第67話「ベルとヤクザとシュークリーム」
古びた集合住宅の一角。
雨漏りがひどく壁も薄い上に扉という扉全ての立て付けが悪く、開閉や歩く度に不快な高音が鳴る。築50年近くなるこの建物は、その不便さがゆえにほとんどの住人が新居へ引っ越し、遂には残る者もただ1人となった。
隣人がいないのをいいことに、昼でも夜でも時間さえあれば酒瓶片手に押しかける友人2人に龍兵は辟易しつつ、外で騒がれては困るとの建前をつけ、満更でもなさそうにいつも家に上げるのだ。
だがここ最近は、押しかける2人の持ち物が少し違った。いつもならば吉松が一升瓶を、木村が肴を持参して来るのだが、ここ数日はジュースやお菓子に流行りのボードゲームなど、いかにも子供の喜びそうなものを持って来るようになった。
理由は明白。この酒臭く寂れた家の中に、一時的だが新たな住人が加わったからだろう。
「また四やん。あかんわ、縁起悪いでこのサイコロ」
「お前の運が悪いだけだろそれ」
「いーや、絶対何かあるわ。こない連続で続くことあらんやろフツー……あー!!ほらまた一回休みやーー!!」
「だから運が悪ィって言ってんだろ。ほら、お前次」
そう言って龍兵はサイコロをベルに渡す。
ベルは金平糖ほどの小さなサイコロをじっと見つめると、何も言わずに床へ放り投げた。
「あ〜一かァ。まあまあ、そんな日もあらァな」
そうは言いつつも、吉松はどこか安心した様子であった。
ベルはコマを一マス動かすと、隣の木村へサイコロを渡す。
木村はそれを受け取ると、手のひらで回すように何度か握って転がした。
「お前ェ、チンチロじゃねェんだぞ……」
「悪ィ、癖だわ。あ、六」
「はァ゙ー!?!?」
吉松の金切り声に3人は顰めっ面で耳を塞いだ。
そんな様子もお構いなしに、彼は青筋を立てて木村へ掴み掛かる。
「お前ェコラ!イカサマやろコレェ!!3回連続六とかありえへんわ!!」
「ウルッセェなァ。手前ェの運が悪いからって八つ当たりすんじゃえねェよ。唾飛んでンだよきったねェな」
「女子の前で情けねぇ争いしてんじゃねぇよ。ガキかお前ェら」
「やかましいわ。そもそもそのタレサンが胡散臭いねん。風呂入る時くらい外せや、かっこええ思とるんかワレコラ」
「おーーそれ言うか伊賀の出涸らしよ。栄治くん怒っちゃったもんね」
「上等じゃゴラァ。表出ろやハゲタコォ!!」
青筋を立てて互いの胸ぐらを掴みガンを飛ばし合う2人に、龍兵は重くため息を吐く。
ベルは状況が理解できず、いがみ合う2人を交互に見て険悪な雰囲気をなんとか察知すると、空になった2人のコップにジュースを注いで差し出した。
と、その時。
玄関扉の奥から、古びた木製階段をガツンガツンと乱暴に踏み締める音が聞こえてきた。
いち早くそれに気が付いた龍兵が「おい!」と叫ぶと、吉松と木村はすぐに事態を理解し、畳に広がったすごろくやお菓子を早急に片付け始める。
またも変化した状況に理解が追いつかず、両手にジュースを持ったまま3人を交互に見るベル。
龍兵はそんな彼女の腕を冷や汗を流しながら引くと、押入れの戸を開けて中に入らせ、
「かくれんぼだ、いいって言うまで出てきちゃダメだからな。絶対だぞ。声も出すんじゃない、あとなるべく動くな」
と早口で捲し立て、戸を閉めた。
それとほぼ同時、慌ただしいワンルームに玄関の戸を叩く音が響く。
龍兵はすぐさま立ち上がり戸に手をかけ開くと、そこには腕を組んだ東条が仁王立っていた。
「あ、兄貴ッ!」
龍兵は即座に姿勢を低くし、まるで引き戸の先に立っていた人物が東条であると気が付かなかったかのように語尾を上げ、驚愕の顔を演出した。
