森の迷い道 2
「咲ちゃん、本当にごめん!」
それは、3人で行く打ち上げ予定日の1週間前の事だった。狐坂さんが突然、私に向かって頭を下げたのでびっくりして固まっていると……。
「急な仕事が入って、打ち上げに行けなくなったんだ。せっかく、咲ちゃんが誘ってくれたのに……」
「い、いえ、お、お仕事の方が、だ、大事なので、全然、だ、大丈夫……です」
何事かと思って身構えたものの、お仕事なら仕方のないことだし、そちらを優先してもらいたいと思った。
「実は、森野のお兄さんが〝森のくまさん@小熊木工店〟のSNSを会社やクライアント先で何かと話題にしてくれているみたいで、そこから俺の家具に興味を持ってくれた顧客から問い合わせがあってな、ひとまず狐坂が話を聞きに行くことになったんだ」
すると、小熊さんが思わぬ事情を教えてくれた。
「え、お、お……お兄ちゃん、が……?」
「ああ。SNSにアップすると毎回必ずチェックしてくれているんだ。妹思いのお兄さんだな」
家では相変わらずお互いその話題に触れることはないけれど、私がいないところでは話してくれているのかと思うと、むずがゆいような気恥ずかしさを感じつつも、兄なりにミニチュア作りを応援してくれていることに、胸がじんわりと暖かくなる。
そして、こんな私でも少しは小熊さんたちの役に立てたような気がして、嬉しかった。
「いや〜、これも咲ちゃんのおかげだよ。張り切って営業してこないとね! ただ、それで打ち上げには行けなくなったんだけど……」
「き、気にしなくて、だ、大丈夫です。ま、また、今度……」
正直、人生初の打ち上げをこっそり楽しみにしていたので少し残念に思う気持ちもあった。けれど、それはまた日をあらためて行けば良いだけのことなのでそう言おうとした次の瞬間、狐坂さんから驚きの発言が飛び出た。
「いや、その日行けないのは僕だけだから、せっかくもうお店も予約してるんだし、小熊と咲ちゃんの二人で行っておいで」
「うぇ、えぇっ……!?」
いきなり心臓をギュッと掴まれたような衝撃が走り、つい変な声を上げてしまった。
「おい、狐坂……」
小熊さんも思わずといった感じで声を掛けるも……。
「何? 咲ちゃんと二人は嫌なの?」
そう切り返されて、一瞬言葉に詰まった小熊さんに、私の心臓もまたドキッと大きく音を立てた。地蔵のように固まったまま、小熊さんの返答を固唾を呑むようにして待っていると……。
「嫌なわけないだろう。むしろ俺は……」
そう言いかけた、小熊さんだったけれど……。
「いや、今はそんなことより、そもそもこれは森野が狐坂のために……」
結局、途中で話をかえた。
「でも、今回の話がまとまれば小熊も当分忙しくなるだろうし、今のうちに行っとかないと咲ちゃんと二人でゆっくり出掛けられる機会も、しばらく先になると思うけど?」
狐坂さんにそう言われた私と小熊さんは、どちらからともなく自然と相手に視線を向け、お互いの目と目が合った瞬間、何だか一気に顔が熱くなるのを感じた。
「そのかわり、咲ちゃんにちょっと作って欲しい物があって、僕への報酬はそれにしてもらっていいかな?」
鼓動が激しくなる中、私は狐坂さんのその言葉にコクコクと頷くだけで精一杯だった。
そうして結局、二人で出掛ける事で話がまとまると狐坂さんは早速、営業の資料作りに取り掛かった。
一方、私は一旦気持ちを落ち着けようと給湯室に向かい、ふう、と大きく息を吐き出した時だった。
「森野、本当に俺と二人でいいのか?」
追いかけてきた小熊さんに後ろから声を掛けられて、思わずドキョキョッと心臓が飛び上がった。
思わぬ形で二人っきりで出掛ける事になり、思わずどぎまぎとしてしまう。
これまで帰る時は家まで送ってくれたり、作業中に二人っきりになる事も何回かあったけれど、ここ最近はみんなで作業する事も多かったので、あらためて小熊さんと二人きりになる事を意識すると、否応なしに緊張が高まっていく。
それに、こんなふうに二人でどこかへ行くのは何気に初めての事で、私にしてみたらそれこそ、まるでデートみたいな……。
前回、狐坂さんに聞かれた時は、ちゃんと違うと言えたけれど、今、小熊さんに同じ事を聞かれたらと思うと……。
その時、あらためて私の小熊さんへの気持ちが特別なものだということを自覚させられた。
