第51話
第51話
一歩、また一歩。
奴らに気づかれないように。
慎重に足を踏み出す。
手のひらには汗がびっしょりで、額からは冷や汗が流れ落ちる。
「(気づかれないといいんだけど…)」
アントは視覚と聴覚が良くない。
だからといって、安心して気楽に行けるわけではない。
成虫の時と幼虫の時で特徴が異なる昆虫は数え切れないほどいるのだから。
この者たちも、幼虫の時は視覚と聴覚が発達していて、成虫になるにつれて退化したのかもしれない。
タッタッ、タッタッ。
ハルと一緒に、幼虫たちの間を通り抜けていく。
奴らが撒き散らす液体を避けながら。
音を最大限に抑えながら間をすり抜ける緊張感は、言葉では言い表せないほどだ。
しかし、それも束の間。
シューッ。
奴らが吐き出した液体に靴が触れるや否や、溶けてひどい煙が立ち上る。
それと同時に。
キィィッー!
幼虫が奇妙な声を上げ、俺に向かって駆け寄ってくる。
すぐにライフルを取り出し、奴らをあちこちと殴りつけるが、奴らの体から流れ出る体液によって、俺の銃は瞬く間に溶けていく。
地面さえ溶かす奴が、銃を溶かすのはたやすいだろう。
「ハル、逃げろ!」
俺の命令を、ハルが聞いたかのように見えたが。
ワン、ワン!
荒々しく吠えたハルは、俺たちが入ってきた出口の方向ではなく、逆に奥へと入っていく。
まさか、俺の命令を聞き間違えたのだろうか。
そうではないらしく、ハルは瞳を動かし、後ろにいる俺を横目で見る。
ハルがどんな考えで中に入っていったのか、感じ取れた。
ハルは今、俺のために自分を犠牲にしようとしている。
ハルが中に入るや否や、幼虫たちがハルに向かって駆け寄る。
ハルが口を開け、幼虫一匹に噛みつく。
それと同時に液体が弾け、ハルの口の周りに白い煙が立ち上る。
もう一度。
さらにもう一度。
また…
「ダメだ…ハル、ダメだ!戻ってこい!」
必死にハルを呼んでみるが、ハルは戻ってくる気はない。
今まで、俺の命令ならあれほどよく聞いていたハルが。
どうして今回は、俺の命令を聞かないのだろうか。
「ハル!」
再び必死に呼んでみるが、ハルは俺に一度も視線を向けない。
「誰の勝手で…」
主人の許可もなく、誰の勝手で自分自身を犠牲にしようというのか。
絶対にダメだ。
ハルは、俺がこの世界に来て初めて一緒に暮らすことになった家族だ。
そんな家族を捨てて、逃げろだと?
「ふざけるな!」
インベントリから、手当たり次第に武器を一つ取り出して手に握った。
そして、ハルがいる方向に向かって走り出した。
***
「どういうことだ…?」
レベッカが小さな声でつぶやいた。
後からついてきたのは、カイルとターニャ、そしてアニエス。
本来なら三人はジェルノータに向かっているはずだったが、ターニャが駄々をこねた末、結局カイルも根負けして、再び優司のいる場所へ戻ってきたのだ。
「お兄さんはどこに行ったんだろう?」
ターニャが辺りを見回し、坂本優司を探した。
しかし、坂本優司とハルの姿は見当たらない。
「まさか…!」
悩んでいたレベッカが、天井が崩れて塞がれた洞窟へ駆け寄り、見つめた。
隙間なく積み重なっている岩を見ると、この中に入ったわけではなさそうだ。
「ひとまず、ここで待ってみるか?ちょっとトイレにでも行っただけかもしれないだろ。」
「それもありえるけど…」
カイルの言葉に、ターニャが小さくつぶやいた。
しかし、レベッカが思う坂本優司なら、どこかへ行って戻ってくるなら、必ず痕跡を残したはず。
だが今、この場所に坂本優司が残した痕跡は見当たらない。
「もしかしたら、他の出入り口があるか確認しに行ったのかもしれません。ひとまず、壁に沿って行ってみましょう。」
「分かった!」
カイルが真っ先に先頭に立って中に入ろうとすると、ターニャがカイルの前に立ちはだかる。
「カイル、あなたはここに残って。」
「はぁ~?なんでだよ?!」
「なんでって、決まってるでしょ。もしかしたらお兄さんがここに戻ってきた時に誰もいなくて、また別の場所に行っちゃうかもしれないじゃない!」
「それなら、アニエスが残るのが筋だろ?」
「アニエス姉さんは戦闘職じゃないじゃない。もし他のモンスターがここに来たら、お姉さんにどうやって戦えって言うの?」
「それは…」
カイルは深いため息をつき、行けというように手振りをした。
「分かったよ、分かった。俺が残ればいいんだろ。」
「そうこなくっちゃ!」
ターニャが壁に沿って歩いていくレベッカの後を追って駆け出した。
「じゃあ、行ってくる!」
「ターニャ、兄貴に悪かったって伝えてくれ!」
「それは自分で伝えなさいよ!」
「頼むよ~!」
「嫌よ~」
ターニャは最後までカイルの頼みを断りながら、レベッカの隣についた。
「レベッカ姉さん。」
「何でしょうか?」
「お姉さんはいつからお兄さんと知り合いなんですか?」
「私も知り合って、それほど長くはありません。」
「え?さっき、一緒に住んでるって…」
「一緒に住んではいますが、完全に同じ家ではありません。」
「あ、じゃあ隣の家?」
レベッカが頷く。
「領主様の命で、本来は同じ家で過ごすことになっていましたが、優司様が同じ家では不便だとおっしゃるので、今は優司様が建ててくださった家に別に住んでいます。」
「ちょっと待って!優司お兄さん…家も建てられるんですか?!」