それに続き、吉松と木村も龍兵の後ろからなるべく部屋の様子を隠すように顔を出す。
「お疲れ様でございます。すんません、さっきまで寝こけてたもんで……」
「また非番だからって朝まで酒呑んでたのか」
「ええまあ……」
東条の顔に変わった色はない。
龍兵は呼吸をコントロールして動悸を抑えながら、相手に合わせつつそのまま会話を続けた。
「呼び出しですか?髪整えたらすぐ出ますんで」
「あーいや、今日は俺もやることねぇもんでな。これから飯なんだがよ、奢ってやるからお前ェらも来いや」
「「「え゙っ」」」
3人が濁った声を出す。
東条は3人にとって尊敬の対象に値する人物であり、特に龍兵にとっては渡世のイロハや戦い方を教わった頼れる上司の1人だ。
上司の「飯を奢る」という言葉は極道世界でも基本的にプラスな反応が帰ってくるものであるが、それはまともな上司であればの話。
「め、飯……ですか……」
東条は確かにまともだ。
仕事で失敗を犯しても、耳を削いだり爪を剥がしたりせず、数発の拳だけで許してくれるし、機嫌が悪い時にうっかり話しかけても目潰しなどはせず、鉄拳一つで許してくれる。夏空に次ぐ相対的聖人、それがこの東条瑞騎という男。
だがしかし、彼にも唯一の狂気と言えるものがある。
常軌を逸した後輩への飯の強要である。
いわゆる”無理飯“と呼ばれるものであり、それ自体は若衆の通行儀礼として渡世では珍しくもない。
だが、この東条はあまりにも見境が無く、その上このように暇な際は時折り若衆の家に押しかけては強制的に飯屋へ連行するという、極めて悪質かつ面倒臭い上司なのである。
しかしながら、極道の世界において上の言うことは絶対。当然龍兵たち3人には「はい」か「イエス」以外の選択肢など存在しない。
だが龍兵は今、実質的な人質としてベルを預かっている身。
彼とて、昼食を用意していないこの状況でベルを1人残し外出するのは、さすがに可哀想だろうと思う良心は持っている。
「あ、あのすんません兄貴。明るいうちに洗濯物洗って干さんといけないんで、コイツらと先行っててもらえませんでしょうか……」
「あ゙?」
「す、すぐ追いつきますんで!!いつもンとこですよね!!」
東条は首を傾け、龍兵の顔を眉を顰めてじっと見る。
龍兵は咄嗟のことで微妙な言い訳をしてしまったと反省を交えながら、戸惑いを装って鼓動を必死に抑えた。
後ろの2人もどうにかやりすごそうとするが、吉松は焦りがモロに顔に出てしまうので、背中が痒いふりをしてなんとか誤魔化す。
「……じゃ、俺待ってるわ」
そう言って下駄を脱ぎ玄関に上がろうとする東条を、龍兵たちは「酒臭ェですから!」と言って必死に止める。
だが熟練の武闘派の筋力にたかが中堅が敵うはずもなく、3人のブロックは簡単にねじ伏せられ、東条は涼しげな顔で部屋の中に押し入った。
簡素な六畳のワンルームを一度見回すと、振り返って龍兵の顔を見る。
作ったような不思議顔で東条を見上げる彼の目線が、一瞬部屋の奥を向いた。
また振り返り部屋を見ると、最奥に佇む一部骨組みのむき出した押入れを見つける。
東条は押入れまで一直線に歩むと、躊躇なくその扉を開けた。
「お?」
そこには、両手にジュースの入ったコップを持って座り込むベルの姿が。
瞬間、龍兵の顔が青ざめ、生気が抜ける。
「何してんだ嬢ちゃん、ンなところで」
「かくれんぼ」
「ジュースふたっつも持ってか?」
ベルはハッとしたように両手のジュースを交互に見ると、「のむ?」と言って東条に差し出した。
彼は戸惑いつつもジュースを受け取ると、振り返り龍兵に「お前の子?」と問うた。
