第52話
第52話
風に旗がはためく。
ジェルノータの巨大な城。
領主の執務室の扉を、誰かがノックする。
「入れ。」
扉が開き、入ってきた一人の女性。
今まさに戦場から戻ってきたかのように、全身に土埃をまとった彼女は、領主の前で片膝をつき、頭を垂れた。
「レベッカ・デ・クレッシェンド、ただいまダンジョンより帰還いたしました。」
部屋の中央。
ソファに腰掛けた領主は、茶を一口飲むと目を閉じた。
「怪我はないか?」
「はい。」
「それは良かった。」
「ご心配をおかけし、申し訳ありません。」
「そういう時は、感謝します、と言うのだ。」
そう言ったジェルノータ領主は、ティーカップを置いた。
「では、報告を聞こうか…」
レベッカがゆっくりと立ち上がる。
そして、ジェルノータ領主を見つめる彼女の目は、ひどく真剣だった。
「結果をご報告いたします。領主様がおっしゃっていたあの方、坂本優司様は…異邦人でございます。」
その言葉を聞いた瞬間、ジェルノータ領主の口元に笑みが浮かんだ。
***
目を閉じた。
ワン!
ハルの声が耳元で聞こえた。
この世界で初めて共に過ごした、俺の伴侶、ハル。
あの小さかった奴が、時が経つにつれて大きくなり、俺の足元まで届くようになり。
ワンワン!
俺の腰まで届き。
ケン、ケン!
俺の頭の高さまで来るようになった。
いつも餌をやり、体を洗い、そのたびに体をブルブルと振って、服を着た俺の体を濡らした奴。
どんな動物も人間より長くは生きられない。だから、俺は覚悟していた。
もしハルが寿命を全うして旅立つ時が来ても、笑顔で見送ってやろうと。
そうすれば、ハルも安らかに逝けるし、俺自身も楽になれるからと。
だが。
ケン、ケン!
ガリッ。
チイイイッ。
闇の中で、皮膚が溶ける音がする。
ひどい匂いが鼻先をくすぐり、あんなに可愛かったハルの顔が溶け落ち、顎の骨と鼻骨が見える。
「ハッ!」
目を覚ました。
見慣れた天井が目に入る。
ベッドから起き上がり、ドアを開けて外に出た。
本来なら家のドアを壊さんばかりに引っ掻いているはずのハルの姿は、どこにも見当たらない。
冷蔵庫から水を取り出して椅子に座り、頭から流れる冷や汗を袖で拭った。
ごくごくと飲み干す液体が喉を通るたびに、喉がひりひりと痛む。
まるで、ハルが感じたあの苦痛が、そのまま伝わってくるかのように。
「うっ…!」
水と混じった胃液がこみ上げ、床を濡らす。
ハルの姿が、目の前にちらつく。
俺は、どうしてあんな選択をしてしまったのだろうか。
なぜ。
どうして。
なぜ。
あの時、静かにレベッカさんを待っていれば、ハルは死ななかったはずなのに。
何をそんなに急いでいたのか。
「ハルを…俺が殺した…」
そうだ。
ハルは、俺が殺した。
***
ガタガタと馬車の音が響く。
道を走る三台の馬車。
「早く、もっと早く!」
馬車に乗った一人の女性が、御者に向かって叫ぶ。
「ル…ルアナ様、これ以上速く走ると、馬が転んでしまいます!」
「今、それが問題なの?!金が問題でしょ!」
ルアナは爪を噛みながら、考えに沈んでいた。
「あいつ…どうして急に契約を破棄するなんて言い出したのよ…」
ある者は収集用として、ある者はダンジョン探検のために、またある者は戦争や暗殺のために。
坂本優司が提供することでトゥスカード商人ギルドに入ってくる品物が、ようやく人々に知られ始めた時期だった。
そんな状況で取引をやめると宣言する坂本優司。
ギルドマスターであるルアナにとって、かなり厄介な状況だった。
「もしかして、あの件を進めるうちに何かあったんじゃないでしょうね…?」
