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第75話「亡失に矜」

「――様、お支度は済みましたか」


 支度?

 支度って、なんの?


「お忘れですか、今日は――――ですよ。あなた様方は来賓の目玉、まさかまた腹が痛いなんて言って抜け出すおつもりじゃあないでしょうね」


 なに、なんの話?

 よくわからないんだけど……。

 っていうか、ここはどこ?

 なにかの部屋……なのか?

 白くモヤがかかっててよくわからない……そもそも君は誰なんだ?


「誰……ハァ、今度は記憶喪失のフリですか? いい加減にしてください。俺はシンスォール、ガイア様よりあなたの護衛を任されている――」


 ガイア!

 そうだ俺、ガイアと海に落ちたんだ!

 ガイアは?

 アイツはどこに……!


「落ち着いてください。ガイア様はすでに身支度を済ませておいでです」


 身支度……?

 なんでそんな……。

 

「なんでって……まさか本当に記憶が?」


 記憶ってなんだよ、俺は正常だ。

 ガイアのことも、自分になにが起こったかもハッキリしてる。


「そうは見えませんね。一度医者に行きましょう、遅刻は俺が主催へ通達しておきます」


 やめろよ!

 医者なんていいから、早くガイアに!

 

「いいはずがないでしょう、ならばなぜ」

 







 

「ご母堂を呼び捨てに?」













 


 

 冷や水をかけられたように、瞬間的に目が覚めた。

 頭が痛い、心なしか地面が揺れている気がする。

 目の前では眩いライトが照り輝いているし、耳はワタでも詰めたみたいに籠って使いものになりやしない。

 ここはどこか、今はどのような状況か、そう思って起きあがろうとしたその時。

 耳の籠りも突き破るような大声で泣き喚く何かが、俺の体に勢いよくのしかかってきた。

 腹部を強く圧迫され、また飛びかける意識を無理やり引き戻す。

 正常に戻った耳でよく聞けば、実に聞き慣れた泣き声であることに気が付いた。


 

「あああああああしんじゃうがどおもっだああああ!!」


「わかった……わかったから……一旦退いてガイア……本当に死にそう……」



 死ぬわけないだろと思いつつ、窒息しそうだったのは事実。

 起き上がり、やっと見えたガイアの顔は案の定真っ赤だった。



「大丈夫? ボクのことわかる? 見える?」


「ああ、よく見えるよ。なんか変な夢見てた気がするんだけど、思い出せないっていうか――あったまいてー……」


「夢なんてそんなものだろう。病み上がりで無駄に頭を使う必要もない」



 俺とガイアの会話に、突然割って入った低い声。

 その方向を見ると、積み上げられた樽の一つに力強く腰掛ける、見知らぬ男が1人。

 いや、今の今まで気が付かなかったが、俺の周りには数名のヒトが集まっていた。

 服装を見るに、おそらくは鎧銭人。

 皆それぞれいかつめの特徴があるのだが、樽に座る男のそばに立つ青髪の男とその周りの数人だけは格好が異質だった。

 男は古代ギリシャのような白く短い丈の服に、水の流れのような曲線の目立つ青い鎧を身につけている。

 凛々しい眉毛を顰め、黙ったままでこちらを心配そうに見つめている。

 


「あ、あのぉ、失礼ですがどちら様でしょうか……」


「ん? 俺の名が知りたいのか?」



 樽に座っていた男はそう言って勢いよく立ち上がると、照明の下で、鍛え抜かれた自身の立派な胸を張る。



「姓は梵蛇(ハンダ)、名は邑仁狼(オウジロウ)。武闘派任侠組織 黄金錦組の現若頭であり、海に愛された仁義の男だ」


「こがっ……!?」



 黄金錦組!?

 なんてこった、またヤクザに取っ捕まったってのか!?

 よく見れば、周りに佇む野郎どものはだけた服の裏から、うっすら刺青が見える。

 俺は咄嗟にガイアを抱き寄せた。

 武器はジュリアーノに預けたまま、今頼れるのは拳だけか。



「待って待って待って! 違うよ賢吾!」



 ガイアがそう叫び、俺の腕から抜け出す。



「このヒトたちは悪いヒトじゃないの! ボクらを助けてくれたんだから!」


「え?」



 助けてくれた? ヤクザが俺たちを?