「い、いえあの、親戚の子でその……」
「預かってんの?」
「あ、まあそんなところで……」
「ふーん」と東条は再びベルを見る。
汚れや傷、痣などは目立たない。また初対面の大人に対して一切の怯えが見られない様子から、誘拐の類いでないことは推察できた。
身なりは普通ではないが、外国人と言われればまあ納得はできる。
「嬢ちゃん、腹減ってっか」
問いに答える間もなくぐぅと鳴るベルの腹。
その様子に東条は微かに口角を上げ、受け取ったジュースを一気に飲み干すと「コイツも連れてく」と言って立ち上がった。
予想だにしなかった発言に龍兵は素っ頓狂な声をあげる。
「なんだよ、なんか文句あんのか」
「い、いえそうではなく……」
「じゃあいいだろうがよ。腹減ってんだもんな〜」
「ん」
隠し通すことはできなかったが、結果的には良し……と言えるだろうか。
だが東条がそうと決めた以上、断る権限などは存在しない。
結局、特に問答を挟むこともなく3人は東条とベルと昼食を共にすることとなった。
訪れたのは常夜泉町の飲屋街のすぐそばで、早朝から営業している老舗の焼肉屋。
いつもの如く「好きなだけ食っていいからな」と言いながら、流れるように品書きの片っ端から注文していく。
大きな店だからか、昼時で賑わっているにも関わらず注文した肉や料理は比較的早く届いた。
全長150センチほどの机に並べられた、いくつもの大皿と人数分の漫画盛りの白飯。
目の前の光景に絶句する3人と、見たこともない量の肉に目を輝かせ机の下で足をバタつかせるベル。そしてそんな彼女の様子に誇らしげな表情を浮かべて、焼き上がった肉をそれぞれの皿にじゃんじゃん持っていく東条という、もはやこの現場のために某運動会の曲は作曲されたのではないかと錯覚するような、極めてカオスな状況が出来上がっていた。
「あ、あの、肉が冷めちまいますんで、一旦……」
「なーに言ってんだ。ンな量すぐ食えるだろうが。遠慮すんなっての」
そう言って肉が山盛りの龍兵の取り皿に、さらに溢れんばかりの量の肉を盛る東条。
その手際の良さと躊躇のなさに龍兵は腹を決め、大量の肉を白米と共に胃袋へ流し込んだ。
この世界には貧富の差がいまだに根強く残っている。
歓楽街の貧困育ちの東条にとって、腹いっぱいに飯を食らうことは何よりの幸せ。故に上機嫌で肉を焼く東条の頭に「悪気」の文字は一切ない。むしろ、金の無い若衆が腹を空かせぬようにという、彼なりの優しさでさえあった。
だがしかし、「ありがた迷惑」という言葉がこの世には確かに存在する。
龍兵たち3人の瞳に、もはや光は灯っていなかった。
ベルトとネクタイを緩め、ボタンを外し、できることは全てした。あとはただひたすら、目の前に盛られた肉を胃の中に納める。内容物が喉元まで迫ろうが、脳が食べ物の摂取を拒もうが、ひたすら箸を進める。
しかし、必死の形相で飯を食う3人の真向かいに座るベルの箸は、一向に止まることを知らない。
もう5人前以上の肉を食べているにも関わらず、取り皿に盛られた肉を、全く落ちないペースであっという間に平らげてしまう。
これには東条も驚きを隠せない様子。
「よく食べるなぁ。そんなに美味いか」
「んまい!」
「おーそうかそうか。じゃ、もっと焼いてやるからな、好きなだけ食いな」
そう言って東条が店員を呼び、追加の肉を注文した一瞬。木村が隙をついて、自分の取り皿の肉を3分の1ほどをベルの取り皿に乗っけた。
驚き目を見開くベルであったが、「黙っとけ」とでも言うように口元で人差し指を立てる木村を見ると、何も言わずにコクッと頷いて、もらった肉を大きく開けた口の中に放り込んだ。
