第33話
第33話
「何…何ですか、これ?」
「何って。移動魔法陣よ。」
移動魔法陣という言葉と共に、強烈な光を放つ魔法陣。
あまりにも眩しい光に目を閉じ、腕で目を覆った。
「何してるの?」
「え?」
5秒ほど経っただろうか。
ルアナさんの言葉に目を開けると、俺は目の前の風景が変わっていることに気づいた。
多くの人々が行き交う1階とは違い、今いる階は人が全くいない。
風景は大きくは変わらないが、広い空間が多かった1階とは違い、今いる階は廊下形式で、廊下の一定の距離ごとに扉が一つずつ壁についていた。
そして、廊下の突き当たり。
ルアナさんがドアの前に立ち、恐る恐る耳を当てた。
しかし、それも束の間。
ギイィー
「何だ?!」
ドアが開き、中から、先ほどドアの前で見た男が歩いて出てくる。
「お前たち、とうとう入ってきたのか?!」
「あ、ごめん。」
ルアナさんが、申し訳ないという感情が一つも混じっていない声で、手だけを上げて謝る。
俺がこの謝罪を受けたら、間違いなく怒っただろうが…
「はぁ…」
男はふうっとため息をついた。
「中に入れ。」
「ありがとう~」
男がルアナさんと俺の横を通り過ぎ、魔法陣エレベーター(?)へと歩いていき、俺たちはオフィスの中に入った。
「あ~、面倒くさい~」
一番最初に聞こえた声は、面倒くささにうんざりした声だった。
正面には机が二つあり、二人が椅子に座っている。
ウェーブのかかった長いオレンジ色の髪を肩の下まで長く垂らした二人。
双子なのか、白いフリルのついた緑色のワンピースまで同じだったが、一つだけ違う点があった。
まさに、二人の表情。
一人は半ば閉じた目で欠伸をしながらゆっくりと動いているのに対し、もう一人は目を大きく見開き、目が充血しているのも知らずに素早く手を動かして仕事をしている。
「くっ…」
頭を抱え、何かを一生懸命悩んでいた女性は、やがて席からぱっと立ち上がり、ペンを投げつけ、隣にいる目が半ば閉じた女性に叫んだ。
「エキドナ!あなたも早く仕事しなさい!」
エキドナと呼ばれた、目が半ば閉じた女性は、欠伸をしながら机に突っ伏した。
「面倒くさい~、エテラ。あなたが私の分までやってくれたらダメ~?」
「今、ふざけてるの?!私が今まで、あなたの仕事を何回やったと思ってるの?!」
「でも、面倒くさいんだもん~」
まるで居眠りする人のように、頭を力なくあちこちと動かしていたエキドナは、耳をほじってから、俺たちを見つめた。
「あっ、お客さんだ!」
すると、席からぱっと立ち上がり、俺たちに駆け寄ってくる。
「ようこそ、お二人様~、さあ、さあ。こちらへどうぞ~?」
「エキドナ!」
エキドナは口元を覆い、にっこりと笑った。
「エテラ~、私はお客さんを迎えなきゃいけないから、残りの仕事はあなたがやって~」
今にも悪態をつきそうな様子で拳を固く握ったエテラは、唇を固く噛み締め、神経質に再び席に座り、床にある羽ペンを拾い上げた。
「さあ、お二人様~、こちらへ~」
「あ、はい…」
エキドナが俺たちを連れて、部屋の一角に設けられたソファへと案内する。
「久しぶりね、エキドナ。」
「ルアナ~、久しぶり~」
「最後に会ったのが…半年前だったかしら?」
「そうそう~、あの時、地竜の副産物のことで会ったじゃない~」
「そう、そう。あの時、本当に残念だったわ。ほとんどの分け前をあなたたちが持っていったじゃない。」
「うちのギルドが、それだけ頑張ったんだから~」
エキドナは、前にカップを置いた。
そして、ティーポットを持ち上げてお茶を注いだ。
「これは…」
黒い水。
俺が知っている限り、黒い液体は一つしかない。
「コーヒー?」
ルアナさんのコーヒーかという言葉に、エキドナが満足げな表情で頷いた。
「そう、コーヒー。」
「この貴重なものを…!どこで手に入れたの?」
「私が少し、お金を使ったのよ!」
‘一度、味見してみるか…’
この世界のコーヒーは、どんな味だろうか。
カップを持ち上げ、一口、ごくりと飲んでみた。
「うむ?」
思ったより、悪くない。
香りもそうだし、味もそうだ。
もちろんマキシムよりは劣るが、それでもこのくらいなら、かなり良い豆で作ったブラックコーヒーくらいだ。