「はい。家だけでなく、大抵のことは何でもできます。農業もそうですし、狩猟や商業も。それに、家には数多くの魔導具があります。食べ物や水を冷たくしてくれる冷蔵庫だとか、ボタン一つで熱いお湯を作ってくれる電気ケトルというものもあれば、大きな音を立てて家の中の埃やゴミを強く吸い込む掃除機というものもあります。」
「わぁ…信じられない…じゃあ、優司お兄さんは魔導具商人なんですか?」
「それは違います。優司様は魔導具も取引されていますが、様々な品物を売っています。おそらく、雑貨屋というのが正しいかと…」
「雑貨屋…?」
ターニャが人差し指を唇に当て、首をかしげる。
「不思議ね…」
「私も優司様については、正確には分かりません。特に、あのような品物をどこから持ってくるのか…今まで優司様がどこへ行かれるかについては、きちんと把握しているつもりでしたが、時々家に帰ってみると、どこからか不思議な品物を持ってこられて、私を驚かせます。」
「なんだか、すごく秘密に包まれた冒険者って感じですね。」
ターニャの言う通り、優司は秘密に包まれた冒険者、いや、商人だった。
誰にも知られることのない、神秘的な能力を持つ商人。
「あそこ!」
ターニャが指でどこかを指し、素早く駆け寄る。
レベッカが彼女の後を追ってみると、そこに大きな穴があった。
「うっ…!」
ターニャが鼻を塞いだ。
「この匂いは…」
一方、レベッカは鼻をクンクンと鳴らし、匂いを嗅いだ。
この匂いは、間違いなく優司が撒いた殺虫剤の匂い。
つまり、この中にアントの洞窟が繋がっているということ。
「(まさか…!)」
レベッカの頭に、良くない考えがよぎった。
「ターニャ、あなたは戻って他の人々をここに呼んできてください。」
「え?じゃあ、お姉さんは…」
「私はこの中に入って、優司様を探してみます。」
「は…でも…お姉さん、お姉さん!」
レベッカが剣を抜き、素早く通路の中に入っていった。
***
優司にもらった懐中電灯を手に握り、ボタンをカチッと押すと、辺りの風景が目に入った。
「やはり…」
中に入るほど、死んだアントウォーカーが目に入った。
坂本優司がアントの洞窟の中に入ったのだろうというレベッカの良くない予感が、的中した瞬間だった。
「どうして一人で入られたんだ…?」
いくら殺虫剤がよく効くとはいえ、ダンジョンの中では何が起きてもおかしくない。
特に、モンスターは環境への適応が早い生き物たち。
殺虫剤を撒いたとしても、この中に彼が撒いた殺虫剤が効かないアントがいるかもしれない。
だからこそ、相当な実力者たちもダンジョンに入れば、一人では行動しない。
カチッ。
懐中電灯をあちこちと照らしながら、ひたすら前に進んでいったレベッカ。
どれほど歩いただろうか。
レベッカの目の前に、先ほど入った大きな洞窟が見えた。
そして、その中央と言える場所。
巨大なクイーンアントが下半身を失ったまま死んでおり、その近くに、アントではないものが横たわっていた。
「これは…」
まだ切り口から酸性の液体を撒き散らしているそれは、他ならぬアントの幼体。
鼻を塞いだレベッカが、アントの幼体を避けて慎重に中に入っていった。
どれほど入っただろうか。
何か大きな塊が見えた。
クイーンアントの上半身はすでに見ているので、それはクイーンアントではなかった。
もう少し近づいてみたレベッカが、口を塞いでその姿を見つめた。
「ゆ…優司様…」
坂本優司が横たわっていた。
そして、横たわっている彼を、正体不明の毛の塊が覆っていた。
まるで、彼が傷つかないように守るかのように。
***
目を覚ました。
正面にはダンジョンの天井が見えると同時に、濃い木の燃える匂いが鼻の中に入ってきた。
首を回すと、焚き火の前にレベッカさんが座っており、アニエスさんが俺を治療してくれていた。
痛む場所に伝わる暖かい光に、俺は長く息を吐き出した。
「助けてくださって、ありがとうございます。」
「静かにしてください。今、集中しないといけないので…」
「分かりました。」
幸い、ターニャ一行は戻らなかったわけではなかったようだ。
でなければ、アニエスさんがここにいるはずがない。
「他の二人はどこへ?」
「あ、それが…」
「今、優司様が倒したアントたちの材料を採取するために、通路の中に入っています。」
「二人だけで送っても大丈夫なんですか?」
「私が中に生きている者がいないことを確認したので、大丈夫でしょう。」
「そうですか…」
レベッカさんがそう言うなら、そうなのだろう。
俺が倒しきれなかった者たちも、レベッカさんが片付けてくれたはずだ。
「お二人、ありがとうございます。」
「感謝は、ひとまずダンジョンを抜けてから、報酬で受け取りますから。」
「はは…」
報酬で受け取るだなんて。
一体、どれだけ金をさらに要求しようというのか。
「あ、そういえば…ハルはどこに?」
考えてみれば、ハルを忘れていた。
奴は俺よりもっと多くの傷を負ったはずなのに、急いでいない俺よりもハルを先に治療するのが…
「あの…優司様。」
「はい?」
レベッカさんが、焚き火をトントンとつつく。
「あまり悲しまずに、聞いてください。」
「悲しまずに…ですか…?」
「ハルは…優司様を守って…命を落としました。」
ダラッ。
積み重なって、勢いよく燃えていた丸太が崩れる。




