第三幕:希望と魂(第一編)
話中に登場した歌は、オペラ『椿姫』のアリア『さようなら、過ぎ去りし日々よ』(原語:Addio del passato bei sogni ridenti)です。
恋と病で苦しみ、死にゆくヒロインが病床で歌うシーンなので、これには涙を流さずにはいられません。
ある意味、クライマックスに向けて盛り上げてくれる歌ですね。
ハァハァハァ……。
わたしは息が上がり、思わず目の前にある木の幹に頭と手を預けました。
そして肩を上げ下げして、新鮮な空気を必死に吸い込もうとします。
お父さんと伯爵様の力により、わたしは城壁の上から無事に地面に足を付ける事ができました。それも怪我ひとつなく。
それからわたしは急斜面を下り、藪の中を裸足のままでひたすら走っていました。
しかし今のわたしは、コートしか身にまとっていないので、両足は擦り傷と切り傷だらけで、次々と血が流れ出ています。
わたしは一体どこに行けば、良いのでしょうか?
自分の家も思い出せず、安全そうな場所もわたしには思い当たりません。
わたしはただ月明かりを頼りに、彷徨っているだけなのです。
なんとか息を整えた後、わたしは再びあてもなく、下へ下へと緩やかな斜面を降り始めました。
「ん? なに?」
誰かが、何かを言ったような気がしました。
この付近に誰かが潜んでいるのかしら?
私は思わず立ち止まり、周囲を見回してみます。でもあたりには何も見えず、何も聞こえてきません。
微かに肌寒い夜風が、わたしの背中と髪を撫でていくだけでした。
「ああ、寒いわ……」くしゅん。
夜風の仕業か、思わずくしゃみが出ました。正直、今のままでは風邪を引いてしまいそうです。
それからしばらく斜面を下り、藪を抜けると、わたしは石畳で舗装された坂道に出ました。
おそらく上に向かえば、先ほどの城壁のある場所まで向かう事になるのでしょう。
もし逃げるのであれば、下るしか選択肢はあり得ません。とはいうものの、わたしは逡巡した末に明るい月下の元、その坂道を下る事にしました。
先ほどまでの石だらけの斜面に比べて、石畳の道は歩きやすいものです。
でもそれは同時に、後ろから追ってくる存在にとっても同じ事でした。
わたしが坂道を下り始めてすぐに、上の方から男たちの声とカチャカチャという金属音が聞こえてきました。
娘はコッチだ、と叫ぶ声も聞こえてきます。間違いなくわたしを追っている人たちなのでしょう。
足を痛めていたわたしは、思わずその場にしゃがみ込んでしまいました。
行くあてのないわたしには、もうここで捕まっても変わらないのでは?と思ったからです。
でも突如、風に乗って獣の唸り声のようなものが、上の方から聞こえてきました。
そしてその直後には、追手の声も足音も消えてのです。(くしゅん
「え、こっちでいいの?」
また誰かの声が、わたしを呼ぶのです。
それからわたしは声のような何かに導かれるように、いつの間にか坂を下りきりました。その後、川を渡す長大な石橋をも渡たり、気が付くと川辺の草むらを歩いていました。
わたしがその末にたどり着いたのは……、川辺に佇む小さな石造りの教会でした。
歩き疲れていたわたしは、その教会の入り口の石段へと、倒れこむように身体を預けます。
そしてこの孤独な世界を静かに照らしてくれる、夜空のお月様を黙って見上げました。
「ああ、わたしはこれから……、どうすればいいの? お父さん、わたしには何も無いのです。帰る家も、自分の家族も、記憶さえも無いのよ」
見知らぬ世界の見知らぬ街。そのとある小さな教会の前で、途方に暮れてしまいました。
そしてわたしの口からは自然と、言葉が紡ぎだされ、歌を歌い始めたのです。
『さようなら過ぎ去りし日々の 美しき思い出よ
顔のバラも青ざめてしまった
アルフレードの愛さえも 私にはない
それだけが疲れたわたしの慰めであり 支えだったのに…… 』
『道を踏み外した女の願いを 聞いてください
どうかお許しください あなたのもとへとお迎えください 神よ!
