第45話「犠牲の記憶」
12年前、保育園の卒園を間近に控えたオレは、大好きだったゲームの影響で市のサッカークラブに通っていた。
自分で言うのもなんだけど、当時運動面において要領の良かったオレは、入って2週しないうちにドリブルもシュートも人並みにできるようになって、ありがたいことにコーチやチームのみんなからたいそう気に入られていた。
けれど、同じ時期に入ってきたもう1人の少年は1ヶ月経ってもドリブルはおろか、シュートもまともに打てないでた。
名前は堀元 瑩。
アキラは運動神経が本当に悪くて、普通なら気付きもしないようなちょっとした段差でも足を擦りむく始末の、いわゆる名前負けの惨めなやつだった。
それでもサッカーを好きな気持ちだけは人一倍強かったらしく、練習前にはいつも近所の公園に寄って、高い鉄棒の下でドリブルしてみたり公衆トイレの壁に向けてシュートの自主練習をしていた。
初めは「ヘタクソ」と見下していたオレだったが、そんな彼の熱心さに心を打たれたからか、気がついたら練習終わりに駄菓子屋へ一緒に寄って帰るような仲になっていた。
それは小学校に入っても変わることはなく、それぞれに新しい友達ができても、結局一緒に遊ぶ時間が一番多かったのはのはアキラだった。
けど、そんな小学校生活も楽しいことばかりじゃない。
入学式から1週間経ったか否かの頃だろうか、オレは同級生からからかいの対象になっていた。
ごっこ遊びで強めに殴り飛ばされたり、うんていやジャングルジムを登っている最中に鉄棒を掴む手を踏まれて落とされたり、5月生まれな割に背が低かったのとあまり強い言い返をしない性格だったからだろう、とにかく彼らは「ケンゴになら何しても良い」なんて考えてたんじゃないだろうか。
けれど、まだまだ幼い子供なので我慢の限界も浅い。
かといって彼らを拒否するような勇気もなかったので、オレは担任へ助けを求めることにした。
ことのあらましとどうすればこの状況が解決できるか、まだ日の短い放課後の教室で真剣に相談したのだが。
「いい?よく聞いてね賢吾くん。世の中にはね、我慢しなきゃいけないことが山ほどあるの。それは大人になるまでずっとついてくるし、どんどん厳しくなっていく。だから、その我慢を乗り越えないと人は成長できないの。授業中にお外へ遊びにいっちゃう子はいる?友達とおっきな声でおしゃべりしちゃう子はいる?いないでしょう?みんな授業が嫌で嫌で放り出したいけど、我慢して静かに受けているの。みんなができているのに、あなたにできないわけがないじゃない。意地悪って言ったって子供のすることなんだから、そんなのはただのじゃれあいよ。みんな賢吾くんと遊びたいと思ってくれているのに、当のあなたがそんなのじゃみんなが可哀想」
今ならわかる。
この担任が間違っているということが。
だけど、大人の言うことに疑問を持つことを知らなかった当時のオレにとって、この言葉はまさに青天の霹靂だった。
「意地悪をされるのは悪いことじゃない。意地悪をじゃれあいとして許容できないヤツが悪いんだ」
こんなに歪んでいる思想になんの疑いも持たないなんて、つくづくバカらしくてもはや笑えてくる。
けれど幸か不幸か、この言葉が与えてくれた歪んだ勇気は、オレに横行したからかいをほとんど消し去るほどの結果を残した。
当時のオレはそれこそ担任が正しかったのだと安心したと同時に、彼女へ心からの敬意を払ったが、今思えば単純にからかってきたやつらが飽きただけなのだろう。
そんな出来事から2年が経った小学3年生の秋近く。
間近に迫った運動会のために、リレーのチーム総出で学校の敷地外を走り込んだ後、水分補給中に水筒が空になっていることに気づいたオレは、北校舎の冷えた水道で水を汲んでいた。
