第三幕:芸に生き、愛に生きて(閉幕編:下)
プッチーニの名作オペラ【トスカ】のアリア『歌に生き、愛に生きて』です。(原語:Vissi d'arte, vissi d'amore)
arte、通常は芸術を意味します。少し前にルネサンス時代のイタリアを舞台にしたアニメの主人公の名前も同じでした。ただしこのオペラの場合は、神に捧げる讃美歌を指すので、『歌』と解釈します。そしてamoreは恋,愛,恋人を意味しますが、ここでは聖書が説く隣人愛を指すので、『愛』と解釈しています。そうした敬虔なクリスチャンである主人公のトスカの価値観と生き方と悲しみを表す歌となります。このように背景にあるカトリック的価値観を通して聴けば、オペラの物語をより深く理解し楽しめるのではないでしょうか?
2/13:なおサブタイトルについては、芸術を愛したガルガーノ(とマリーとジルダも)を表すために『芸に生き、愛に生きて』と変更しました。
この王都を南北に分断する河口付近に、大きく真っ赤な存在がゆっくりとその身を落としていく。
今、あたしが腰を下ろしている桟橋の先は、新市街の東の端にある港の片隅にあり、そこからは沈みゆく美しい夕焼けがよく見えた。
そして海から吹いてくる風は、少し肌寒い。
でも目の前の穏やかな海から聞こえてくるさざ波は、あたしのささくれ立った心を癒してくれる。
「ジルにゃん、ココハサムイにゃ。ハヤクイッショニ、カエルにゃ」
「そうね、もうちょっとだけよ。夕焼けが沈むのを、もうちょっと見ているわ……」
「ジルにゃん──。モウスグ、クラクナルにゃ。バアにゃんモ、シンパイシテルにゃ」
「うん、分かってる。でもお父様がね、夜の星空が好きなのよ。だからここで見ていくわ……」
「ジルにゃん────。ココニクルトチュウ、オイシソウナ、タベモノ、ミツケタにゃ」
「そう、じゃあ帰りに皆の分を買って帰ろうかしらね。ミハクとあたしと婆や、それにお父様の分も……」
「──ジルにゃん。オトウにゃんハ、モウカエッテコナイにゃ」
「うん、いつもお父様は、帰りが遅いからね。それに朝も早いから、今日もお見送りができなかったわ……」
「ジルにゃん──」
「大丈夫、あたしは大丈夫だから。もう少しだけ、ここでそっとしとおいて……」
彼女はしばらくの間、あたしの後ろにいたようだけど、「ワカッタにゃ。タベモノ、カッテクルにゃ」と言葉を残して去って行った。
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あの日、宿に戻ったあたしは、真っ先にお父様が休んでいる部屋に行った。
そしてあたしは感情のおもむくままに怒り、罵り、なじり、責め、自分の事を棚に上げてひたすらに非難したのだ。
その少し前。公爵様の屋敷を辞する時に、赤毛の騎士様があたしにこう言っていた。
東方諸国の伝承には、ハーリーティーと呼ばれる赤子を食らう女が居た。
他人の子を平気で食らう化け物にも関わらず、我が子を見失った時に初めて日頃の自分の行いに気づき、悔やんだ末に神に助けを求めたとか。それはこの世のどこにでもあるような親の気持ちだ。
だから決して父親を責めるな、と彼は言っていた。
しかしあたしには許せなかった。
父のしでかした愚かな行為が。
だから激しく父を罵ったのだ。『なんて恥知らずでおぞましい人だ。アンタなんて父親でも何でもない、今すぐあの世で泣いているマリーに詫びなさい』と。
あたしが父と交わした最後の言葉がそれだった。
その翌朝、わたしは部屋で首を吊って死んでいるお父さんをこの目にしたのだ。
あたしはヒドイ女だ。
なんと感情的で、我がままで、恥知らずな愚かな女だろう。
そして人を散々振り回した挙句、死なせてしまった。そう、まるで疫病神のような存在。
それがあたしなのだ。
失敗の上に失敗を重ね続け、最悪の事態を自らの手で呼び込んでしまったのは、全てあたしの責任だ。
どうやってマリーに詫びればいいの?
