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第19話~救い

 兄さんが学校を出て、街に飛び出すのを私は校庭の茂みに隠れこっそり覗いていた。やっぱり私のことを心配してくれているんだ。昨日はきっと疲れて苛々していたか、「あの女」に変なことでも吹き込まれ毒されたのだ。やはりあの女は消すべきだ。

 

 そう、私たちのために。


 兄さんは人通りの多い路地に入った。辺りをせわしなく見回している。私がよく通るルートを中心に散策しているらしい。事実私は兄さんとここを通ってデートという名の散歩をしていたのだ。


 二十メートルほど後方から離れたところで私は兄さんを観察していた。必死に私を探す兄さんを見てると、今すぐ抱きついてキスしたくなる。


「すみません、この辺りで秀明高校の制服を着た、十六歳くらいの女の子を見ませんでしたか」


「いえ、申し訳ないけど見てないわね」


「そ、そうですか……」


 兄さんが通勤中のOLから必死に情報を集めようとしていた。私は歯軋りをしながら少し離れたところでそれを見つめる。


 私のことを探してくれるのは嬉しいが、話す相手には十分気をつけてほしい。万が一などないけど、兄さんが私以外の人と話すだけで身の毛がよだつ。

 あの女と一緒に家から出てくる時もそうだった。つい手ごろな石で、あの雌豚の頭を砕いてやろうかと思ったが、それでは私が兄さんのそばにいられなくなる。行動するなら目立たないようこっそりと、だ。そうせざるを得ない犯罪規制の法律を私は恨んだ。


 大体私は、物心つく前から虐待されて育ってきた。それがなぜ普通の女の子として生活できているのかと言えば、兄さんがいたからだ。兄さんが私の闇を埋めてくれたから、私は奈落の端に一歩踏みとどまることが出来、今もこうして生きながらえているのだ。


 私は愛などとは無縁の環境で生まれた。今日の食事をするのも命がけ、娯楽という娯楽は一切与えられず、少しでも泣き言を言えば暴力を振るわれ、そのたびに体の痣は増えていった。

 家族とは私にとって信じられる存在ではなかった。そう断定できる記憶がないのだ。だが私はパパやママの為にいい子であり続けようと必死に努力した。そして五歳になる頃には感情を捨てるすべを身につけ、殴られても我慢できるようになっていた。


 私はいい子であれただろうか。もう確認しようもない。

 私が両親を殺したのだから。


 いい子になろうとすればするほど、逆に私への暴力は増していった。鼻から血が出て、呼吸が出来なくなり、視界も霞むほどの痛み。あれは筆舌に尽くしがたい。母は私に食事をほとんど与えなかった。当然成長期だった私に大きく影響を与えた。そして心因的ストレス、過度の栄養失調から私は味覚の一部を失った。渋みや苦味の味がわからず、常に甘みだけの感覚しかないのだ。このことは兄さんにも言っていない。言えば兄さんは私の為にもっと苦しむことになる。だから仕方なく私は料理が不得意ということで話を通していた。


 確信はあった。親は私のことなど心底どうでもよくて、むしろいなければいいと思っていることが。自分は望まれていない子供なのだ。努力しても努力しても、それだけは変わらない一点だった。


 私は薬局に行き、水銀を購入した。まずは父親からだ。あいつは幼い私に徹底して暴力を振るった。幼稚園の先生から聞いて、大量に飲むと腸に穴が開く事を知ってのことだ。あいつはなんの疑いもなく私が注いだ酒を飲んだ。口に含んだ瞬間、あいつは喉をかきむしり、苦しみながら絶命していった。


『あ、あなた! どうしたの!?』


 駆け寄る母に何の躊躇いもなくバットで殴打した。ママは自分のことばかり優先して私から味覚を奪った。だから父親よりずっと丹念に、自分が何をされているのかわかる程度に甚振り、そして殺してやった。

 

 これが、5年間共に暮らしてきた両親の最期である。


 

 そして私は新道家に引き取られることになった。兄さんとの出会いはこの時だ。だが激しい憎悪を抱き両親殺害したこと、その憎悪を向けた相手も今はいないことから、私は魂の抜け殻と化していた。