1リットルの水筒が満タンになったのを確認して戻ろうとすると、後方からふと聞き馴染みのある声が聞こえた気がした。
特に急ぎの用事でもなかったので、何気なく声の聞こえる曲がり角の方へ足を進める。
すると、そこには4人の男子がいた。
彼らの顔には全て見覚えがある。
その中でも最奥にいる手足の細長い少年は、紛れもなくアキラその人であった。
陰から様子を伺うに、どうやら女子更衣室に忍び込もうとしているらしい。
他数人は窓をよじ登ったり向かいの水道からドア上の小窓に飛び移ってみたりとノリノリであったが、アキラは気が進まない様子で少々浮かない顔をしていた。
「やめようよ」と止めようとするアキラであったが、強い口調で言い返された挙句「1人で逃げたら承知しねぇ」と凄まれ、気弱な性分では言い返しもできないため、どうしようもなくいるような状況だった。
運動後のストレッチが済めばリレーチームの練習も終わる。
そうすれば女生徒たちもここへ帰ってくるし、先生も通るかもしれない。
話し声を聞きつければ難なく逃げられるだろうが、あの鈍臭いアキラなら逃げ遅れてしまうかもしれない。
この場でこの事実を知っているオレだけがアイツを助けることができる。
バッと飛び出して思いっきり「何やってんだバカヤロウ!!」とでも言ってやれればいいけれど、オレにそんな勇気なんてない。
だがこのまま放っておいては親友を見殺しにするも同然。
「……あ!アキラ、こんなとこにいたのか!」
オレはあたかも偶然を装い、少し離れたところから大袈裟に足跡を立てて小走りで彼らの前に姿を現した。
アキラは曲がり角からいきなり現れたオレにビクッとしながらも、安堵の表情を浮かべる。
「先生が呼んでたぞ、お前またプリント出し忘れてたんだってな。ケッコー怒ってるから早く行ったほうがいいぜ、オレも練習終わったから一緒にいってやるよ」
「え?……あ、ああ。あれね。そっか、そういえばまだ出してなかったんだ。みんなごめんね、僕行かなくちゃ」
そう言って駆け出し、アキラは小走りで階段を登って行った。
オレも他のヤツらに手を振って小走りで跡をついていった。
オレとしてはスムーズかつ大事にならずに解決できたと思えたこの件。
しかし、そうは問屋が下さなかったのが残された者たちであった。
第三者から告げられた用事で抜けたとはいえ、1人で逃げ出したと言う事実が彼らは気に入らなかったようで、その後はアキラに対する苛烈な絡みが増していった。
元々気弱で優しい性格に付け込まれちょっかいをかけられることは多々あったのだが、最近はそれらがどんどん過激になっていって、昼食の後の掃除を1人押し付けられたり筆箱を埃まみれの棚の上に投げられたり、仕舞いには下校中にランドセルを池へ投げられたりと、とにかく散々なものだった。
当時も変わりなくアキラと親友であったオレはいつもその様子を間近で見ていたが、彼を助けることはほとんど無かった。
「意地悪をされるのは悪いことじゃない。意地悪をじゃれあいとして許容できないヤツが悪いんだ」
言い訳になってしまうかもしれないが、当時のオレの中で巣食っていたこの歪んだ考え方が、アキラへ差し伸べるべき救いの手を妨害していた。
もちろん一緒になって楽しんでいたわけじゃない。
けれどどうしても頭によぎるあの日の声が、オレの脳内におかしなフィルターをかけて、その光景の酷さにモヤをかけ認識させないようにしていた。
子供、子供なんだオレたちは。
子供のする意地悪はただのじゃれあい。
我慢して許容できなきゃ、人は成長できない。
しかし過去に似た経験を持つオレにとって、その光景に激しく心が痛むのは必然的。
いじめっ子たちが去っていった後、オレは筆箱についた埃を払ったり水浸しで藻まみれのノートを拾って拭いたりと、申し訳なさからの同情を寄せていた。