小一時間の格闘の末、ついに注文の全てを平らげた5人は店を後にした。
逆流しそうな腹のものを喉の筋肉で抑えながら死んだ目で歩く3人の横で、おにぎりよりも大きな屋台寿司を2つも抱え、美味しそうに頬張りながら歩くベル。
会計は余裕で5桁に登ったが、自腹を切った東条の顔はいつにも増して満足げであった。
「ベルっつったっけか。龍兵よ、あいついつまで預かる予定なンよ」
「ええ、1ヶ月ほど……ですかね」
肩を寄せ小声で問う東条に、龍兵は戸惑いつつ答える。
東条はハァと小さくため息を吐いた。
「お前ェよォ、このピリついた時期に独り身の極道が若ェ娘預かって、なにも起きねぇと思ってんのか」
「と、言いますと……」
「いいか。俺にすりゃお前ェはまだまだ若造だが、世間からすりゃ手練れの1人だ。名前もそこそこに通るようになった。抗争になりゃ、狙われることも否めねぇ立場になってんだよ」
東条は微かに振り返り、ベルを見る。
「女子供は格好の的だ。裏の事情に巻き込みたかねェが、安全をとるなら別の人間に預けるのが妥当だろ」
「はぁ、しかしその、あの子は……」
「わーってるよ、アテがねェんだろ。俺に任せとけ」
東条は頼れる上司だ。
しかしベルや賢吾らのことに関しては、龍兵たち3人にとってのトップシークレット。
神の認識阻害魔術がかかっているとはいえ、バレてしまったこの状況は非常にまずいことに変わりない。
だが東条の言うように、黄金錦組との抗争が始まったその時にベルが人質、もしくは報復のターゲットに定められることは、契約的にも道徳的にも避けなければならない。
となれば、別の人間に預けるという彼の提案は、この状況下では最善の選択であるかもしれない、と龍兵は考えた。
故に、東条の言う”ツテ“を試しに頼ってみることにしたのだ。
だがしかし、その試みは全くもって愚かな選択であったことを、龍兵はすぐに思い知らされる。
様子を見つつ着いていった先はなんと亜空間、よりにもよって万套会の本部であった。
これには冷静を装っていた龍兵も、冷や汗ダラダラで東条を引き止める。
「ままままま待ってください!!預けるってまさか……本部にですか!?!?」
「ッたり前ェだろ。鎧銭でここ以上に安全な場所はねぇぜ」
見覚えのある路地に入った瞬間から嫌な予感はしていた。だがまさか、本当に本部に行こうとしているとまでは考えていなかった。
なぜなら万套会は直系の組をいくつも持ち、構成員は数千を有に超える鎧銭屈指の巨大極道組織。
武器や爆弾の管理輸送ならまだしも、童の面倒など専門外もいいところ。
「あら可愛らしい娘さんだこと。この子を預かるのね」
着物の裾を捲って上品にしゃがみベルの頭を優しく撫でるのは、姐さんこと永河晤京の妻、永河幸代。
俗に言う、ヤクザの姐さんというやつだ。
「あ、あの姐さん!本当に大丈夫ですから!」
「そうです!俺、家には勘当されましたけど知り合いは仰山おりますんですわ!そこ当たりますんで!」
「何言っているの。あんたたちはみんな私の可愛い息子なのよ。困った時はいつでも頼りなさいて言っているじゃない。この子にとってもあんたたちにとっても、ここに預けておくのが1番安全よ」
組員にとって、姐さんは兄貴分以上に敬わなければならない存在。
故に例の通り、「拒否」の2文字などはなかった。
「心配しないでいいのよ、主人には私から言っておくから。それに、前にもシマの女の子の娘さんを預かったことがあるのよ」
母屋へ歩いていく姐さんに手を引かれるベルは、初めての場所と初めての人に戸惑いながらも、晩御飯は何が良いかと訊かれると、目を輝かせながら大きな声で「トンカツ!!」と答えて、案外平気そうな様子。
