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第三幕:歌に生き、愛に生きて(第九編)

やっと本幕の終わりが見えて気がします。

 

「よう、嬢ちゃん。朝からすまねぇな。また状況が変わっちまってよ。今すぐ俺と一緒に来てくれ、モンテローネ伯の屋敷まで」


 いきなり見た事のある赤毛で長身の騎士様が、そう言ってあたしに声をかけてきた。丁度、朝の身支度を終えたあたしが、宿の一階にある食堂へ降りてきたタイミングでだ。


 そう言えばここ最近、肌寒い朝が続いているにも関わらず、この赤毛の騎士様は袖を肩までまくっているのだ。この人の季節感は1シーズンずれているのかしら? しかし彼をよく見ると、その全身から湯気が立ち昇り、顔は少し火照ったように赤みを帯びている。


「今から? あたしはこれから朝食をとって、それから二度寝をする予定なんだけど?」

 この場には、彼の父親である公爵様も弟のお堅い子爵様も居ない。故に、彼の砕けた話し方もあってか、思わずあたしは素の口調となってしまった。


「おいおい。嬢ちゃんは、お気楽貴族の放蕩息子や、自堕落なご令嬢でもないだろう。それとも何か? それが猫を被っていない素の嬢ちゃんなのか?」

「デスヨネー」


 いやいやいやいや。

 そもそもあたしの普段の生活スタイルは、自由気ままな自堕落ご令嬢、そのものなんですけどぉ!?


 たまたま王都に来てからは、毎朝早く起こされてしまってはいるけどね。

 それに今ではあたしも婆やにお湯を貰ったら、朝の身支度をサッサと自分一人で済ませていますし。それからまだ臥せっているお父様のために、宿の人に朝食を用意して貰ってきて。それをあたしが手ずからお父様に、甲斐がいしく食べさせているのだ。

 その後にようやく、婆やとミハクちゃんの三人で仲良く一緒に朝食をとる。そして再びベットに戻って二度寝をするのが、あたしの朝のルーチンワークなのよ?


「何か反応が悪くねぇか? まだ眠いのか、それとも朝飯か?」


 どうやらあたしの塩対応が気になるらしい。

 無論、その両方に決まっているのに。

 でもここ最近、不本意ながらも早起きをしてしまうのは、全て可愛い猫娘(ミハク)ちゃんのせいなのだ。彼女は毎朝目覚めると、あたしの枕元まで来てこう囁くのだ。


『ジルにゃん、アサにゃ。オキテにゃ。ゴハンイッショニ、タベルにゃ』などと、甘美な囁きが耳元でするのである。


 あたしのように理性(しょくよく)で、その誘惑に打ち勝てる者でなければ抵抗は無理だ。

 きっと無邪気で愛らしい彼女をベッドに引き込んで、朝からニャンニャンしてしまうに違いない! ううん、知らないけど絶対そうだ。


 あぁ、後でゆっくり彼女の毛づくろいをしてあげようと思う。

 近頃は食生活の改善とストレスの解放からか、彼女の毛並みが良くなっている。

 その結果、彼女の表情も豊かで、愛らしさがマシマシなのだから。

 彼女のような可愛らしい子をあたしの手元に置いて、キャッキャウフフと毎日楽しく過ごす方がイイに決まっている。


 そうだ。どこぞの貴族の子息を婿取りするよりも、ずっと素晴らしく有意義な人生を送れるだろう!!


「おい! さっきから一体どうしたんだよ!? 表情がまるで薬物中毒者みたいだぞ。嬢ちゃん!!」


 ん?彼は何を言っているのだろうか……。

 あたしは今、バラ色の人生プランを頭の中で検討中なのよ?


 イダダダダダダ、痛い痛い、痛いー! 痛いって! 助けてー!!


 目の前の男が、あたしのピチピチで柔らかなほっぺを、左右から摘まんでグイグイと広げているのだ。清らかな乙女の柔肌に、何という暴挙をしているのか!


 この痛みには、さしものあたしも、夢の世界から意識を引き戻されてしまった。


「おい、もう大丈夫か? 本当に意識が戻ってるのか? さっきまで、ニチャァって、スゲー笑みを浮かべていたぞ。流石の俺も嬢ちゃんが恐ろしくて、背筋が凍り付いたぜ……」


 ようやくあたしの両頬から、その手を離した目の前の男。

 でも彼が何を言っているのか、あたしには皆目見当もつかない。

 ちょっと砕けた親しみのあるイケメンだからといって、調子に乗らないで欲しものだわ。


「大丈夫よ、あたしは正気に戻ったわ!」

「…………。全く大丈夫な気がしねぇよ! むしろこっちが油断したら、裏切って背後から襲い掛かるとか。実はさっきのトリップ状態が、正気だとかじゃねぇだろうな?」


 ちょっと、ちょっと。さっきから無礼三昧のこの男は、一体何様のつもりだろうか?かつてあたしが夢の中で見た、伝説の竜騎士様の事でも言っているのかしら?全くもって失礼しちゃう話だ。


「いい? もう一度言うわ。()()()よ!」


 あたしは背伸びをしながら、彼の片耳を掴んで、思いっきり荒ぶる一歩前の声で伝えてみた。

 お、おう、と言う生返事がらしきものが返ってきたけど、一応は伝わったらしい。それから彼のに渋々従って、一緒に伯爵様のお屋敷に向かうことになった。

 ちなみにお父様の食事の世話は、婆やに任せることにしておいた。


 ・

 ・

 ・


 もぐもぐもぐ……。

 噛みしめるたびに口の中に広がるのは、スパイスが効いたトマト風味のよく煮込まれた牛もつの旨み。あたしが今、口いっぱいに頬張っているのは、王都エトルリアの名物である。それはランプレドットという牛もつ煮込み料理をパンに挟んだものだ。