 でもそんな……あ、そうだ俺、海に落ちて……。



「助けたって……海から引き上げて……」


「無論」


「あ……あの、ありがとうございました。あと、すみません……」


「ハハ、気にするな。こんな家業だ、疑われても仕方あるまい」



 随分失礼なことをしてしまったはずなのに、梵蛇さんも周りの伊達男たちも笑っている。

 豪快なヒトには少々苦手意識があったが、なんでも笑い飛ばせるその姿勢はとてもありがたいし、尊敬に値する。



「気分は?」


「大丈夫。でもちょっと倦怠感というか熱ってるっていうか、熱っぽい感じが……風邪ひいちゃったのかもな」


「吸収熱だろう。怪我が治癒に近づけば自然と引く。それまでは寝て安静にするのが最善だ」


「え、でも俺そんな大きな怪我は――」



 言葉を発し切る寸前、唇を噛み締めて俯くガイアが視界に入った。

 なんだよ、そんな顔して。

 不死身の俺にとっては致命傷などもはや存在しない。

 痛みはもちろん動きも鈍くなるが、土手っ腹を貫かれようが頸動脈を掻っ捌かれようが、全ては治るのを待つだけの代物でしかない。

 俺は自分の体を上から順に触って、確かめた。

 いまさらショックなんてない。

 どんな大怪我だとしても、待ちさえすれば治るのだから。



「あ……」



 腹を触って、目線が下がったその時に、嫌な汗がうなじを流れた。

 布団の盛り上がりが小さい。

 厳密にいえば、俺の下半身の丈に足りていない。

 力の上手く入らない右手で、ゆっくりと掛け布団をはいだ。


 脚って、どんな形だっけ。

 まず太ももがあって、膝があって、脛とふくらはぎがあって、足があって、指があって。

 あれ。



「ぁ……あ、あ、あし! あし! 脚っ! 脚がっ!! ぁあ脚がぁ!!!」


 

 喉が引き攣ってうまく息が吸えず、詰まり詰まりに吐き出す絶叫と吐き気にも似た気分の悪さで、俺は卒倒しそうだった。

 その衝撃に恐怖すら覚え後退りしようとするも、右の脚は関節すらないので、その姿はさぞ無様だっただろう。

 ガイアが俺を抱きしめ、名を呼び、「落ち着いて」となだめる。

 おかげで呼吸は幾分かマシになった。


 だがそれでも、目の前の光景を受け入れることができない。

 腰から生える両の脚。

 左右共に太ももから下が全てなくなっており、傷口には青白い文字の刻まれた包帯が巻かれている。

 恐る恐る、触ってみた。

 感触はある、だが痛みは全くない。

 まさか……壊死してたりしないよな!?


 引き攣った顔で脚を突っついていると、青髪の男が近付いてきて、俺の横にゆっくりと跪いた。



「荒ぶった波と船の残骸に流されて、君の下半身は海底の岩礁に挟まっていた。血の匂いに集まった肉食の魚や蟹たちが啄んで――一応回収はしたが、見ることはお勧めしない」


「食いちぎられた……ってことですか……?」


「いや。岩に挟まれたことによる鬱血で、ほぼ壊死に近い状態になっていた。加えて筋組織や神経が激しく損傷していたため、やむなく切断した。すまない」


「いや、あの、ありがとうございます……。命の恩人です、むしろ……」



 彼の判断はもっともだ。

 彼は俺のことを普通の人間だと思っているだろうけど、もし治ったとて、傷口が長時間海水に晒されたのだから、感染症のリスクがある。

 だから、そんなに申し訳なさそうな顔をしないでほしい。

 あなたの判断は正しいんだ。



 その後俺は船員から暖かい茶を一杯もらい、心を落ち着かせてから詳しい話を聞いた。

 俺の体は海底の岩礁に挟まっていたが、ガイアはいち早く抜け出して海上で助けを探していたらしい。

 その様子をこの船、冠神丸(かんがんまる)の船員が発見し、救助に至ったとのこと。


 結構な時間を荒波に揉まれていたので、肩に下げていた鞄の中身は見事にぐっちゃぐちゃ。

 だが幸いなことに、崩季さんの魔法薬はなんとか無事だったし、トトから貰ったリストに至っては少しインクが滲んだだけでほぼ無傷。

 きっと俺がドジ踏むことを見越して、水に強い羊皮紙とインクを使ってくれたんだな。

 先見の明が凄まじいよ。

 