だがしかし、それを見守る龍兵と吉松は気が気ではなく、あとを歩きながら大量の冷や汗を額に滲ませていた。
木村は神妙な面持ちで後ろからベルを観察すると、2人の肩を掴んで寄せ、耳元で話す。
「今のところ認識阻害に問題はない。神格級魔術だし、過保護になる必要はねェと思うが、目は離さんほうが良いな」
神格級の魔術を破れる者など、神かそれ相応の手練れ以外あり得ない。
魔術に造詣の深い組員は万套会にもいくらかいるが、神格級を破ることができるほどの者はさすがにいないだろう。
しかし、神出鬼没で突拍子もないのが万外会の武闘派極道というもの。
いつどんな奇想天外で正体がバレてもおかしくはないのだ。
気を抜くことは、決してできないだろう。
ベルの存在はやはり、組の注目の的であった。
特に小館などは女子同士ということもあり、率先して世話を焼いていた。
どこから持って来たのやら、庭で鞠遊びをしたり、目に入った若衆の襟を引っ張ってきて人数を集めてかるたをしたり。
当のベルはまったくもって緊張する様子も不安がる様子も見せず、龍兵らとすごろくを楽しんでいたように、思いっきり遊んでいた。
「夕暮れ赤松そよぐせせらぎィ〜童集いし……」
読み手が札を読み終わる前に、畳の上の札を弾き飛ばす小館。
刹那、巻き起こったとてつもない風圧で周りの札は吹き飛び、あまりの勢いに舎弟たちはビビり倒してひっくり返った。
小館のとった札には夕暮れの海をバック大きな赤松が描かれており、その場所の名前と思しき文字も書かれている。
その文字を読もうとベルが身を乗り出したその時、横の障子が前触れもなくバッと開き、逆光の中に巨大な影が映った。
一同は驚き振り向くと、その姿を視認した瞬間、名を呼び会釈を挟む。
「カシラ!」
カシラと呼ばれたそれは、両手に紙袋を抱えた巨海であった。
当番の見回りから帰り、なにやら何かを探していた様子。
ベルの存在に驚いているようであったが、小館が事情を説明するとすぐに理解し飲み込んだ。
「龍兵お前、親戚いたのかよ。しっかし似てねぇなァ〜」
「と、遠縁なもんで……」
引き攣った喉から声を絞り出す龍兵の横で、「ちょうど良かった」と言って巨海は紙袋の中から何かを取り出し、端へ避けられた机を引っ張ってきて並べる。
それは机ひとつ分を埋め尽くさんばかりの、大量のシュークリームであった。
目にした瞬間、小館からため息が漏れる。
「なんですか、コレ」
「”しゅうくりいむ“っての。アウローラの北の方の伝統料理なんだと」
「まーたこんなに買って……」
「すげェ美味かったんだってコレ。お前らにも食わせたかったのよ。お、瑞騎!ちっとこっちゃ来いや」
たまたま部屋の横を通りかかった東条は、興味本位に顔を出したことを後悔した。
「勘弁してくださいよカシラ。俺らさっき飯食ったばっかなんすよ」
「ああ?若頭の俺が買ってきてやったっつーのに、断んのか?一個くらいは入るだろうがよ」
「無理飯っつーんですよそーゆーの。栄養も摂りすぎるとかえって毒なんすよ。特に、俺らみたいな良い歳の者はね」
どの口が言うのか、と舎弟たちが呆れの色を見せる。
大量のシュークリームは本部にいた構成員たちに配られ、当の巨海たちは龍兵の入れたお茶と共に机を囲んで1人1個食べた。
巨海や小館、東条などはああは言いつつ美味そうに食べていたが、先刻既に無理飯の洗礼を受けていた龍兵たち3人は、深層の御令嬢のような小口でチビチビと茶でゆっくりと流し込んでいた。
「ん、食わねぇのか」
手元のシュークリームを一切口に運ぶことなく、掲げてじっと見つめるばかりのベル。