今思えばあまりにも身勝手極まりない偽善的行動。
けれど、一緒に後処理をしているときのアキラはいつも笑顔で「ありがとう」と言って見せたのだ。
徒競走中に足を絡められて盛大に転んだ日の帰り道、彼にアイスを奢ったことがある。
いつかのためにととっておいたアタリ棒で買ったアイスを、アキラはガーゼと絆創膏だらけの両足の痛みなんてすっかり忘れたように、幸せそうに頬張っていた。
彼は満面の笑顔で「おいしい。ありがとう」と繰り返すばかりで、オレがいじめっ子に言われて彼に砂をかけたことについては何も言わなかった。
オレも何も言わなかった。
こうしている間は昔と何ら変わらない親友のままでいられる。
アキラはそんなこと思っていないかもしれない、けどオレにとってはそれが何より楽しかったし幸せだったんだ。
その後もいじめは終わることなく続き、ついに4年生の冬に事件は起きた。
朝からみぞれ雨が降り続き、外も中も冷え切った薄暗い嫌な日だった。
掃除が終わって昼休みに入った頃、未だ降り続ける雨の最中、外で遊ぶわけにもいかないので、オレは同級生と4人で校舎の端の方、階段の近くで遊んでいた。
走って登って誰が一番速いか競争したり、手すりに手をかけて滑ったり、寒さで固まった体を元気良く動かしていた。
オレ以外の3人はいつものいじめっ子たちであったが、何もなければこうして普通に遊ぶこともある。
初めはみんな楽しそうに遊んでいて、嫌な空気などは一切無かった。
始めてから5分が経った頃、内1人が階段を3段上がったところから飛び降りた。
すると、それに続くようにもう1人が4段上がったところから飛び降り、またそれに続くようにもう1人がより高い場所から飛び降りる。
オレも参加して飛び降り、その後は競うようにどんどん高くなって調子に乗ったころには12段目から飛び降りるまでになった。
そして、1番初めに12段を飛び降りたヤツがオレを含めた他を「こんなのできないだろ」とバカにし始めた。
それに乗っかった他2人は次々に階段を駆け上がり、自信満々の様子で飛び降りて危なっかしく着地して見せる。
オレも後に続いて12段目から飛び降りようとしたその時、前方階段横の廊下から見覚えのある顔が見えた。
アキラだ。
すっかり気を取られてしまったオレは半分落ちるような形で飛び降りた。
案の定、着地には失敗し、転がって壁に背中を強打。
アキラは痛みに悶絶するオレの背中を「大丈夫?」と言って優しくさすって、肩を貸しながらゆっくりと立たせてくれた。
その様子を見て「ダッセー」とゲラゲラ笑う3人。
しかも、気付かぬうちにアキラの後から歩いてきていた別の子に目撃されていたのだ。
その子は当時オレが片思いしていた同級生の女の子。
「ウワー」とでも言いたげな表情でこちらに憐れみの目を向けながら去って行く彼女を横目で見ていると、あまりの惨めさにじわじわと涙が出てきた。
だがその時
「アキラもやってみろよ」
そう、1人が言い出した。
それを聞いたアキラは、「えっ」という驚きの声と同時に引きつった表情を浮かべる。
すると続け様に他2人も「いいねいいね」とノリだし、彼の手を無理矢理に引っ張って階段の前まで連れて来させた。
「どーせならさ、1番上からとべよ」
「そーじゃん。お前背ェデカいし余裕だろ?」
「え…いや…僕無理だよ……!」
彼らとアキラとでは6センチほどの身長差があるのだが、当の彼は手足が細くスポーツ少年とは思えないほど非力であるため、簡単に連れて行かれてしまった。
下から数えて15段目、高さにして約2m40cm上の踊り場で下を見据えて震えているアキラ。
そんな彼がまんまと乗せられていく姿をオレはただ見ているだけだった。
助けるべきか?