「う…苦い…!」
「そりゃ、当然苦いわよ!コーヒーだから!」
「そう?坂本さんが持ってるのは、苦くなくて甘かったけど?」
「坂本?」
エキドナが俺を見つめる。
まるで俺の心を見透かそうとするように、先ほどとは違う深い眼差しで、俺の顔をじっと見つめる。
かなり、鳥肌が立つ。
「そういえば、紹介を忘れてたわね。エキドナ、挨拶して。こちらは坂本さん。坂本さん、こちらはエキドナ・マルノフ。マルノフ商団のギルドマスターよ。」
「こんにちは…?」
俺の挨拶にも、しばらくじっと見つめていたエキドナが、にこっと笑って手を振る。
「こんにちは~、名前がすごく変わってるわね?」
「俺が少し、遠いところから来たので。」
「遠いところ?どこなの?顔を見ると、東方の方みたいだけど…神曜?それとも珠霞国?」
「どちらでもありません…知られていない場所なので、申し上げてもご存知ないでしょう。」
「教えてくれたらダメ~?」
「はい、お教えするのは少し、気が引けますね。」
エキドナが俺の言葉に、残念そうに頬を膨らませる。
「挨拶するわね~、私はエキドナ・マルノフ!ルアナが言った通り、マルノフ商人ギルドのギルドマスター!そして、あの後ろにいる子はエテラ・マルノフ!私の双子の妹で、マルノフ商人ギルドの副ギルドマスターよ!」
見た目がそっくりだと思ったら、やはり双子だ。
「よろしくお願いします。」
「私も、よろしくね~」
そう笑って挨拶をし、エキドナは視線を回し、ルアナさんを見つめる。
「ところで、ここには何しに来たの?それも、約束があると『嘘』までついて?」
エキドナが気になる表情で「嘘」という単語を強調する。
当然と言えば当然の話だ。
エキドナが親しげに振る舞ってはいるが、れっきとした大企業の社長に他ならない。
そんな人を、知り合いという理由で嘘までついて時間を奪っているのだから、気分が良いはずがない。
「ごめんね。『嘘』をついてまで会いに来て。」
「重要なことみたいね~、ムルバスからここまで直接訪ねてくるとは?」
「それがね…」
ルアナさんが俺を見て、顎で指す。
今度は、俺が話す番だ。
しかし、本題を切り出す前に、まず知っておかなければならないことがある。
「あの…エキドナさん。もしかして、モルモス国家商業ギルドについて、どう思いますか?」
「モルモス国家商業ギルド?」
今、俺が話そうとしている話は、かなり厄介な話だ。
特に、この話が漏れでもしたら、俺の命は保証されない。
法がきちんと整備されている元の世界でさえ、暗殺が日常茶飯事で起こるのに、ましてや全ての人が腰や背中に一つずつ武器を差しているこの世界では、もっと起これば起こったで、ないことはないだろう。
ルアナさんなら信頼できる人だから、話しても構わないが、目の前にいるエキドナという人は、俺が知らない。
もしもこの人が、モルモス国家商業ギルドと繋がりがある人なら、俺はかなり危険なことになる。
今回のことは、俺の命がかかっているだけに、慎重に慎重を期さなければならない。
「特に、何も思わないけど?」
「マスター同士で親しいとか…それとも、互いに助け合う関係だとか…そういうわけではないんですか?」
「うん、特に関わりはな…」
「エキドナ…!」
いつの間にか後ろにいたエテラが、エキドナの後ろに歩いてきて、目を大きく見開いて見下ろす。
「エテラ…?」
そして、エキドナの両頬を、力いっぱい引っ張る。
「正気なの、今?!」
「な…何が~!」
「ギルドマスターという人間が、他のギルドとの関係を他人に漏らそうとするなんて!他のギルド員だったら、すぐに追放よ!」
「言…言ってないじゃない~!」
口が左右にぐっと広がり、何かを呟くようなエキドナは、エテラが頬を離すと、痛む頬を撫でながら、涙をぽろりとこぼす。
「あなた、坂本と言いましたね?」
目が少し垂れていて優しそうに見えるエキドナとは違い、エテラがソファに座り、足を組んだまま俺を見つめる。
「はい、そうです。」
「私たちがモルモス国家商業ギルドとどんな関係があるのかについては、どうして聞かれるのですか?もしかして…」