そんな彼女に巨海が問うと、「これ、なまえなに?」と純朴な質問返しをされたので、彼は名を答えた。
「初めて食ったのか」
「ううん……これ、もってかえる」
「持って帰る?どこに?」
「まかい」
その言葉に一同はギョッとして一斉に龍兵を見た。
「あっ、いやあのっ、マジいとこが嫁いだとかそんな感じなんで、本当にマジで遠縁です」
龍兵の言葉になんとなく納得しつつ、皆ベルへ向き直る。
「けどよォ、ベルちゃんっつったけ?おうちに帰るのはあと3週間は先なんだろ?そこまで持たせるのはさすがになァ……」
「じ、じゃあ、おみせ、おしえて」
「あー……それが、祭りの出店でなぁ。多分あと2、3日もすれば出払っちまうと思うんだよな……」
巨海の言葉を聞くと、ベルは俯き肩を落とした。
その様子があんまりかわいそうに映ったのか、巨海は若干気まずそうにうなじに手を回す。
すると、重たい空気を一刀両断するかのように突如小館が「よし!」と立ち上がった。
「なら作るか!作り方さえわかりゃ、家に帰ったって材料集めりゃ作れるもんな!」
「おお、良い案だぜ明日架!そうと決まりゃ早速だな。龍兵、吉松、栄治、俺に着いてこい。出店のおっさんに作り方訊いて、材料買いに行くぞ」
巨海は有無を言わさぬ間に妖術で生成した水の縄で3人を縛り上げ、無理やり引きずって母屋を出て行った。
「あ、ありがとう」
「礼は後でいいぜ嬢ちゃん。今は姉ちゃんと一緒に台所の準備をしねェとな。ほら、さっさと食っちまいな」
小館はニッとわらうと、ベルの頭をワシワシと撫でた。
数時間経って巨海たち4人が帰ると、早速制作を始めた。
姐さんの割烹着と三角巾を借りて、企業秘密を除いたレシピを台所に壁に貼り付け、あらかじめ出しておいた器具に材料を分けていく。
「カシラ、この“ホイッパー”ってのは何ですか?」
「くりいむを泡立てる道具らしい。よくわからんが茶筅でいいだろ」
「それ姐さんに怒られません?さすがにヘラにしときましょうよ」
「木村木村、この“バター”っての乳酪のことやんな」
「たぶん、おそらく、maybe」
「不明瞭すぎるやろその答え」
「くりいむが白っぽくなったらこっちを入れて、粉っぽさがなくなるまで混ぜる……お、ベルちゃん上手いねぇ」
「ごはんつくるの てつだってたから」
「生地を焼くのに一定の温度を保たねぇと行けねぇのか……よし、頼んだぜ龍兵」
「え、俺ですか」
広々とした特注の台所も、女2人と男3人、そして巨漢が2人が一気に入れば、ラーメン屋の厨房のような慌ただしさと人と火の熱気で溢れかえる。材料の入った鉢をひっくり返しそうになったり、クリームを冷やすために買ってきた氷を火気でうっかり溶かしそうになったり、いくつかのアクシデントに四苦八苦しつつ、やっとの思いで作り上げた生地を釜戸にセットすることができた。
入母屋屋根の伝統家屋にオーブンなどあるはずがないので、焼き上げる間は龍兵が妖術を使い、つきっきりで火の番をしていた。
数十分の後に焼き上がった生地は、初めてにしては上出来すぎるほどのふっくらぐあい。
しかしカスタードクリームの方は冷やし過ぎてしまったためか、ヘラですくうと硬めのヨーグルトのような感触であった。
包丁で生地を真っ二つに切り、間にヘラでクリームを乗せて粉砂糖を上から振りかければ、完璧なるシュークリームの出来上がり。
ベルは東条に進められるまま、完成したシュークリームの一つを持って土間の座敷にちょこんと座った。
こんがりふっくらのシュークリームを両手で掲げ、まじまじと眺める。
ある程度の助力があったとはいえ、すべての工程を自分でこなし作り上げた料理はこれが初めて。