でも暗い顔をしているのはアキラだけで、他はみんな楽しそうだ。
大丈夫、これは“じゃれあい”なんだ。
我慢すればすぐ済む。
『逃げたら、立派な大人になれない』
同じ言葉が頭の中で何度も何度も繰り返される。
徐々に背景が歪み、壁の白濁と階段の深緑が混ざり合ってマーブル模様を形成していく。
気づかないうちに息が上がり心拍があがっていき、気がついた頃には
階段を上り、アキラの手を掴むいじめっ子の腕を握りしめていた。
「なんだよ」
「……や…やめようよ……」
水をかぶったように冷や汗をダラダラと垂らしながら、きゅうと縮まる喉から必死の思いで絞り出した。
「なんで」と少々イラついたように言う彼に肩で息をしながら唇を振るわせ、目線を下げる。
「た、楽しくねーよ…アキラじゃ……どうせ不格好だし…そもそも、怖がって飛べない…か…も……」
「何言ってるか聞こえねーよ。もっとはっきり喋れや!」
「……その……嫌がってるんだからさ、強要するのは良くないよ……!」
拳を握り締め、彼の瞳を弱々しく睨みつけながら言った。
相手も今まで大人しくしていたオレがいきなり反発してきたものだから、少々面食らった様子で数秒静止していた。
と、その時
「何してるの!」
下の方から甲高い一声が聞こえた。
見るとそこにはワンピース姿の少女が腕を組んで仁王立をし、こちらをキッと睨みつけていた。
彼女は当時のクラス委員長を務めていた子。
小柄ながらも勝気で正義感の強い性格からいじめっ子たちには日頃から少々毛嫌いされていた。
「またあんたたちね!弱い弱いものいじめなんかして、なにが楽しいって言うのよこのヒトデナシ!」
「うるっせーなァ、いちいちいちいち。遊んでるだけだろうがよっ」
そう言っていじめっ子はもう一方の手でオレの手を薙ぎ払う。
だがしかし、不幸なことに彼が思い切り振るった腕がアキラ胴に当たったのだ。
普通ならばなんてことはない衝撃だろう。
しかし、その時彼は段差の際に立っていた。
不安定な姿勢と足場で、なおかつ細身のアキラがその衝撃に耐えられるはずもなく、ぐらりと揺れたかと思うと彼の体は力無くゆっくりと横に倒れていった。
オレは咄嗟に手を伸ばし、彼の手を掴もうとする。
しかし指先がかすかに触れただけで、アキラはそのまま15段の階段を転げ落ちた。
その後のことはぼんやりとしか覚えていない。
ただ、耳をつんざくような委員長の悲鳴が聞こえたと思うと、気づけば部屋が変わっていて、周りにいる数人の先生が慌てた様子で部屋を行ったり来たりしていた。
窓から見えていた赤いランプがいなくなると、また部屋が変わっていた。
次の日オレを含めた現場にいた5人は会議室まで呼び出され、委員長親子は別室、オレたちはそれぞれの親が付いた状況で校長と担任と学年主任と話した。
難しい言葉が続いて、当時のオレが理解できたのは、アキラは全身を打撲して足を骨折し額も少し切ったこと、彼の親はオレたちと顔を合わせる気はなく、弁護士を通しての話し合いのみだということだけ。
それでもことの重大さは理解できたし、アキラが負った怪我の酷さも伝わった。
当然親には叱られたが、駐車場や会議室で怒鳴られたり頬が膨らむまで殴られていた他の子たちと比べてみると、ずいぶん優しかった気がする。
両親からしてみれば、小学校に入る前からずっとかけがえのない親友だったオレとアキラの間に、何の前触れもなく起こった事件だ。
何か理由があるとおもんぱかってくれたのだろう。
事件の後何度も理由を聞かれたけれど、ただでさえ精神に負担がかかっているであろう両親にこれ以上のストレスをかけたくなく、オレはただ「遊びといじめの区別がついていなかった」と繰り返すばかりだった。
「しばらくは学校に行けなかったんだけど、一週間たったくらいにまた登校してみたら案の定、白い目で見られたよ。『入院中のアキラにみんなで手紙を書こう』ってのもオレだけ書かせてもらえなくてね」
「その後アキラ君には会ったのか?」
「いいや、退院とほぼ同時に引っ越したらしくて。病院も教えてもらえなかったし、学校に来ることもなかったから。……でも、退院する前に一度だけ家を訪ねたんだよ。一度でいいから直接謝りたいと思って。けどすごい剣幕で追い返されちゃって、花瓶投げられちゃったんだよね」