 今回の原因を作ったのは、凱藍近辺の海に住む神獣一目連(イチモクレン)の仕業。

 俺たちの船を襲う前にこの船を襲い、青髪の彼が追っ払ったのだという。

 その際、魔術で半ば無理矢理吹き飛ばしてしまったため、一目連が激怒し、奴の魔術で巨大な嵐が巻き起こってしまった。

 それを自分の責任だと思って、青髪の彼はあんなに浮かない表情をしていたのだ。



「だがどうか、一目連を恨まないでほしい。彼はシャンバラの毒に身を蝕まれ、耐え難い苦痛の中で自我も保てず苦しんでいるんだ。だから――」


「大丈夫ですよ。毒を患ったらどうにもできない、わかってますから」

 


 毒災の爪痕は未だ根深い。

 それはミフターフで痛感した。

 梵蛇さんや船員たちは俺が一息ついている間に皆持ち場に戻ってしまったので、これらのことは全て彼が話してくれた。

 名はトリトンといい、黄金錦組の構成員ではなく組との商業取引のために同乗した外国の要人らしい。

 トリトンといえば、俺の世界じゃ海神ポセイドンの息子としてそこそこ有名だが、何か関係があるのだろうか。



 それから数日の間、俺はガイアの介抱を受けながらほぼ寝たきりで過ごした。

 両脚が無いために出歩くことが叶わないというのもあるのだが、何より熱がなかなか下がらなくて、夜は発熱と眩暈でなかなか寝付けないこともしばしば。

 傷口を治そうと細胞が分裂しまくっているのだろう。

 俺の場合それが常人の倍以上の速さだから、体力の消耗もそれだけ激しい。

 加えて運動不足と慣れない生活のストレスで免疫が落ちて、おそらく普通に風邪も引いている。

 こうなるとメンタルまで不安定になってくるのだから、人間とは実に脆弱な生き物だ。



「ハァ……なんでこう、みんなとはぐれちゃうのかな、俺って」


「まーた言ってる」


「だってさァーあ、アウローラじゃ魔物の巣に引き摺り込まれて、ミフターフじゃ誘拐監禁されるし、今度は船から放り出されて遭難……」


「生きてればハッピーでしょ? 今回はボクも一緒なんだし」


「まあ……でも心配だよ。ジュリアーノと経津主、もう鎧銭着いてんのかな。ベルが待ってるのに……みんな万套会に捕まってたらどうしよう……」


「そんなに心配しなくても大丈夫だって。ベルには龍兵さんたちがいるし、ジュリアーノたちならきっと上手くやってるよ」


「そおかなぁ……」



 1日のほとんどは寝ていたが、それ以外の時間はずっとこんなテンションで会話をしていたと思う。

 俺の愚痴を聞きながら看病してくれたのだから、ガイアには感謝をしなくてはいけない。

 目を覚ますと隣に座っているか寝ているかで、必ずそばにいた。

 熱冷ましの布を洗う水を取り替える時以外は、多分ずっと一緒にいたんじゃなかろうか。



「命の神の権能みたいなのでさ……脚生やしたりできないのぉ……?」



 発熱がひどくて一晩中うなされていた時、勢いでこんなことを訊いた。



「今のボクには、生命そのものやその大部分を作り出すことは許されてないんだ。ごめんね」



 俺の額に手を当てて生命力を注ぎ込みながら、ガイアはそう言った。

 「許されていない」ってなんだろう。

 ガイアにも従わなきゃいけない()()のようなものがあるだろうか。

 その時はひたすらに頭が痛かったので、そこまでしか考えなかった。




 そこからさらに1週間が経ち、熱もすっかり下がった頃。

 俺は組員におぶられて、久しぶりに陽の光を浴びた。

 少々不穏な雲がちらほら浮かぶ青空の下で、しょっぱい匂いを肺いっぱいに吸い込むと、目の前の海にうっすら島が見えることに気がついた。

 あれは鎧銭だと、梵蛇さんが教えてくれた。

 真緑の中にちらほら顔を出す桜色の斑点を見ると、故郷でもないのにえも言えぬ懐かしさを感じる。



「着いたら組に行くぞ。なに、皆気のいい連中だ、身構えることはない」


「ありがとうございます、本当に、何から何まで」


「お前たちを救助すると決めたのはこの俺だ。少なくとも、歩けるようになるまでは面倒をみよう」



 鎧銭へ着いたら、トリトンさんが職人へ義足を注文してくれるらしい。

 出来上がるまでは文字通りおんぶに抱っこ……この世界って車椅子とかあんのかな?



