第37話
第37話
最初に目を開けた時、真っ先に気になったのは、時計の秒針が刻む音だった。
目の前に見えたのは、フリル付きのベッドの天蓋。
パチパチと暖炉が燃える音と共に、何とも言えない心地良い香りが鼻先をくすぐる。
上体を起こした。
部屋の天井にはシャンデリアが吊るされている。
左右には曲線的なフォルムに金縁が施された箪笥や棚などの家具が置かれ、壁際にある机の上にはインクと羽ペン、そして羊皮紙の巻物がいくつか置かれていた。
パン、パン、パン――
何かをはたく音に視線を向ける。
黒いドレスの上に白いエプロン、頭にメイドキャップを被った女性が、せっせと部屋の隅をはたきで叩いていた。
「(なんで俺がこんなところに…)」と最後の記憶を辿り、自分がアウルア家の屋敷の前で倒れたことを思い出した。
「あ…」
俺が小さく声を漏らすと、メイドが振り返ってこちらを見た。
そして、にこりと微笑んだまま近づき、頭を下げる。
「ようやくお目覚めになられましたか。少々お待ちください。ただいま主人様にお知らせしてまいります」
「あ、はい…」
主人様というと、エレシアさんのことだろうか。
いや、エレシアさんにも両親がいるだろうから、おそらくエレシアさんの父親のことだろう。
「はぁ……」
ズキズキと痛む頭を押さえ、再びベッドに横になった。
今、俺がアウルア家の屋敷に寝かされているということは、幸いにもエトロスが無事にアウルア家に保護されたということだ。
そうでなくても、俺が気絶していた間は、少なくとも一時的に保護されているはず。
状況がどうなっているのかは、アウルア家の当主に会えば分かるだろうが。
(めまいがして死にそうだ…)
少し休んだくらいで風邪が簡単に治るはずもない。
インベントリを開いてもう一度薬を取り出して飲もうかと思ったが、すぐにインベントリを閉じた。
薬は多ければ多いほど良いというより、過ぎたるは猶及ばざるが如しだ。
たくさん飲んだからといって早く治るものではない。
薬を飲んだ後は、とにかく休むことだけが、病を早く治すための一番の近道なのだ。
結局俺が倒れたのも、風邪をひいたのにまともに休まなかったせいだ。
「体調管理は、しっかりしておかないとな…」
今でこそ、小屋の近くで倒れてもレベッカさんがいるから看病してくれる人はいるが、もし領主様が俺から監視役を外して一人で暮らすように放っておいたら、もう俺を看病してくれる人はいなくなる。
そうなったら、一度病気にでもかかれば孤独死だ。
異世界でスローライフを楽しもうとして孤独死するなんて、それ以上に笑える状況はないだろう。
額に手を当てた。
アウルア家の人々が看病してくれたのか、熱は少し下がっていた。
これくらいなら、おそらくアウルア家の当主様と話せるはずだ。
(どんな人だろうな…)
エレシアさんの父親だから、きっとすらりとした体型の人ではないだろうか。
顔もイケメンだろう。
もし、俺の正体を暴こうとしたらどうしようか?
そうなったら、さっさと逃げ出さなければならないか。
頭の中に色々な心配事が浮かび上がって、また熱が上がってくるような気がする。
(ダメだ、ダメだ)
ひとまずは考えるのをやめて休もう。
少しでも熱が下がるように。
コン、コン。
目を閉じてから間もなく、ドアをノックする音が聞こえる。
ベッドから足を下ろして立ち上がると、軽いめまいがした。
ギィィ――
俺がベッドから起き上がるやいなや、三人の人が中に入ってくる。
エレシアさんとエトロス、そして先ほど出て行ったメイドとはまた別の、鋭い目の上に眼鏡をかけ、黒いボブヘアーを後ろに流した、気の強そうなメイド。
ネルさんだ。
「優司さん!」
エレシアさんが心配そうな顔で俺に駆け寄ってくる。
「お体は?大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
大丈夫ではないが、心配させ続けるわけにもいかないので、ひとまずは嘘でも大丈夫だと答えることにした。
エレシアさんは胸をなでおろして安堵した。
「びっくりしました。私は優司さんが死んでしまったのかと…」
「死ぬだなんて…」
「そ…そうじゃないですか?急に屋敷の前で優司さんが倒れて、動かなくなってしまわれたので…」
怖い。
冗談でも、そんなことは言わないでほしい。
「本当に大丈夫なんですか?」
「はい」
心配するエレシアさんを安心させた。
エレシアさんの姿は、いつもとはかなり違っていた。
普段は白いブラウスに長い青いスカートを履いているが、屋敷の中ではドレスを着ている。
彼女の瞳より少し薄い、空色のドレスを。
普段は高貴な家のお転婆な少女という感じだったが、ドレスを着ている姿を見ると、かなり違和感がある。
パキッ――
何か折れるような音がネルさんの方から聞こえ、エレシアさんは恥ずかしそうに俯いて俺を見上げた。
「なぜ、そんな風に見るのですか?私の格好、おかしいですか?」