「弁護士を通してのみの話し合いを所望していたほどだからな。当然の結果だと言える」
「ああ。自分でも身勝手だったと思うよ。相手に届かない謝罪をしたって、救われるのはオレの心だけだからな」
開いた膝の上で組んでいた腕を解き、右側の前髪を掻き上げて額についた6センチほどの傷跡をトトに見せた。
「その時のものか」
「親には公園の噴水の近くで転んだって言ったけど、すぐ察して問い詰められたよ。本当だって言い続けたら渋々納得してくれたけどね」
オレは一拍を開け、天井を見上げた。
吊り下げられたランプの中で燃える朱色の炎が、踊るようにゆらゆらと揺れている。
「でもさ、本音を言うとほんのちょっとだけ嬉しかったんだ。ここ、アキラが怪我したとこと同じなんだって」
オレは額の傷をさすり少し微笑むが、光景を見てもトトはなにも言うことはなく、ただ少し落ちたメガネの位置を直して猫背になりかけた姿勢を直しただけだった。
「オレがしたことは許されないことだ。親友に怪我をさせて、その親にも学校にもオレの親にも迷惑をかけて。けどもう謝ることも償うこともできない、今更何をやってもオレの自己満。だから誓ったんだ。もうこれ以上他人に迷惑をかけない、ヒトにはなるべく優しくするって」
「それも君の自己満ではないのか」
「そうだな。けど、何もしないでいるよりかはずっといい」
テーブルのコップを手に取り、残り少ない水を飲み干す。
フウとため息を一つ吐き、空になったコップを置くと再び手を組んで床を見た。
「だからさ、もしオレが一緒にいることでアイツらに迷惑がかかるなら、早いとこ捕まってしまえば、完全に狙われなくなることはないだろうけど、少なくとも、役には立てるんじゃないかってさ」
「なるほどな」
その後オレもトトも少しの間沈黙した。
パチパチと火の粉を飛ばす暖炉の音だけが16畳の部屋に響き渡り、天井近くの壁から吊り下げられたランプの火が呼応するように揺れる。
時計はすでに1時を回っていた。
使い込んだ脳みそが疲れを自覚してうっすら眠気が襲ってきたので、そろそろ床に着こうかと考えたその時、おもむろにトトが口を開いた。
「私はその事件の当事者ではない。アキラ君やその他の性格や性分を知っているわけではないし、私と出会う以前の君のことを知っているわけでもない」
何が言いたいのかがいまいち理解できず困惑の表情を浮かべるオレに、構わず話を続けるトト。
「君の一人称視点からの話だけで、無関係の私がことの全てを理解するのは不可能だ。しかし、これだけは言えるだろう」
トトは顔を上げ、オレの方を見る。
「その考えはやはり間違いだ」
相変わらずの真剣な表情でトトは言った。
またもや真っ向から否定されてしまったオレだが、全てを話し切ってもはや特に感じることはなく、やはりなと思い「そっか」と返すだけだった。
しかしそれでも彼は話を続ける。
「『他人に迷惑をかけない、ヒトにはなるべく優しくする』その精神は素晴らしいものだ。しかし、その行き過ぎた自己犠牲はやはりいただけない。何故だかわかるか」
「……いや」
バツが悪そうにそう呟くオレの瞳をじっと見つめながらトトは言う。
「君の不幸は仲間の不幸でもあるからだ」
その言葉にハッとしオレは改めて彼の顔を見た。
表情は変わっていない、ただ質実に親身にオレと言う1人の人間と向き合おうとしてくれているのだと、その時初めて気が付いた。
「もしガイアが君に関係のないことで不幸になったら、君は悲しいか?」
「そりゃ、もちろん」
「何故だ、君に不利益はないはずだが」
「何故って……えっと……わからない……けど不幸で落ち込んでる姿を見たら、やっぱり悲しくなると思う」
そう言うオレにトトは「そういうことだ」と言って強く頷いて見せた。
「仲間の不幸に理由もなく悲しくなるのは、そのヒトを想っていれば至極当然のことだ。もちろん君の仲間たちにも例外はないだろう。それに、君が攫われたとなれば、彼らは「守れなかった」という事実から罪悪感を背負うことになるかもしれない。それでも、君は自分が捕まるべきだと思うか?」
「それは……思わない……」
「ああ、君ならそう言ってくれると思っていた」
トトの口元がかすかに緩んだ気がした。
安心してくれたのだろうか……ということは、オレは今まで彼に心配をかけていたのか……?
