その33 サトゥルヌス 後編
─前回のあらすじ─
神隠しにより、アヴァロンへと飛ばされたヨミエル一行は、カマキリの魔物となった元人間『サトゥルヌス』との戦闘を繰り広げる。
血炭の弓を携えた異形狩りの協力もあり、一行はこれを討伐。
しかし、ヨミエルがサトゥルヌスの首を討ったその瞬間、黒き血がヨミエルを染め、ヨミエルは、魔物の記憶、その奔流に呑まれるのだった。
──コポコポと液体に流れる空気の音で、目を覚ました。
そこは、瞼を開いているのか、閉じているのかすら分からぬ、湿った液体で満たされた空間の中。
その空間の外から、くぐもった声が聞こえだす。
『──めて!──して!』
その声と共に、湿った空間の壁を何かが突っつき、壁越しに自分へと触れる。
『喰らウ──アカごも、ハハも──』
ブチリブチリと、空間の外側から、何かを引き裂く音が聞こえ、湿った空間が、大きな叫び声と共に振動する。
ブチリ
その音と共に、巨大な何かが自分の頭をつつき、ブチリブチリと、空間に空いた穴を広げていく。
開いた穴から、湿った液体が流れ出し、くぐもった音が鮮明に聞こえだす。
ザァザァと、雨が降る音。
冷たい風と液体が全身を伝い、瞼越しに光を感じる。
『喰らウ、アカご……ッ!』
その言葉と共に、自分の頭に、固く、鋭い何かが触れる。
それがゴブリンの牙だと気づくのに、時間は掛からなかった。
「やめろ……!」
自分は必死に手を動かし、抵抗する。
「──!?身体が……動かせない……!?」
だが、まるで泥沼の中にいるかの様に身体が重く、抵抗するどころか、瞼を開く事すらできない。
やがて鋭い牙が、皮膚を傷つけたその瞬間だった。
『ふふフっ!!』
『オがッ──!?』
頭上を何かが通り過ぎると、鋭い感触が頭から離れた。
『ふフ……ふふふフ!』
『ギぃ!?ギィあ!!?』
聞き覚えのある笑い声が聞こえ、それと共に何かを切り刻む音と、ゴブリンの悲鳴が聞こえた。
『…….あぁ、あァ……ふフ!』
巨大な何かに自分は抱き抱えられ、宙へと浮かび上がる。
ザァザァと降りかかる雨の感覚が遮られ、代わりに、暖かな何かに包み込まれる。
『……アカ……チャ……ふフ……』
『──ゴめんね』
雨音と笑い声の中、後悔に満ちたその声だけが、ハッキリと聞こえた。
その言葉と共に……自分は、液体に満たされた空間へと閉じ込められた。
──どれくらい、閉じ込められただろうか?
……閉じ込められた……何処に……?
身体の感覚が溶けて無くなるほどに、そこは落ち着き、次第に自分は、思考する意思すら無くしかけていた。
──きろ。
「……?」
何処かから、少年の声が聞こえる。
誰だ……?……少年、いや、少女の……声?……何故、自分を呼ぶ……?何か、重大な事を、忘れている気がする……。
混濁した意識の中、聞こえた声に思考を張り巡らせていると、もう一度、聞き覚えのある声が聞こえだす。
『──ッチ、世話の焼ける』
その言葉と共に、自分の背中に強い衝撃が走り、混濁していた意識が一気に覚醒する。
「──ガハッ!!ゲホッ!!」
口内に入った黒い液体が気管に入り込み、咳き込んでいると、次第に混濁した意識が鮮明になり、自分が地面に倒れ伏している事に気づく。
──記憶の追体験。
魔物の黒い血に濡れた人間は、魔物の記憶を断片的に体験する。
久しく遭う事のなかった現象に、自分はその事を思い出した。
「目は覚めたか?」
ギブルの声が聞こえ、顔を上げると、そこには自分を見下ろすギブルの姿が見えた。
自分は身体を起こし、辺りを見渡すと、視界には相変わらず赤黒い曇り空が広がっていた。