ああ、すべては終わった
ああ、すべては終わった 』
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くしゅん。
またくしゃみが出ました。今いる場所は川に近いので、冷たい空気がわたしを包み込んでいます。
ああ、何だか鼻までもがムズムズしてきました。
これは本格的に風邪を引いてしまったのでしょうか?
そしてまた同じ歌をわたしが口ずさんでいた時。
「ジルにゃん……」
月明かりを背に、わたしに話しかけてくる人がいました。
それは小柄な子で、白く美しい毛の四肢。そして大きく愛らしい目とその開いた瞳。
よくみると頭の上には大きな二つの猫のような耳があります。(くしゅん
「猫の娘さん?」(くしゅん
わたしをジルと呼ぶその子についての記憶は、もちろんありません。
でも何故か、とても懐かしいような何かを。わたしの胸を熱くする何かを感じていました。
「あなたは、誰なの? わたしを知っているの?」(くしゅん
その子はコクンとうなずき、「うちハ、ミハクにゃ。ジルにゃんガ、タスケテクレタにゃ」と言いました。
そのミハクと言う、たどたどしく喋る猫娘。その彼女をわたしが助けた際に、連れ去られてしまったので、今まで探していたと言うのです。(くしゅん
でも今のわたしには、そのような記憶もありません。
だから素直にそれを伝えたところ、彼女がわたしを家まで連れて行くと、申し出てくれたのです。
行くあても、記憶もないわたしには、他に選択肢はありませんでした。(くしゅん
ああ、先ほどからくしゃみが止まりません。それに何故かしりきに鼻がムズムズとしてたまりません。
何だかとても、しんどくなってきました……。(くしゅん
それでも何とかその場から立ち上がろうとした瞬間。
わたしの目の前が、真っ暗に……。
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今、あたしが引いている曲は、ラトラヴィアータ(La traviata)の『乾杯の歌』だ。
この軽快で楽しい雰囲気のメロディ。思わず皆と一緒に乾杯をしたくなるような歌である。でも歌うのは、あたしだけだ。
男性パートも女性パートも、皆で歌うパートも全てあたし一人で歌う。
そしてひとしきり歌った後で、あたしはそっとピアノを下を覗き込んだ。
そこにいたのは……もう一人のわたしである。
グランドピアノの下に潜り込んでいるわたしは、両手で自分の膝を抱え、顔を隠すように伏せている。
『ねぇ、いつまでそこに隠れているのよ?』
あたしがそう問いかけるも、わたしは黙って首を横に振るだけだ。
何て強情な子なのかしら?この世の虚しさを儚んでいるのは、自分一人だけと言うのだろうか?
あぁ、そうだった。彼女もあたしなのだから、強情なのは当然よね。
『悲しいこと、多いわよ……ね。辛いことも、苦しいこともね』
彼女の気持ちは痛いほど分かるわ。何故ならば、あたしも彼女なのだから。
『でもね……。喜びも、楽しみもあったでしょ? 嫌なことも多いけど、嬉しいこともあったでしょ?』
ピアノの下のわたしがうなずく。
当たり前よね。
あたしもわたしも、今まで同じように感じていたのだから。
『お母さんの顔を、憶えている?』
わたしがコクリとうなずく。
『お母さんの言った言葉を、憶えている?』
再びわたしはうなずく。
『じゃあさ。あたしと一緒に歌いましょうよ。ちゃんと最後まで歌うの。諦めずにね!』
わたしはうなづいてくれない。
でも首を横に振るわけでもない。
『一人だと怖いことも、無理なこともあるわ。それでも諦めずに、協力してやてみましょうよ?』
わたしからの反応はない。
『ねぇ、お母さんの言葉を思い出してみてよ。もう会えないかもしれないけど、いつもお母さんを心に感じているでしょ?』
わたしはコクリとうなずく。
あたしが感じるように、わたしもまた感じているのだ。お母さんとの思い出と気持ちを。
『姿はもう見えないけれども、お母さんはいつもそばにいてくれているわ。だからね……』
最後まで諦めずに、自分が正しいと思ったように行きなさい。とあたしとわたしは言った。
そしてあたしとわたしは歌い始める。
乾杯の歌を……。
次回は、(第二編)となります。