もし彼がモルモス国家商業ギルドと、あの特別な品物を取引することになれば、トゥスカード商人ギルドとしてはかなり問題になるだろう。
それだけは、阻止しなければならなかった。
そうしてしばらく走り、坂本優司の家に到着した。
ルアナはドアを叩いた。
「坂本、いるの?!坂本!」
ドアを叩き、いくら呼んでも返事はない。
ルアナはドアノブを回してみて、ごくりと唾を飲んだ。
ドアに鍵がかかっていなかった。
万が一、身に何か問題が起きたのではないかと、緊張しながらドアを開けたルアナは、中に入って内部を見回した。
「(死体は…ない…)」
モルモス国家商業ギルドが坂本優司を殺したなら、ここに死体があるはず。
しかし、死体は見えない。
かといって、坂本優司の姿が見えたかと言えば。
それも違った。
部屋にも、トイレにも、坂本優司の姿は見えなかった。
「どこへ行ったのよ…」
少し村に用事があって出かけたのだろうか。
それとも、拉致か?
ルアナはドアを開けて、外にいる人夫たちに叫んだ。
「お前たち、この辺りで優司を探して!」
「え~?ここで待ってちゃダメですか?」
「あんたたちをここで遊ばせるために連れてきたと思ってるの?!早く探しなさい!」
「へ~い。」
そうして人夫たちが坂本優司を探しに行き、ルアナが椅子に座って頬杖をつきながら待っていると、誰かがドアを開けて中に入ってきた。
「ルアナさん?」
「さ…坂本!」
小屋の中に入ってきたのは、坂本優司だった。
「ここには、どういったご用件で?」
坂本優司はタオルで汗を拭きながら、冷蔵庫へ歩いて行った。
「ちょっと話があって来たの。」
「話、ですか?」
「ええ。契約のことよ。」
「ああ…」
坂本優司がルアナの向かいに座り、水をごくごくと飲んだ。
「手紙、お送りしたはずですが。もしかして、受け取れませんでしたか?」
「いいえ、受け取ったからこうして来たんでしょ。」
ルアナがポケットから手紙を取り出し、食卓の上に置いた。
「私は、理由を聞きに来たの。」
「理由、ですか?」
「ええ。私たち、お互いに取引する以上、契約破棄もお互いに話し合って決めるべきでしょ。こんな風に一方的に契約破棄するのは違うと思うの。」
坂本優司が深く息を吐き出した。
「理由、ですか…」
坂本優司が気まずそうに笑いながら言葉を続けた。
「もう商売人を辞める…とでも言いましょうか…?」
「商売人を辞めるって?」
「はい。お金も稼げるだけ稼ぎましたし。これからは静かに暮らそうと思いまして。」
「どういうことよ?静かに暮らすって?それなら、ただ私たちに納品だけすれば…」
「ルアナさん。」
坂本優司が話しているルアナの言葉を遮った。
ルアナは坂本優司の目を見つめ、眉をひそめた。
彼の目に、空虚さが垣間見えた。
「何もせずに、静かに暮らしたいんです。ただ、それだけです。」
ルアナは歯を食いしばり、席を蹴って立ち上がった。
「本当に、辞めるの?」
「はい。私のような者が商人だなんて…いえ、そもそも商人ですらございませんでした。ただの物資を納品する者にすぎません。」
ルアナが目を細めて彼を見つめ、深いため息をついた。
「分かったわ…あなたが契約破棄を望むなら、そうしましょう。最後に聞くけど…」
ルアナが視線を後ろに向け、坂本優司を見つめた。
「再契約するには、あなたにとってかなり不利な条件がつくでしょうけど、それでもいいの?」
「大丈夫です。」
ルアナが目を閉じ、頷いた。
「分かったわ。そうしましょう。」
そう言って、ルアナはドアの外へ出た。