 少し前、お屋敷に向かう道すがらで、屋台から漂ってくる謎の魅惑の匂いがあった。あたしはその美味しそうな匂いに、なすすべもなく無抵抗で負けたのだ。


 その場で足を止めたあたしは梃子でも動かない。なぜならば、朝食を欲する胃袋を説得しなければならないからだ。

 でもそこをエスコートする騎士様は察して、あたしに買い与えてくれた。

 それも()()

 

 もっとも……。あっという間に自分の分を食べつくしたあたしが、彼も食べようと手にする二つ目をじっと見つめていたら、無言で差し出してくれたのだ。

 流石は騎士様、素晴らしい対応(れでぃふぁあすと)ですね。


 しかしながら、その後再び、甘く香ばしい匂いに、あたしは負けてしまたのである。

 そう、王都は恐るべき、美食の街だったのだ。



「──それにしても意外よね(もぐもぐ」

「ん? 何がだ? (カリッ」


 なんて男だ!? この男は今、ろくに味わいもせず、一飲みにしてしまったのだ。この僅かにほろ苦いチョコを、甘いアーモンドの香りのクッキーで挟んだ素晴らしいクッキーを。

 なんという暴挙か、甘いものに対する敬意がまるで感じられない、軽率な騎士様である。


「こんなにも素敵なお菓子に、詳しいだなんて(もぐもぐもぐ」


 このままいくと危うい。よく味わって食べているあたしのペースでは、彼の半分以下の数しかクッキーを食べる事ができないかもしれない。故に、これは急がねば!


 そう、今あたしたちが頬張っているのは、『バーチ・ディ・ダーマ(貴婦人のキス)』。これはアーモンド風味のクッキーで、チョコレートクリームを挟んだ菓子である。これは一口サイズの丸いクッキーがチョコクリームを挟んで、まるでキスをするように抱き合っているのだ。そのほろ苦い上品な甘さは、まさに高貴な貴婦人のキスと言えよう。


 この素敵な甘いお菓子を、旧市街のとあるパン屋さんの店先で見つけたのである。何事にも理性よりも直感派のあたしは、その時どきに感じる香りや味覚をいつも信じている。だからあたしは、エスコートする騎士様の制止する声を無視して、そのまま迷わずお店に飛び込んだのだ。

 そしてお店の主人が、その香りの出所となるお菓子を快く試食させてくれた。なんという美味のお菓子だろうか、やはりあたしの直感は間違ってはいなかった。

 満面の笑みであたしが振り返ると、後ろにいた騎士様は店主と知り合いのようで、苦笑いで挨拶していた。そして今度も止む無しとばかりに、その素敵なお菓子を紙包み一杯に買ってくれたのだ。

 キャー、騎士様素敵よー。


 そして今、伯爵様の屋敷を目前に、争うように急いでお菓子を頬張っているのだ。主にあたしが。


 そんなあたしを見て、何やら門番の兵士たちが、まるで珍獣か何かを見つけたようにヒソヒソ話をしている様子。でもこの重要な時に、そのような対面などを気にしている暇はないのだ。今はただひたすら、この素敵で貴重な貴婦人のキスを奪われてはならない。

 一つでも多くの貴婦人を、目の前の軽率な騎士様よりも、味わい尽くさなければならないのだから!


「あのパン屋はな。俺が王立軍事学院に在籍していた時に、()の下宿先だったのさ。(カリッ」


 あ、また味わいもせずに一飲みしている。(もぐもぐ、もぐもぐ


 元素敵だった軽率な騎士様が()というのは、おそらく同期であったガルガーノの事だろう。(もぐもぐ、もぐもぐ、もぐもぐ


 あたしが必死で頬張る姿に見かねたのか、彼は手に持った紙包みを寄越してくれた。(もぐもぐ


 優しい騎士様、ありがとう! (もぐもぐ


 それは決して、あたしが凄い目で彼の口元を睨みつけていたからではないと思う。うん、きっとそうよね。(もぐもぐ


 彼の話では、菓子作りが趣味のガルガーノとは、学生時代によく二人でに甘いものを食べ歩きをしていたらしい。あたしがかつて慣れ親しんだ公都マントヴァの新市街。そこにある有名な焼き菓子専門店の『優雅な林檎亭』もまた、彼らがよく足を運んだ推し店だとか。

 たまにあたしも婆やと買いに行く店だけど、いつも女性客で一杯の人気店なのだ。そこに若い男二人とは。(じゅるり


 ちなみに何日か前にも、彼は公務のかたわらでその店に通っていたらしい。確かに美味しい焼き菓子が揃っているから、仕事の息抜きがてらには持って来いかもね。しかし彼曰く、ガルガーノがマントヴァの街に来ているのを知っていれば、手を貸してやれただろうと。


 その言葉はきっと、もしそうしていればガルガーノが死ぬことは無かったかもしれない、という後悔の念なのだろう。


「――にしても、今の嬢ちゃんの姿をジュリオに見せなくて良かったぜ。俺は否定しねぇが、アイツがみたらドン引きするぞ」


 どうやら子爵様は、甘い物が放つ魔力(とうぶん)の恐ろしさを未だ存じ上げないらしい。

 

 そしてその魔力の前では、誰しもが皆、無力であることに。(もぐもぐ


次回は、(第十編)になります。

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