ナジーラの独白
い、いきなり宿だなんてそんな……
そ、そりゃあ結婚するんだから……べ、別にいいけどさ……
「あの時……海の底で俺は、世界の全てから見捨てられたような心持ちだった。父上や母上だけでなく、弟や友人、侍従に至るまで全ての存在からな。」
「そ、そうなの?」
私の温もりが欲しいなんて言って……どういうつもりなのよ……
「ああ、そうだ。そんな時にそなたは俺を助けに海中深くまで来てくれた。数多の魔物が巣食う海の底へと、だ。特別な感情が生まれても仕方あるまい?」
「べっ、べべ、別にあんたのためにやったわけじゃないんだからね! あっ、ああ、あんたに死なれると困るってだけなんだからっ!」
い、今こいつ! 特別な感情って言ったよね!? そ、そそ、それって……ど、どうなの!?
「俺が死ぬと困る……つまり、そなたも同じ気持ちでいてくれるということだな? 嬉しく思うぞ。あぁ……これほど嬉しいことはついぞ記憶にない……ボニーよ、俺は知らなかったのだぞ?」
「なっ、何を!?」
「海の暗さと冷たさをだ。海の恐ろしさは知っていたつもりだ。王城ほどもある巨大な魔物が何気なく棲息する人知を超えた魔境だとな。そのような魔物にかかっては勇者ムラサキ公であっても太刀打ちできぬと。今思えばその真意は、いかな勇者であろうとも海の中ではその真価を発揮できないという意味だったのだな……」
そうなの? 海の中では勇者ムラサキ公でも無理なのかな……
「だが、海の本当の恐ろしさは魔物などではなかったのだ。たかが数メイル潜っただけなのに……あの暗さ、あの冷たさ。そしてあの息苦しさ……そこに一人きりだと、あんなにも怖く……心細いのだな。いい経験をさせてもらったぞ!」
「そ、そう? それならよかったんだけど……」
「だからこそ……今日はもう無理だ。再び海になど入れるものではない。
俺は……父上によって魔物の巣へと叩き込まれたこともある。母上から周囲全てを覆い尽くす灼熱魔法を撃たれたこともある。それなのに……先ほどの絶望感はそのような些事を軽々と凌駕していた! そう、俺は弱い……そして立てぬ。だからボニー、いいだろう? 宿まで連れていって欲しい。」
「う、うん。それぐらいなら。」
なぁんだ。誤解させないでよね。そんなの騎士さんに命令すればいいのに……別に私じゃなくったって……
「それぐらい? 俺は温もりが欲しいと言ったぞ? そなたの温もりが欲しいのだ。凍えそうな心を奮い立たせるにはそれしかない。だめか?」
ぎゃぼぉーーーん! そ、それ、それって! やっぱそっちなのぉ!? し、知ってるよ! そりゃあ知ってるよ!
婚前交渉って言うんだよね! ね? そ、そりゃあグレブリントでも別に珍しくないけど、ないけどぉぉお!
ど、どど、どうしよどうしよ!
こいつにはもう半裸を見られちゃってるし! どうせ結婚するし! い、いいのかな!? い、いいんだよね!?
でも、ナジーラがそんなに海が怖かっただなんて……
強大な魔力と強靭な肉体を持ってるくせに弱っちい……なんて思ったけど、なんだか放っておけなくなってきちゃったじゃない……