それゆえに、今のベルは作り上げた達成感の高揚で、味の不安も今までの疲れもすべて吹き飛んでいた。
ドキドキワクワクを胸にしまい、皆が息を呑んで見守る中、記念すべき一口目をぱくり。
瞬間、口いっぱいに広がる生地の香ばしさと、滑らかなカスタードクリーム。
バニラの香りが鼻を通ると同時に優しい甘さが舌を撫で、それはまさしく絶品の一言であった。
ほっぺを染めて目を輝かせ、興奮のままに浮いた足をバタバタさせるベル。
そんな彼女の姿に一同もシュークリームを手に取り、それぞれ頬張った。
「美味っ」
「おお!よくできてるじゃねぇか!」
出店の店主からもらったレシピはごく一般的なもので、使った材料も商店街で市販されている普遍的なもの。
だが「自分の手で作り上げた」という事実が最高の隠し味となり、皆で食べるシュークリームを何倍も美味しくさせていた。
ベルは食べかけのシュークリームを切なそうに見つめる。
そんな彼女の様子を見て、隣で既に食べ終えた東条はおもむろにベルに問うた。
「ベルちゃんはよ、誰にこの菓子を食べさせてやりたいんだい?」
「お、おねぇちゃんに、あげたい」
「おお、姉ちゃんがいンのか。そりゃ、喜んでもらえるといいな」
「……わからない」
そう言うベルの表情は一見いつもと変わらないが、どこか悲しそうであり、また罪悪感も見え隠れする様子であった。
元々考えの読みずらい彼女であるが、この空気ばかりは普段能天気な東条にも感じ取ることができる。
彼はそれが引っかかったようであるが、理由を訊くことはなく、代わりに自身の身の上を語り出した。
「俺、お袋がいるのよ。ガキの頃、極道にゲソつけるっつー俺を鬼の形相で引き止めてきたんだがね、結局そのまんまで家出したわけ。l今は花街でやり手婆やってんだけどな、これがまあ随分見ねぇ間に老け込んじまったもんでよ。会って話してェ気持ちもあったが、何せ喧嘩別れだからな」
東条は右手に持った湯呑みの茶を揺らす。
「若衆の時から仕送りはしてたんだ。つっても、玄関に米か干物を置いておくだけだったがな。若ェ時はそれこそ米一合もねぇくれぇだったが、今じゃこの通り出世して、麻袋ひとつ分くらいは毎月送れるようになった。でよ、10年目くらいの頃に勇気を出して会いに行ったわけさ。するとよ、どうだったと思う」
突然の問いに首を傾げるベル。
そんな彼女の様子に、東条は苦笑した。
「俺だってわかった瞬間、泣いて喜んだんだぜ。『ありがとう、ごめんね』って繰り返して抱きついたまま離れないわけ。で、その時俺もお袋の姿を10年ぶりにちゃんと見た。病人みてぇに痩せてた体が、遊女のような肉付きになってた。極道になろうと思った理由が、お袋にちゃんとした飯食わせてやりたかったからだからよ、その時俺、すげぇ嬉しくてさ、年甲斐もなく泣いちまったのよ」
そう言って、湯呑の茶を飲み干す東条。
「仕送りに使ってた袋とかもさ、箪笥の中に丁寧に畳んでしまってあった。それで俺、思ったんだわ。一度の喧嘩で簡単に崩れちまうほど、親子の愛ってのは脆くねぇんだなって。だからよ」
東条は再び、ベルに視線を向ける。
「お前も思い切ってみたら良いんじゃねぇの?姉ちゃんと何があったかは知らねぇが、自分が悪いって思ってんのなら尚更さ。案外、すんなりいくかもしれねぇぜ」
東条の言葉に、ベルは俯いて少し考えた。
そして決心したように顔を上げると
「わかった。ありがとう」
と言って軽い会釈をし、シュークリームの残りを食べ始めた。
そんな彼女に東条もニッと口角を上げ、楽しそうに揺れる頭をわしわし撫でる。
そうしてベルは、最後の一口を幸せそうに頬張った。