「勘違いしないで欲しいのは、君の行動全てが間違っているわけではないということだ。他人に慈悲をかけ手を差し伸べるというのは万人が成せることではないし、それ自体は賞賛されるべきことだ。実際、今でも私は君がシェファを助けてくれたことについて感謝している」
「あれは、たまたま反論の余地があっただけだよ」
「それでも、あの場で味方をしてくれた君たちに勇気をもらったと彼女は言っていたぞ」
「はは……そう言われると照れるな……」
トトは小っ恥ずかしそうに頬を人差し指でかくオレを見てフッと微笑み、そのまま話を続けた。
「今までいくつの自己犠牲を払ってきたかは知らないが、ガイア達から聞いた話と君の考え方の方向性を鑑みた私の予想からすれば、私は君がこれ以上我が身を削って他人に献身する必要はないと考える。……というより、ハナからそんなことをする必要はないのじゃないだろうか」
「え……それって、どういうこと?」
オレの質問にトトは少々考え込むようなポーズをしながら答えた。
「私の経験上、他人により自身もしくは特に親しい人が不利益を被った場合、殆どの者が強い復讐心を抱く。しかしだな、皆一貫して相手の不幸を望み怒る一方でそれを実行する者というのは少ないんだ」
「それって実行できる力がないとか、実行したらまた違う親しい人が不幸になるからとかじゃないのか?」
「それもあるだろう。だが私が聞いた殆どは、『どうでもいい』だった」
オレは少し困惑した。
怒っているのにどうでもいい?
不幸を望んでいるのにどうでもいい?
「『恨みつらみが膨れて膨れた末にはもう相手の顔などというものは見たくなくなって、相手の人生がどうなろうと知ったことではない』のだそうだ。そういった感情を持ったことのない私にとっては理解し難いことだが、実際多くの者がそう言っている」
「なんか、意外だ……」
「そうだろうな。もちろん皆一概に言えることではない。怒りのままに復讐をする者も多くいるし、それで本人の心が救われるとなれば私も賛成しよう。しかし、それでも大抵は『どうでもいい』で終わって、嫌なことなど忘れてその後の人生を謳歌するんだ。不思議な現象だが、それだけ人の精神は転んでもただじゃ起きないということなのだろう」
「そういうものなのか……」
「ああ。だから、君もそこまで思い詰める必要はない。君がどれだけ悩んで自己をすり減らしても、相手にとっては知らぬところ、何とも思われないだろう」
トトは再び顔を上げこちらを向くと、鋭く座った瞳で見る。
そしていつもより少しだけ低く、ゆっくりと重要そうに言葉を続けた。
「大切なのは忘れないことだ。君がいくら善行をしたところで相手に届くことはない。未熟な体と精神で自己犠牲を働いたって良い結果は出ない。戒めるべき記憶を決して忘れずに一生を過ごしてゆくこと、今の君にできることはそれだけだ」
「忘れずに、過ごしてゆく…」
「そうだ。それが今の君にできる1番の償いと言えるだろう」
いつもの物言いからは想像もつかない、とても力強い声色でトトは言った。
あれだけ喜怒哀楽の薄かった表情をキリリと引き締めて、真っ向からオレという1人の人間と向き合ってくれているのだ。
真剣に物事を考え、何千年と生きて得た知見を踏まえた結果の答え。
今まで、これほど親身になってオレの話を聞いてくれたヒトがいただろうか。
「ありがとう。君のおかげで、なんだか少し楽になった気がするよ。これからは自分を大切にするし、過去のことも、ちゃんと忘れずに心に深く刻み込んで生きていく」
「ああ。まあ後者はすでになされていると思うが、心得るのは良いことだ。それに、君の不幸は他人の不幸になり得るが、同時に君の幸せは他人の幸せにもなり得る。それを決して忘れないで欲しい」
トトはソファから立ち上がり、暖炉の上の棚に先ほど持ってきた本を戻した。
「もう寝なさい。先刻も言ったが、君の年頃で過度な夜更かしは好ましくない」
「なあ、今度なにかさせてよ。今日のお礼がしたいんだ」
「ああ、いつかな」
そう言う彼の声は、いつも通りの喜怒哀楽の少ない機械音声のような声に戻っている。
こんなに深く自分のことを話したのは初めてかもしれない。
すごくスッキリしたし、何か肩の荷が取れたような気がして心が落ち着いた。
一つ貸しができてしまったな……。
部屋を出て行ったトトの背を見送ると、オレはそのまま自室に戻って床についた。