どんな顔をしてガルガーノに会えばいいの?
どうすればお父様は許してくれるの?
今のあたしには、何も分からない。
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目の前の穏やかな海から漂う臭いは、まるで死にゆく者の臭いだ。
梁から吊るした縄にぶら下がる、物言わぬお父様をただじっと見つめていた時にも、これと同じような臭いを、微かに感じていた気がする……。
この海の世界に、あたしのお父様は、いるのだろうか?
もう一度会いたい。
わたしの大好きなお父さんに。
そしてあたしは、目の前の海へとその身を投げ出したのだ──。
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先生が今引いている曲は、トスカの『歌に生き、愛に生きて』だ。
その美しく悲しいメロディと歌詞は、この世を儚むトスカの心の内側である。
でも今のわたしには歌う気持ちが無い。
心の底から湧き上がってくる気持ちが、愛があたしの中には無いのよ……。
『あかね、あなたは人から無理と言われたら、自分の夢を諦めるの?』
先生の弾くピアノの下でうずくまるあたしに、母が同じ目線で語り掛けてくる。
『これからも同じような事がきっと沢山あるわ。でもね、自分が正しいと信じた事を諦めちゃダメよ。心がくけそうになっても、決してそれを受け入れちゃダメ。分かる?』
母は優しく諭すように、言葉を続けてくれる。
『最後まで諦めずに、自分が正しいと思ったように行きなさい。あかね、あなたが未来をつくるのよ? 無理だと言う他人の言葉と戦いなさい。そして無理と言った人に見せるのよ。あなたが戦った足跡をね』
最後にウィンクした母が、何だか可愛らしく素敵で、そして立派に見えた。
そうだ。まだ終わってはいない。いえ、まだ始まってもいないのだ。
わたしのオペラ歌手としての人生は。だから歌おう。夢のために!
最後まで歌い続けよう。どんなに困難な時を迎えようとも。
あたしは最善を尽くして詠い続けよう。愛のために!
そしてあたしは、先生が弾くピアノに合わせて、再び歌い始めた。
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私は歌に生き、愛に生きていました
( Vissi d'arte, vissi d'amore, )
私は生きゆく魂に決して悪意をむけず
( non feci mai male ad anima viva! )
そっと手を差しだし
( Con man furtiva )
多くの困った人々を助けました
( quante miserie conobbi aiutai. )
いつも誠実な信仰心をもって
( Sempre con fè sincera )
私の祈りは
( la mia preghiera )
聖者たちの祭壇へのぼり
( ai santi tabernacoli salì. )
いつも誠実な信仰心をもって
( Sempre con fè sincera )
私は祭壇に花を捧げてきました
( diedi fiori agli altar. )
この苦難のときに
( Nell'ora del dolore )
なにゆえ、なにゆえに、神よ
( perché, perché, Signore, )
なにゆえに 私をこのように報いるのですか?
( perché me ne rimuneri così? )
私は聖母様の衣に宝石を捧げ
( Diedi gioielli della Madonna al manto, )
そして星と天に、歌を捧げました
( e diedi il canto agli astri, al ciel, )
すると、それらはより美しく微笑んでくれました
( che ne ridean più belli. )
この苦難のときに
( Nell'ora del dolore, )
なにゆえ、なにゆえに、神よ
( perché, perché, Signore, )
あぁ、なにゆえに 私をこのように報いるのですか?
( ah, perché me ne rimuneri così? )
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<ジャコモ・プッチーニ作、オペラ【トスカ】より、アリア『歌に生き、愛に生きて』/訳:Principe>
次回から、物語の終幕に向けて第五部と行きたい所です。……が、まだ第五部第一幕と物語の結末部分しかプロットができておりません。登場人物を増やした影響で、当初のシナリオから大きくズレてきたので、再考している所なのです。
よって次の週末までお時間を頂きたいと思います。その間に、幕間エピソードで本編で描けなかった過去の話を少しだけ書きたいと思いますので、今しばらくお付き合い下さいませ。