一方その頃凱藍では、賢吾らがせっせと材料集めの旅の準備をしていた。
「いだだだだだだっ!!ちょっ!もうちょっと優しくできないんすか!?」
「うるっせぇ、面倒見てやってるだけ感謝しろ。ぶっ殺すぞ」
相変わらず汚い言葉を吐き捨てながら、俺の手に巻かれた包帯を剥がす祝融もとい崩季。
一晩が明けて、河伯に巻いてもらった薄緑色の包帯に組織液がシミを作り、少々悪辣な匂いがしてきたので、消毒の意味も込めて取り替えることとなった。
だいぶひどい火傷だし、目の前にいるこの薬師は医療にも明るい。故に彼に任せるのが最善と踏んだのだ。
丁寧にやってくれてはいるのだろうが、固まった組織液が剥き出しの肉と布との接着剤になり、剥がそうと引っ張るたびに想像を絶する激痛がする。
魔術の施された包帯だったために膿が少なかったのが唯一の救いか。
包帯を剥がし終えると、固まった組織液や膿をぬるま湯で洗い流し、消毒をしたら塗り薬をこれでもかと塗って新しい包帯を巻く。
上から手袋をはめて魔術をかければ、これで処置は完了だ。
終わってしまうと楽なもので、あとはいつも通りに両手が使えるようになる。いやはや、ありがたいことだ。
不死身の俺は傷の治りが常人の数倍も早く、それこそ土手っ腹を貫かれたとて数時間で塞がってしまうほど。
しかし、今回俺が喰らったのは1000年近くの時を生きる炎神の炎。
そんなものに骨の髄までウェルダンに処されたこの腕は、生命神の眷属の権能といえど容易に回復できるものではない。
ガイアいわく、全治2週間ほどだとか。俺で2週間って、普通の人間なら1年以上かかるんじゃないか?
「大蝦蟇の蝦蟇油と淵儒の森の冬虫夏草の粉末と、その他色々混ぜてある。5日もすれば皮が張るだろうから、そのまんまにしとけ」
「淵儒の森の冬虫夏草は下薬である代わり、発酵させて塗薬にすると強い消毒効果を発揮するんだけれど、優秀なことにヒトの組織への影響は薄いんだ。神たる私が言うのだから、安心してもらってかまわないよ」
冬虫夏草の神と同じヤツの粉末が俺の両手に塗り込んであるのか。すごく複雑なんだが。
その後いよいよの出発のために身支度を整えた。とは言っても、来客である俺たちは特にやることもなかったのだが。
なので外の椅子で談笑をしながら待つこと数十分。
やっと開いた扉から出てきた崩季の姿は、いつものチャンパオではなかった。
口の広かったズボンがタイトなスタイルに変わり、靴も歩きやすいものになっている。
前の別れた着物に上着を羽織り、頭巾を縛って大きな木箱を背負うその姿はまさしく……
「モノノ怪退治ですか……?」
「そう見えるのなら、お前の眼玉を手術してやっても良いが」
「い、いえ、失礼しました……」
やっぱりこの手の話題は”知っているヒト“じゃないとな……本当、トトが恋しいよ。
崩季は呆れたようにため息を吐くと、ぶっきらぼうに「行くぞ」と言って歩き出し、俺たちはその後についていった。
「気をつけるんだよー」と背後から聞こえる冬虫夏草の神に手を振ると、彼もまた手を振るように首を横に揺らしていた。
相変わらずキモいな、なんて思いつつ前方を向き直ると、開けた木々の間から雄大な自然が覗いた。
桃色がかった青空にほのかな仙果の香りが漂い、耳をすませば動物や虫の鳴き声、遠くの川で魚が跳ねる音など、実に様々な音色が聴こえてくる。
これを雑音と割り切るなんて、もったいなことする人もいるよな。
死を経験して初めて感じたこの感覚。まさしく天国、「桃源郷」と呼ばれるに相応しい景色を最高の場所で眺めながら、俺はまた長い階段を下っていった。