そしてその曇り空の下に、自分はある光景を見つける。
「貴様も奴も、不運な場所に落ちたな……見てみろ」
「喰らウ!喰らウ!!」
倒れ伏したサトゥルヌスが、十数匹程のゴブリンに群がられ、喰われかけている。
サトゥルヌスはゴブリンを追い払おうと鎌を振り回し、立ち上がろうと千切れかけた節に力を込めている。
頭部の無い身体で踠く、その姿からは、ただの生存本能とは違う、一つの本能が垣間見えた。
──母性本能
彼女は、死に物狂いで護っていた。
胎を裂かれ魔物になり、正気を失おうとも、この地獄の中で産み落とした、一人の赤子を。
「……アレを放っておけば、喰われて死ぬ」
ギブルが自分に視線を合わせながら、言葉を続ける。
「──誰の記憶を見たのか知らんが、馬鹿な考えは捨てろ」
「どういう……ことだ」
「貴様、まるであの魔物に同情しているかの様な表情をしているぞ」
「……」
ギブルの言葉に、自分は沈黙を貫く。
同情……それだけならば、目の前の出来事を切り捨てられる。
だが自分は、見てしまったのだ。
──産まれる事すら未だ出来ていない、赤子の僅かな記憶を。
「……サトゥルヌスの胎には、人間の赤子がいる」
「だからなんだ、ハッキリ言え」
ギブルは鋭い目つきで自分を睨み、言葉を急かす。
ハッキリ言え、とは言っているが、大方、自分が次に何を口にするのかは分かっている様子だった。
「……すまない、見捨てる事は出来ない」
先程まで殺し合っていた魔物と、その身に宿る赤子に同情し、今度は救いの手を差し伸べる。
そんな支離滅裂な事を、自分は本気で実行するつもりでいた。
「チッ、ならさっさと武器を持て、私と貴様だけでケリをつけるぞ」
ギブルの言葉は意外な物だった。
自分の言葉を聞き返すでもなく、止めるでもなく、武器を持つ様に促していた。
「──止めないのか?」
「……貴様の行動理念など何一つわからんが、一つだけハッキリしている事がある」
ギブルは言葉を続けながら、懐から矢尻を取り出し、それに魔力を送ると、ギブルの頭上に複数の氷の矢が創り出される。
「貴様を止めるには、殺す他ない」
そう言うとギブルは、氷の矢をゴブリンに向けて放った。
「ギィア!?」「あギッ!?」
氷の矢が複数のゴブリンを貫くと、ギブルはゴブリンに向かって突撃する。
「何を呆けている、貴様も戦え」
ギブルは自分を一瞥しながら、右手に氷の刃を創り出す。
「……礼を言う、ギブル」
自分はそう呟き、武器を手に、ゴブリンに向かって突撃した。
──そこから先は、蹂躙という言葉がよく似合うほどの戦いだった。
自分の剣がゴブリンを斬り裂き、斬り落とした死体を踏み潰しながら、次々とゴブリンを斬り裂く。
その様子を見たギブルが、自分に向かって警告していた。
「呑まれるなよ、血に、記憶に」
ギブルの警告は、もっともだった。
追体験した記憶から、自分はゴブリンに対して、怒りとも、恨みとも取れる感情を持ちならが、斬り刻んでいた。
──殺す。殺す!殺す……!コイツらは、生かしてはおけない……。
殺意の奔流が自分を突き動かし、逃げ惑うゴブリンを次々と殺していく。
「呑まれるなと言っただろう、馬鹿が」
「……呑まれてなどいない」
「チッ……もっとマシな嘘をつけ、大馬鹿野郎が」
やがて全てのゴブリンを斬り捨て、辺りが血と死体の海と化すと、自分とギブルは、倒れ伏したサトゥルヌスを前に、武器を構えていた。
「……ふ、フ……!」
頭部を無くした首から、サトゥルヌスは笑い声を発し、支えきれなくなったその身体を引き摺りながら、自分とギブルに、弱々しく鎌を向ける。
喰われようとも、魔物に堕ちようとも、それでも産まれた我が子を守り抜く。
