っていたハルの物を地に埋めて墓を作り、天国ででも安らかにいてくれるように祈ったのに、どうしてハルにあんな酷いことが降りかかったというのか。
ドン!
俺がテーブルを拳で叩きつけると、大きな音が響き渡る。
ルアナさんは周りをきょろきょろと見回し、深いため息をついた。
「普通の生命体が死んで、アンデッドモンスターになる理由は単純よ。死にきれない怨念が一つの死体、あるいは複数の死体に集まって作られるの。」
「ハルに…怨念があるって言うんですか…?」
「ええ。どんな怨念かは分からないけど、奴に怨念があって、その怨念が周りにあった死体を集めて体を構成したんでしょうね。」
頭がずきずきと痛んだ。
「じゃあ…どうすればいいんですか?元に戻る方法は、あるんですか?それとも…」
次の言葉は言いたくないが、言わなければ答えを聞くことはできない。
「殺さなければ…ならないんですか…?」
ルアナが深いため息をついた。
「ひとまず、あんたに聞くけど…」
ルアナさんが俺を睨みつける。
「あんた、そのハルとかいうペットが、レイジドッグだってことは知ってた?」
「レイジドッグ…?」
初めて聞く名前だ。
「レイジドッグって、何ですか…?」
「やっぱり、知らなかったのね。」
ルアナさんが額をポンと叩く。
「どういうことですか?レイジドッグって?犬種のことですか?」
「私が無駄に犬種を聞くと思う?…いや、待って。犬種で合ってるのか?」
「ちゃんと答えてください。レイジドッグが何なのか?」
「レイジドッグ…都市一つを丸ごと吹き飛ばせる…超巨大モンスターよ。」
「ハルが…都市一つを丸ごと吹き飛ばせるモンスターだって言うんですか…?」
信じられない。
そもそも都市一つを丸ごと吹き飛ばすだなんて。
そんな力をハルが持っているはずがない。
もし持っていたなら…ダンジョンの中でとっくに使っていたはずだから。
「そ…そんなはずないじゃないですか…ハルがモンスターだなんて…ハルはただの犬ですよ。普通の犬。普通の犬がどうして…」
「あんたは普通の犬だと信じたいようだけど、そもそも普通の犬はそんなに大きくならないわ。それに…これは信頼できる奴の情報よ。性格は最悪だけど、あいつもれっきとしたSランク冒険者だった奴だから。」
「ハルが…モンスター…?」
信じられない。
いや、ハルはモンスターじゃない。
ハルはただの犬だ。
赤ん坊の時から、俺が世話をしてきた。
どこまでも優しくて可愛い、俺の犬だ。
「元に戻す方法は、あるんですか?」
「あるにはあるけど、元に戻すのはお勧めしないわ。レイジドッグは、元々超大型モンスター…ジェルノータと同じくらいの大きさのモンスターなのよ。そんなモンスターを元に戻して、問題でも起きたら討伐令が出るわ。それに、私たちまで指名手配されるかもしれない。」
元に戻す方法があるのに、元に戻せない。
それは、ないのと同じではないか。
「その方法以外には、ないんですか…?」
「ええ。」
だとしたら、残された方法は一つだ。
「俺が…殺します。」
「何ですって?」
「ハル、俺が殺します。」
死んだハルが、怨霊になってモンスターになってしまった。
おそらく、怨霊になった理由は俺だろう。
俺が一緒に死ななかったから、どうにかして俺を守るために、モンスターになってでも俺を守ろうとして、モンスターになってしまったんだ。
だとしたら、その怨霊の主体となる俺が…
「俺の手で…」
ハルを、楽にしてやらなければならない。




