第一幕第一場:愚か者二人(前編)
第五部は始まりました。
短いですがキリがいいので言ったココで切ります。
──────覚醒。
それはとても長くて、辛く、厳しい旅だった気がする。
時には憤り、驚き、また楽しくもあり。
そして小さな喜びもあったが、最後には苦しく、悲しい結末を迎えた夢だった。
長い長い夢を見たせいだろうか? 何やらとてつもない心の疲労感に、あたしは包まれていた。
あたしの頭上には見知った紺のベルベットの生地の夜空に、微かに輝く星々がある。そのいつも目にする目覚め直後の光景を、ただただボンヤリと眺めていた。
そして夢の中で見聞きした、母の顔と言葉を頭の中で反芻する。
あたしはハッと気づいた。
あれは夢じゃない!
あたしは失敗したのだ。何度目かの人生を。
すると不意に、お父様の顔が頭に思い浮かんできた。
そうだ。あたしはとんでもなく、愚かなことをしてしまったのだ。
自分の事を棚に上げて、お父様をなじって罵り、責めた挙句、死に追いやってしまった愚かな娘だった。
謝らなくちゃと思った時には、あたしは心地よい住処を飛び出し、裸足で駆けていた。
(そうよ。今謝らなくちゃ、いつ謝るの?)
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「お父様! ごめんなさい──、いつもワガママを言って困らせる娘で。
世間知らずで、──いつも、いつも心配ばかりかけている……。
この愚か者の娘を、どうか許してください……お父様」
着の身着のままで屋敷を飛び出したあたしは、痛みを堪えながら裸足で庭先を一心腐乱に駆け抜けた。
その甲斐あってか、屋敷の門をくぐり、右手に続く小道の半ばでなんとかすがる事ができた。
大好きなお父様の背中に。
そして涙を流しながら、あたしはその大好きな背中を今度は離すまいとした。
「────ジルダや。どうしたのだい?」
そのあたしに優しく語り掛けるような言葉は、いつもの大好きなお父様であった。それを聞くと、より一層。いつもいつも自分を愛してくれたこの温かい父の背中から、あたしは離れる事が出来なくなりそうだった。
するとお父様は、決して離すまいと、首に回したあたしの手を優しく撫で、軽くポンポンと叩いてくれた。そんな父の仕草が、あたしはたまらなく大好きである。
そして”こうして早朝に見送ってくれるのは、いつぶりだろうかね”と呟いている。
本当に、いつ振りなのだろうか?
そもそも今まで、そんな殊勝な事を、したことがあるのかしら?
いや、今そんな事はどうでもいい。
夢の中で母は、『自分が正しいと、信じた事を諦めちゃダメ』と言った。
自分が正しいと、信じた道を進むためにも、今が必要だったのだ。
これまでの愚かな人生を悔いて、やり直すためにも――。父娘揃って。
「ねぇ、お父様。あたしはお父様のお仕事が、どのようなものか知らないわ。
それを無理に聞くつもりもないしね。
きっとそれは大変な事だろうし、いつもいつもあたしのために、心を砕いてくれたのだとは感じているの。
でもね、もういいのよ。そんな事はしなくても──」
父の手は止まっていた。それまで優しくあたしの手を叩いてくれていたのに。
「──今まで何不自由なく育ててくれた事には、本当にとても感謝しているの。
ありがとう、お父様。
でもお父様が無理する必要は、無いのよ?
その為に自身の心を苦しめているなんて、あたしには耐えられないわ……。
片意地を張って、無理をして生きるのは、もう――止めにしましょう」
あたしの両頬を伝って落ちる、温かい滴は止まる事が無い。すがりつく父の首元も湿らすほどに。
そしてうつむき加減の黙っている父の表情は分からない。でもいつのまにか、あたしの手を強く握っている。
「でも約束して──。
あたしの大好きなお父様が、いつも誇れる父親であると。
だからあたしも約束するわ──。
いつだって、お父様の自慢の娘であると」
「……………………ジルダや。――随分と、心配をかけたね」
後ろからは見えないけれども、父が肩を震わせて、そっと涙を流しているのは分かった。
こうして感じる父の背中越しの温もりと気持ち。そしてまた、あたしの気持ちと温もりが父にも伝わったのだろうか?
いいえ、きっと伝わったはず。たとえ離れていても、あたしたち父娘の心は、いつも繋がっているのだから。
「本当に、本当に大人になったのだね。ジルダや……」
えぇ、そうよ。あたしは大人になったの。
もう行き遅れの箱入り娘だなんて、世間様に呼ばせないわ!
今度はハッキリと分かった。ぐしゃぐしゃになるほど、父が涙を流していると。
肩越しに回しているあたしの腕にも、その熱い水滴が落ちてくる。
あ、──ひょっとして鼻水も? 本当に、しようがないお父様だ。でも大好きよ。
だからあたしは自分の涙をそのままに、寝間着の袖で父の顔をそっと拭った。そう、何度も何度も。
すると泣き崩れる父。そして思わずもらい泣きするあたしであった。
これじゃあ、終わりがないじゃないのよ。(´;ω;`)
本当に良かった。
今いる場所が、滅多に人が行き交う事もない、街外れの小道で。
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それからあたしと父は、これからについて少しだけ話をした。
近日中に父は今の仕事を辞めて、屋敷を売り払い、どこか遠くの街に移り住むこと。
そして不便でもいいから、小さな家で婆やと一緒に、静かに慎ましく暮らしましょうと。
もちろん庶民の娘であるあたしには、不釣り合いなくらい沢山の高価な私物は、良い機会なので売り払うつもりだ。これには流石に大好きなお父様の顔が曇ってしまったけど、そこは大丈夫。
もっと大事なモノを、貰っている事を知っているわ、と父を抱きしめると納得してくれた。ちょろい、チョロインね。
あと一つだけ、最後のワガママを言ったのだ。可愛いメイドを一人だけ雇いたいと。その代わりに、あたしも自分で何か仕事をして、少しでも家計を助けるから、許してとねじ込んだ。
大きな街であれば、きっと家庭教師かベビーシッターの仕事くらいは、あるだろうと考えている。
本音を言うと、この時、あたしは迷っていた。マリーの事や叔父のモンテローネ伯爵の事を、話すべきなのか。父にしかできない事、頼めないことがあるのではないかと。
でもあたしは話さなかった。何故ならば、それがとても最善の道とは思えなかったのだ。もし下手なことを言って、父に無理させてしまっては元も子もないから。
だから愚かなあたしなりにも、これから打つ手を少しだけ考えていた。
この後で公園通りまで行けば、街から逃げ出すマリーたちに会えるはず。
あの二人さえ生きてさえすれば、何とかできると考えていたのだ。
そのためにも、あの男を見つけ、協力を得られれば────きっと。
それからあたしは大好きなお父様に、いてらっしゃいのハグとキス(もちろん頬に)をしてから見送った。今度こそは、失敗をするまいと誓って。
「今度こそ、幸せになりましょうお父様。そして──」
残されたあたしの寝間着の袖には、父の涙と共に鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。これはこれで証拠物件として、このまま保存しておこうと思う。
つまりこれを持って、この朝の言質を取ったという事だ──。
次回は、「第一幕第一場:愚か者二人(中編)」です