「いえ、そうではなくて…」
気まずそうに笑った。
「外で会った時とは、雰囲気が少し違うなと思いまして」
「外で会った時は、どんな雰囲気でしたか?」
「外で会った時はお転婆な感じでしたけど、ここで見ると…」
「コホン!」
ネルさんが大きく咳払いをして俺の言葉を遮り、扉の方へ歩いて行く。
「主人様がお待ちですので、お話はそこまでに」
その言葉に、エレシアさんは気まずそうに笑い、彼女の後をついて歩いて行く。
「兄さん」
最後まで残っていたエトロスが俺を見つめる。
「ん?」
「僕のせいで…すみません…」
今にも泣き出しそうな顔をしているエトロス。
俺はエトロスの頭に手を置いて撫でた。
「君のせいじゃない。俺が体調管理を怠ったせいだ」
実際にそうだ。
昨日、リビングの窓さえきちんと閉めて寝ていれば、こんなことにはならなかった。
「本当ですか?」
「ああ。さあ、遅れるぞ。早く行こう」
エトロスが袖で涙を拭い、頷いた。
***
初めて訪れた貴族の屋敷は、驚きの連続だ。
以前に見たマルノフ商団のギルドハウスは、かなり高級な会社の建物のようだったが、ここは金持ちのヴィラといった感じだった。
基本的に内装は、何の鉱石か分からない滑らかな鉱石で全て作られており、天井にはシャンデリア、床には青いカーペットが埃一つなく長く敷かれている。
窓の外には入り口が見え、入り口の広い庭園では、数多くの庭師たちが庭木の手入れをしていた。
「どうです?うちの屋敷は」
「え?」
エレシアさんが笑いながら俺に尋ねる。
「他の屋敷に比べたら、かなり見劣りする方ですけど、それでも悪くないでしょう?」
「見劣りするですって?俺の小屋に比べたら、天と地ほどの差がありますよ」
これが見劣りするなら、俺の小屋は一体何なんだ。
犬小屋?
いや、犬小屋よりは水槽が正しいかもしれない。
エレシアさんは面白そうにクスクスと笑う。
「優司さんが他の貴族の屋敷に行ったことがないからですよ。他のところに行ってみれば、うちの屋敷がどの程度のレベルなのか、すぐに分かりますから」
「そうなんですか?」
俺が見てもかなり大きな屋敷なのに、エレシアさんが小さな屋敷だと言っているのを見ると、他の貴族の屋敷はジェルノータ城とでも同じくらいの大きさなのだろう。
(まあ、行くことはないだろうけど)
知っている貴族といえば、エレシアさんとレベッカさん、それに領主様くらいのもので、こちらから訪ねて行くようなことはおそらくないだろう。
「着きましたわ」
前を歩いていたネルさんが扉の前で止まり、振り返って俺たちを見る。
「優司さん」
「はい?」
「中に入ったら、まず父上に挨拶をしてください」
初対面で挨拶するのは、人と人との間で当然すべきことだ。
それに自己紹介まで加われば、なお良い。
「ご心配なく」
元の世界で、俺が会社に入社して初めて取引先の会議室の前に着いた時の気分が、今感じられる。
「ふぅ……」
しかし、ここで緊張する必要はない。
俺は別に取引に来たわけでも、何か悪いことをしたわけでもないのに、緊張する理由があるだろうか。
(自然に振る舞うんだ、自然に)
すでに領主様と会ったことまであるのに、貴族の当主との対面くらい、朝飯前よりも簡単だ。
中に入ったら、何て呼べばいいんだろう?
エレシアさんのお父さんだから…父上?
いや、それはさすがに飛躍しすぎか…
ギィィ――
扉が開き、内部が見える。
広い部屋、中央にあるソファに一人の男が座って本を読んでいる。
一枚、また一枚とページをめくって読む彼の姿は、気品について知らない俺が見ても、気品が溢れ出ているのが分かるほど高貴に見える。
綺麗に整えられ後ろに流された金色の髪には、所々に白いものが混じっている。
鼻の下の髭は綺麗に整えられ、顔に刻まれた皺から彼の現在の年齢を推測できた。
強さと慈愛が共存した顔は、本を読みながら浮かんだ様々な考えを整理するように眉間を動かしていたが、その姿さえも他の人々には見られない気品が漂っているのを感じた。
しかし、顔とは違って、体つきは俺が思っていたものとは全く正反対だった。
エレシアさんの父親で間違いないのかと思うほどの大きな背丈。
チュニックを突き破るのではないかと思うほど、膨れ上がった筋肉。
拳一発で死んでしまうのではないかと思うほどの体を見て、俺は言葉を失い、ただ見つめるだけだった。
「優司さん…!」
横からエレシアさんが合図を送ると、ようやく我に返った俺は深く頭を下げた。
「お初にお目にかかります、父上!私は…」
「父上、だと?」
タッ――
しまった。
ただ頭で考えただけのはずが、口から滑り出てしまった。
ゆっくりと顔を上げ、当主様を見上げた。
当主が席からゆっくりと立ち上がる。
元の世界で俺も背はかなり高い方だったので、ほとんどの人を見下ろしていた。
しかし、今日初めて、俺は首を上げて人を見上げた。
「誰が貴様の父上だ?!」