「お前たち!もう探すのはやめな!」
「優司様、戻ってこられましたか?!」
「それじゃあ、コーヒーを…」
「黙って、みんなついてきなさい!」
「え~?」
不満げな声が後ろから聞こえ、ルアナは眉をひそめたまま前に歩いて行った。
「(坂本…一体、何があったの…?)」
***
まだ夜になっていないので、閑散とした酒場。
カランという音と共に、ルアナが中に入ってきた。
「いらっしゃ…おや、誰かと思えば!ルアナじゃないか!」
ハンスが明るく笑いながら彼女を迎えた。
「ハンスさん、お元気でしたか?」
「元気も何も、あったりまえだろ。」
「商売は繁盛してます?」
「商売は…」
ハンスが気まずそうに笑いながらルアナに言った。
「うまくいってないな…」
「はい?」
「あんたは知らないかもしれないが、今、冒険者たちがビッグウッドを倒しに外に出ている状態なんだ。」
「ああ、その話は私も聞きました。」
ビッグウッド。
巨大な木の姿をしており、落ちる実は爆発して周囲に毒を撒き散らし、幹は地面から突き出して人間の心臓を貫くというレイドモンスターだった。
「それで、商売がうまくいかなくてね…」
「そうでしょうね。食堂もそうですし、宿屋もそうですし。冒険者が多くないと商売にならないでしょうから。」
「そうなんだよ。」
ルアナがバーに座ると、彼女の前に何かを置きながら尋ねた。
湯気が立つ、ベージュ色の食べ物。
「それで、何を飲む?」
「特製エールを一杯ください。」
「特製エール一杯!すぐ持ってくるよ。」
フォークでそれを口に入れたルアナが、驚いた表情で尋ねた。
「お、これ何ですか?」
「ああ、それか?ジャガイモっていうんだけど、ルアナも坂本優司を知ってるだろ?あいつが持ってきてくれたんだ。」
「坂本さんが…?」
「ああ。自分が育てたんだって言って、持ってきてくれてな。客に食前として一つずつ出してるんだけど、反応がかなり良いんだ。」
ルアナはジャガイモをあちこちと見回し、ハンスに尋ねた。
「あの、ハンスさん。」
「どうした?」
「もしかして、坂本さんに何かあったんですか?」
「優司にか?」
ハンスはエールが注がれた大きな木のグラスをルアナの前に置いた。
「うーん…それはよく分からないけどな…」
「そうですか…」
「この前、ダンジョンに一度行ってきたとは聞いたけど…その後はここに来てないから、よく分からないな。」
「ダンジョンですか?」
「ああ、ダンジョン。この前、一緒に来た冒険者たちが話しているのを、少し盗み聞きしたんだ。」
「(商人がダンジョンを…?)」
商人とは、文字通り商人。
ほとんどが戦闘能力を持たない者たちなので、たいていは直接行かずに依頼という形で望むものを手に入れた。
なのに、商人が直接ダンジョンに行くとは。
ルアナは腕を組んだままじっくりと考え、頭をガシガシと掻いた。
「あー、もう、分からないわ、本当に!」
エールのグラスを手に取り、ごくごくと飲み干した。
喉を通る冷たいエールに、精神が少し晴れるルアナ。
彼女はハンスに尋ねた。
「ハンスさん。その冒険者たちが誰なのか、教えていただけますか?」
「うーん…名前はよく知らないけど、16歳か17歳くらいに見える槍を持った男の子と、剣と盾を持った女の子、それと20歳くらいの女性の治癒師…だったかな。」
「ありがとうございます!」
そう言ったルアナが、すぐに席から立ち上がってドアを開け、外に出て行った。
「ちょ…ちょっと、ルアナ!金は…」
ハンスは呆然とした表情でドアを見つめ、深いため息をついた。
「ツケにしておくか。」