どれだけ、彼女にとってその子は大切なのだろう。
「……安心してくれ」
──自分は武器を下ろし、死にかけている彼女に向かって、歩き出した。
『──お願いします、どうかこの子だけでも』
頭の中に響いたその声に、自分は何も答えずに、彼女の側へと歩み寄る。
「あ……ー.……」
彼女は自分の思惑を察したのか、最後に息を吐く様に、首から空気を絞り出す。
そして振り上げた鎌をゆっくりと、自身の胎に当てがい、縦へと切り開いていく。
やがて胎が完全に切り開かれ、中から羊水と血液が流れ出し、その中から小さな赤子が現れる。
「ふ…………ふフ」
サトゥルヌスは、その赤子を見つめる様に首を向け、最後に微笑む様に息を吐き出すと……やがてその身体が、無数の黒い蝶へと変わっていく。
そしてサトゥルヌスのいた場所からは、破れた胎を抱き抱える様にして、息を引き取った女性の亡骸が現れた。
自分は赤子を抱き抱え、その子を見つめる。
この子はずっと……母親の胎に揺られていたのだろう。
羊水と血に濡れたその身体は、ほんのりと温かく、瞳を閉じたその顔は、安らかな物だった。
──瞳を閉じた赤子は、果たしてどちらなのだろうか……願わくば、どちらであろうとも、この子は報われるべきだ。
──そうでなくては、あまりにも惨過ぎる。
「──ヨミエル!」
声のした方向を見ると、ラナと、ナグツメを抱えたオタニア、異形狩りの四人がこちらへと向かって来るのが見えた。
「よかった!無事だったんだ!あ、怪我はない!?」
ラナが焦った様子で自分に近づくと、抱き抱えた赤子と、女性の亡骸を交互に見つめ、驚愕した表情を見せる。
「その子は……どうしたの?」
「彼女の子だ」
異形狩りが自分の側に立ち、赤子を見つめ、口を開いた。
「……サトゥルヌスは……死んだんだな」
異形狩りが女性の亡骸に視線を向けると、ゆっくりと、絞り出す様にその事実を口にする。
「…………すまない」
異形狩りは目を伏せ、女性の亡骸に向かって謝罪の言葉を、一言、口にする。
異形狩りの行動に全員が口を閉じ、ただじっと、彼と、女性の亡骸を見つめていた。
「……その子を、抱きしめさせてくれ」
そうして暫く彼を見つめていると、こちらに振り返り、震える手を異形狩りは差し出す。
赤子を見つめる、濁ったその瞳からは、涙は見えなかったが、深い後悔が垣間見えた。
「……分かった」
自分は、凍えない様に抱き抱えていた赤子を、異形狩りに差し出した。
差し出された赤子を、異形狩りは、震える手で恐る恐る抱き抱える。
「…………側にいながら、お前の母を護れずに……済まなかった……」
「──どうか俺を、恨んでくれ」
後悔と懺悔、どうしようもない想いが溢れ出し、抱き抱える赤子に、唯々、贖罪の言葉を述べていた。
──こんな事をしても意味はない。
それが分かっているのか、赤子を抱き抱える異形狩りの瞳は、虚だった。
「──せめて、この子だけは」
その言葉を聞いた瞬間だった。
辺りが青い霧に包まれ、視界の全てが青一色となった。
「なんだ!?」
「霧!?神隠しに遭った時のとおんなじ……!?」
「ヨミエル……っ!」
「──皮肉だな」
自分は、青く染まっていく光景を見ながら、口にした。
──この地獄から離れる事を、口惜しいと感じる日が来るとは。
─記憶の追体験─
人から、魔物へと堕ちた者の黒い血液には、その者のかつての記憶が宿るという。
その黒い血を浴びた者は、口々にそう言っている。
魔物の血を浴びた彼らは、魔物のかつての記憶を体験したらしい。
記憶の追体験。
異形狩りの間では、その現象はこう呼ばれている。