 港へ着き船を降りると、2人の伊達男が俺たちを迎えた。

 出迎えの組員だろうか。

 伊達男が「おかえりなさいませカシラ」と腰を落として深くお辞儀をすると、梵蛇さんは「ご苦労」と言って笑い、2人の背中を強めに叩いた。

 だいぶ痛そうな音がしたが、2人とも眉を顰めるどころか笑顔で彼の荷物を受け取っている。

 慕われてるんだな、きっと。


 積荷をおろして数台の荷車に乗せると、すぐに港を出発した。

 先頭の梵蛇さんたちを追うように連なる荷車の列の最前に、俺とガイアはちょこんと座り、ゆっくり過ぎていく町並みを眺めた。

 彼らが黄金錦組ということは、ここはおそらく本島の北西側。

 貿易の拠点となる港町、伝統的な文化色は南東側に比べ濃い印象だが、少々発展が遅れている様子も見受けられる。

 しかし活気は負けず劣らず、むしろ夜の常夜泉町並みに賑やかなまである。

 こういう町のおっちゃんおばちゃんはちょっと苦手だけど、見てる分には面白いんだよな。


 しばらく歩くと、町の中心から少し外れた辺りで巨大な日本家屋の前に着いた。

 瓦葺きのデッカい大門、流木をスライスしたようなデッカい表札に菱形の大門をバックに記された「黄金錦組」の文字があり、2人の門番がその手前に仁王立ち、睨みを効かせる。

 まさしく映画や漫画で見るようなヤクザの事務所そのものだ。


 門をくぐると、これまた立派な寝殿造が堂々と鎮座していた。

 こんな建物、教科書でしかみたことがないぞ。

 壮大さに驚き瞳を右往左往させていると、白い砂利をザクリザクリと草履で踏み歩き、こちらへ声をかける者がいた。



「おー、梵蛇ァ。生きて帰ったかァ」



 俺が気付いたと同時、組員が一斉に頭を下げる。



「お疲れさまです、親っさん。最強で最高の右腕、ただいま戻りました」


 

 親っさん……ってことは、彼が。



「ン、お疲れ。みんなもお疲れさん。――と、おや、トリトンさんやないですか。遠路はるばるようお越しくださいました。黄金錦組の組長やらせてもろてます黄金錦宵一(コガネニシキ ヨイチ)と申します、お会いできて光栄です」


「黄金錦さん、こちらこそお会いできて光栄です」


「立ち話もなんです、よければ上がってお茶でもどうですか?」


「いえ、今日はご挨拶に来ただけですので。この後も少々用事が」


「そうですか。ほなまた後で話しましょ」



 随分理性的な社交辞令だ。

 東はあんなに血気盛んだったのに。



「おやァ……?」

 


 男の視線が俺を向いた。



「こりゃまた珍しいお客さんやないけェ。えらい大変な目におうたみたいやねェ――もしや、ウチのモンがなんや粗相を?」


「い、いえあの、むしろ助けてもらったっていうか……」


「親父、俺が説明しますよ」

 


 割って入った梵蛇さんがことの経緯を話す。

 あの男、先程の会話の内容と皆の態度から察するに、やはり黄金錦組の組長。

 名前は確か、「黄金錦宵一」って言ってたよな。

 ターコイズブルーの短くすいた髪にガーゼの眼帯をつけ、黄土色の着物を身に纏っている。

 薄く感情の読みずらい瞳の傍に、若干のクマと皺が見える。

 外観は30代前半から40代手前ほど、鎧銭人ってことはもっといってそうだな……大きく見積もって50代か……西部一の極道組織の組長が?

 そう考えるとずいぶん若いな……。



「……そうかそうか。大変やったなァ僕。けどもう大丈夫やで、いい闇医者つけたるから安心しィ。嬢ちゃんもご苦労やったねェ」



 宵一はそう言うとゆっくりしゃがんで、ガイアの頭を優しく撫でた。

 腐っても極道ということで警戒していたけれど、案外いい人なのかもしれない。

 できれば正規の医者がいいです……とは言えない、な。




 




 

 