たまたま、二人で行くことになっただけで、これはあくまで打ち上げなんだと、必死に言い聞かせてみたけれど……。一度、意識してしまったら、しばらく元に戻れないんじゃないかってくらい、強く胸が高鳴っていた。
色んな感情がぐるんぐるんと全身を駆け巡り、思わず黙りこくったままになっていると…。
「……やっぱり狐坂のことが、気になるか?」
ふいにそう聞かれて、私はよく考える事が出来ないまま、なかば無意識にコクンとうなずいていた。
何だかんだでSNSの撮影や犬飼さんのミニチュアハウスを提案してくれたのは狐坂さんで、もちろん小熊さんの大きな協力もあって、おかげでこんな自分の作った物でも楽しんでくれる人がいるんだって少しは思えるようになった気がする。
「狐坂さんには、と、とても、感謝しています……。だ、だから、い、行けなくなったのは、ざ、残念です……」
そうは言いつつも、気がつけば邪な思いばかりに気を取られてしまっている自分が恥ずかしかった。
「そうか……」
「あ、で、でも……こ、小熊さんと……い、い……」
一緒に行けるなんて、私にとったらすごく嬉しいことだけれど、その一言を口にする勇気が出なくて……。
なかなか次の言葉が出てこない私の様子に、いつもならどんなにたどたどしくても最後までちゃんと聞いてくれていたのに、この時はめずらしく小熊さんが私の話を切り上げると、
「大丈夫だ。確かに、狐坂は天邪鬼なところがあるが、ああ見えて内心、とても打ち上げを楽しみにしていたんだ。だから心配しなくても、アイツなりに森野のことを大事に思っているはずだ……」
そう言ったのだった。
◇◆◇
それからというもの二人っきりで出掛ける日が近づくにつれ、日に日に緊張と動悸がどんどん強くなっていった……。
「今、作っているのは、もしかしてこのあいだ狐坂に頼まれたものか? 少し見せてもらってもいいか」
「あ、は、はは、はいっ……! ど、どうぞ……あっ!?」
作業をしている途中、小熊さんにそう声を掛けられたものの過剰に反応し過ぎたせいで、手元の物が作業台から転がり落ちそうになった。
それを同時に受け止めようとした時、私の手を小熊さんの大きな手が上からギュッと握るような形になってしまい、その瞬間、心臓までギュッと締め付けられたような気がした。
「ヒョエッ……」
思わず変な悲鳴を上げると、小熊さんの手をパッと振り払うようにして自分の腕を引っ込めてしまったのだった。
「あ、悪かった……つい」
「い、いえ……わ、私の方、こそ、そ、そんな、つまりは、なくて、ご、ごご、ごめんなさい……」
小さく謝る小熊さんに、ついそんな態度をとってしまったことにハッとしたものの、動悸が治まらず声が震えてしまった。
「嫌な思いをさせたなら……すまなかった。今度から気をつける」
違う……。
小熊さんに触れられて嫌な思いなんて1ミリもしない。むしろ、胸がきゅーっと締め付けられてドキドキするほど嬉しいはずなのに。
だけど、必死に想いを押し込めていないと、どんどん勘違いしてしまいそうで、それが怖かった。
これまでコミュ症の私にとって恋愛というのは漫画や小説やドラマの中の出来事であって、それを観て疑似体験するばかりだった。
誰かを好きになった時の、込み上げてくるような感情に振り回されたり、全然上手くコントロール出来ないもどかしさは、確かに本に書いてある通りでもあったけれど、リアルはその何倍も目まぐるしくて、何十倍も切ないということを実感した……。
それからも小熊さんは何かと話しかけてくれたが、私は勝手にギクシャクしてしまい……。
「森野、ちょっと見てくれないか。ここなんだが、どうだろう?」
いつもなら、そう聞かれると間近でかじりつくように眺めていたのに、
「そこからだと、見にくくないか?」
「だ、だだ、大丈夫です。こ、ここ、からでも、ちゃ、ちゃんと、見えて、ます……」
「……そうか」
自分でもよくないと頭では分かっていても、つい小熊さんから距離を取ってしまっていた。
コミュ症の私は初めての恋心を、完全に持て余していたのだった。
そして、自分の気持ちにいっぱいいっぱいで、そんな私の様子を小熊さんがどう思うかなんて考える余裕もなかった……。