エテラの目から、殺気がほとばしる。
「ジュセフが送ったのですか?」
「あ…違う、エテラ!」
ルアナさんが俺の代わりに手を振る。
「こいつは、ただ村で雑多な物を売る商人よ。絶対にジュセフと関係のある奴じゃない!」
どうやら、マルノフはジュセフと、かなり仲が悪いようだ。
一番良いシナリオは、三つの商団が同盟を結び、モルモスを攻撃することだが、状況を見るに、それは少し難しいようだ。
「それを、私がどう信じるの?」
「なら、私が保証するわ。こいつは絶対に、ジュセフと組むような奴じゃない。」
「ふぅん~…」
エテラが目を細め、顎を撫でると、やがて目を閉じる。
「商人が保証までしてくれるなら、確かに違うでしょうね。もちろん、ルアナがする保証は、信用できるものではないけど。」
その言葉に、ルアナが苦々しい表情で頬を掻き、虚脱したように笑う。
「では、お聞きします。何のために、私たちにモルモス国家商業ギルドについて聞くのですか?」
これ以上、言い逃れするのは難しいようだ。
特に、このエテラという女に、ずっと嘘をつき続けてバレたら、二度と俺の話を聞かない可能性が高い。
元の世界で会社のほとんどの仕事を任されて身についた勘だ。
こんな鋭い性格に嘘をつくのは、蜜を得るためにスズメバチの巣に入るようなものだ。
「どうやら、嘘をつくのは無駄なようなので、申し上げます。」
深呼吸をして、心を固く決めた。
「モルモス国家商業ギルドの勢力を、減らしたいのです。」
その言葉に、瞬間的に静寂が流れる。
エテラ、ルアナさんだけでなく、いつも笑顔と冗談を絶やさなかったエキドナまで、俺を見て口を開けている。
こんな状況で浮かぶ考えは一つだけ。
‘俺、何か間違ったこと言ったか?’
正直、こんな反応が出るとは予想していなかった。
むしろ、話すやいなや、悪態でもつかれると思っていたのに、こうしてじっと口を開けたまま俺を見つめているので、何だか奇妙な気分だ。
「あの…」
「はぁ…」
俺が先に口を開くと、ルアナさんが手のひらで自分の額をぱんと叩き、ふうっとため息をつく。
「ごめんね、みんな。どうやら、無駄に時間を浪費させてしまったみたいね。」
「大丈夫~、そういうこともあるでしょ~」
「ちょ…ちょっと待ってください!」
急いで話を終わらせようとするのを止めると、ルアナさんが肩を組み、歯を固く食いしばる。
「静かにして、本当に。」
そう言うと、ルアナさんは俺の腕を掴んで席から立ち上がる。
「ごめん、みんな。今度、私が一杯ご馳走するから、今回の話はなかったことにして。」
こんな状況からすると、俺は本当に、話を間違えたようだ。
いや、間違えたというよりは、おそらく巨大ギルドに手を出したくないのだろう。
結局、手を出した瞬間に戦争が起こるのは、目に見えているから。
「待って。」
俺を引っ張っていこうとするルアナさんを止める声がある。
他ならぬ、エテラ・マルノフ。
彼女は目を鋭くし、俺を見つめる。
「モルモス国家商業ギルドの勢力を、減らしたいと?」
「ちょ…ちょっと、エテラ。こいつの言葉に、興味を持つ必要は…」
「そうよ、エテラ!坂本の言葉に、興味を持つ必要は…」
ルアナさんだけでなく、エキドナまでエテラを止めるが、どうやら俺の一言が、エテラの心に火をつけたようだ。
「どうして興味を持たないの?ただの一介の市民が、大規模な商業ギルドの勢力を減らしたいって言うのに。」
興味を持った今がチャンス。
俺はルアナさんの腕を振り払い、再びソファに座った。
「はぁ…」
ルアナさんがふうっとため息をつき、再びソファに座る。
「もしや、知らないかもしれないので言っておきますが、今、あなたが何を言ったのか、理解していますか?」
「はい、分かっています。」
知らないはずがない。
一介の個人が、大規模な商人ギルド一つの勢力を減らそうと言うなんて、誰が考えつくというのか。
おそらく、俺しかいないだろう。
「だから、マルノフ商業ギルドに訪ねてきたのです。」
俺の覚悟した眼差しが気に入ったのだろうか。
エテラがにやりと笑い、ゆっくりと頷きながらソファに寄りかかる。
「ひとまず、聞いてみましょう。あなたが何を考えているのか。」