――鎧銭・深堤医院――


 夏晴れに日も真上へ登ろうという頃、万套会傘下の闇医者深堤医院は騒然となっていた。

 入院中の構成員の見舞いに来た幸代とベルはその様子に驚いて、とりあえず一際声が大きく目立つ者、吉松を捕まえて事情を訊いた。



「あ、姐さんっ! 龍兵が! 龍兵が! もうえらいこって!」



 オロオロとおぼつかない口ぶりで説明をする吉松の頬を、幸代は思い切り引っ叩く。



「いっかい落ち着きなさい! 龍兵がどうしたの!」


「ずびばぜん……龍兵がおらんぐでぇ……アイヅ抜け出じおったんでずぅ……」


「!!……あの子ったら……」



 幸代は頭を抱え、護衛と吉松と共に病院の中へ入っていく。

 ベルは1人、病院の表に取り残されてしまった。

 皆の言うことはなんとなくだがわかる。

 怪我で療養中だった龍兵が、絶対安静を無視して病室から抜け出した。

 理由は明白、東条の仇討ちである。

 ベルは龍兵に用事がある。

 だから幸代に着いて、彼の見舞いに来たのだ。


 皆が「まだ遠くへは行っていない」と病院周りを捜索する中、ベルは大通りを超えた裏道の方まで走っていった。

 確証はない。

 けれどなにかその方角にいそうな「におい」がして、ほぼ直感に近いけれど、感覚に従いひたすら走った。

 するとまさしく目指した路地の中に、龍兵はいた。

 薄暗く、日の当たらない細道を、右手にドスを握りしめ、確かな足取りで踏み締める。

 肋の骨もくっついていないというのに、その歩みはただただ冷たく真っ直ぐだった。


 ベルが声をかけると龍兵は振り返り、驚きの声を上げた。



「……探しに来たのか、俺を。悪ィがよ、行かねぇとなんだわ」



 そう言い、また歩き出した龍兵。

 ベルはそのジャケットを掴み、引き留める。



「これ」



 そう言って、彼女は今までずっと傍にひしと握りしめていた、1本のドスを差し出した。

 龍兵が受け取り引き抜くと、緑色に輝く刀身が御罤杉の鞘から顔を出す。



「こりゃ――東条兄貴のか」


「ごけいがね、いってた。りょうへいさんは みずきのこがい だったから、これは りょうへいさんが もってるのが いいって」


「親っさんがンなこと……子飼い、ねぇ」



 龍兵は数秒眺めると、ふとため息をひとつ漏らして、刃を鞘にしまった。

 そして「これはお前さんが持っときな」と言って、屈んでベルへドスを返した。



「いいの?」


「ああ。ソイツは兄さんがお前を守るために託したモンだ。だから持っときな。ギベオンの連中に追っかけられて、大変だったんだろ? 自分の身くれぇは自分で守れるはずだ」


「うん」


「そんな顔すんな。俺にはコイツが着いてる」



 龍兵は右手のドスを引き抜き、見せた。

 血と汗の染みた柄から伸びる銀色の刀身は、刺す光の角度で微かに青みがかって見える。



「この()は俺を守って死んだ舎弟のモンだ。深堤仁(ミツツミ ジン)ってんだが――まあ、覚えなくてもいい」



 ベルは、どこかで聞いた名前だと思った。



「かわいい奴だったよ。ずっと後に着いてきて、俺の言うことは信じて疑わなかった。今思えばありゃ盲信に近かったな、そのせいで……色々大変だった」


「かたき、とった?」


「もちろんさ。身内がやられて黙ってちゃ、男を張ってる意味がねぇ」



 龍兵は刀身をしまい、立ち上がる。



「さ、帰んな。危ない目にゃ遭わせねぇって、ケンゴらと約束しちまったからな。もっとも、もう遭っちまってるんだが」


「みずきのかたき?」


「ああ」


「みずきは よろこぶの?」


「多分な、あの人は優しいから。だが勝てば舎弟の成長を喜んでくれるだろうよ」



 そう言って龍兵はジャケットを直し、元の方向に振り返った。



「着いてくんじゃねぇぜ。絶対にな」



 龍兵の声は低く、どこまでも重かった。

 薄暗い道を真っ直ぐに歩くその姿は、成人男性の平均にはおよそ届かない背丈。

 面子が命の任侠者には、とても厳しい体躯と言えよう。

 だがその背中には、路地裏がよく似合った。

 先に見据える己が命の理由か、はたまた背負ってきた業故か。

 何にしろ、彼の決意が揺るぎないことは明白だった。


 それはベルにも伝わった。

 だから彼を止めることはなかった。

 ベルはもう一度、ドスを引き抜いてその刃を見つめる。

 緑の刃に反射する真っ赤な瞳。

 ベルは刀身をしまうと、龍兵と同じ方向へ歩き出した。

 

 薄暗い路地の中に、硬い足音が2つ響く。

 彼の後を続くベルに、龍兵は全く気が付いていない。

 彼にはもう、前しか見えていないのだから。

梵蛇邑仁狼

挿絵(By みてみん)


黄金錦宵一

挿絵(By みてみん)

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異世界転移
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