「はじめまして。標といいます。今日からお世話になります。よろしくおねがいします」


 だから最初兄さんを見ても大して興味が沸かなかった。だが私に向けてきた笑顔が気になった。そう、兄さんは私に笑顔を向けてくれた初めての人なのだ。


「おう、よろしくな! これから一緒にくらすんだから、遠慮は抜きだぜ」


 兄さんは無邪気に笑いながら挨拶した。怒りや憎しみの感情しか見てこなかった私は、一体なぜ笑っているのか、全くわからなかった。


 公園に誘われた時も、特に何とも思わなかった。この家ではもう虐待される心配がないとはいえ、私は人というものが信じられなくなっていた。だが公園に出かけるくらいならいいか。そんな程度の気持ちで私はついていった。


「砂遊びしようぜ」


 兄さんは砂場の真ん中を陣取って私に声をかけた。なぜ遊ばなければいけない? 楽しむことは善人にだけ許された特権だ。

 そんなことを考えていると、兄さんはお手製の城を作りながら言った。


「一緒にやるんだよ。俺たちくらいの子供はみんなこうやって遊んでるぜ」


「わたし、やったことないです」


 そんな遊びなど出来るわけがないだろう、と思いながら答えた。私の記憶にあるのは数え切れないほどの暴力だ。一般家庭に育った子供と同様の遊びなど、知っているわけがない。


「だったらこれから覚えりゃいいじゃん。お前さてはほんとにバカだな」


 バカ、というのはどういう意味なのだろう、と私は眉を潜めた。幼稚園に通ってる頃は同年代の子より成績がよかったはずだ。


「あたし頭悪くはないです。幼稚園では先生にいっぱいほめられました」


「そういうことじゃねえの。なんていうか、人生て楽しんだもの勝ちじゃん。お前見てると、わざと暗い考え方してるように見えるぞ」


 それはそうだろう。いかに毎日虐待を受けていたとはいえ、実の両親を殺して自分だけ幸せな家庭を築こうなどとは私も考えていなかった。どんな理由があろうと人殺しは人殺しなのだ。ましてや親を殺した自分に、どうやったら幸福になる権利など与えられようか。

 

 私は顔を伏せながら、ボソボソとつぶやいた。


「わたしは……ひとごろしだから……」


「ひとごろしってさ。悪いやつのことじゃん。いたいけな子供に暴力ふるうおとなをこらしめるのが、どこがいけないわけ? 俺はそうは思わないね。だからお前も気にすることないぞ」


 確かにそうだが、それは詭弁だろう、と私は思った。というよりもそこまで追い詰められたことのない人間には、わかるはずがないだろう、と。


「さつじんはんが妹になるの、いやじゃないんですか?」


 だが、私は兄さんに答えを求めた。この人は嫌な顔を向けてこない。蔑むようなことも言って来ない。ちょっとだけ話を聞いてみたくなったのだ。

 

「言っただろ。気にしねえって。それより、砂の城作るの手伝ってくれ」


「は、はい」


 私は無意識に返事をして、兄さんの隣に駆け寄っていた。幼稚園にいた時は、同年代の男の子はがさつで無神経なのでなるべく近寄らないようにしていたのだが。慣れない手つきで兄さんの真似をして砂を手で固めていく。


「わたし、悪い子なんです」


「良い子悪い子で言ったら、おれだって悪い子だよ。お前ほんとは泣きたいくらい悲しかったんだろ。でも泣かなかった。家に来てからずっと。おまえはえらいよ」


 兄さんは私がしたことを知って、尚許されていいと言った。だが私にはそう思えなかった。気に入らないことがあれば刃を向け傷つける。あの親と一緒だ。


「そんなこと、ないです」


 私は嫌悪の感情を込めて首を横に振った。

 だが兄さんは何事もないように続ける。


「だいたい自分の子供をいじめる親が悪いんだよ。そうしなきゃお前が死んでたかもしれないんだし、お前のしたことはまちがいじゃねえよ」

 

 兄さんの言葉は、頭の中にまるで重石のようにのしかかった。今思えば考えられないことだが、そのときの私は兄さんの甘ったるい考えに吐き気がした。


「そんなことないっ!」


「うおっ」


 兄さんは驚いて顔を上げた。

 今まで大人しかった子が急に怒鳴ったのだから当然だ。


「ど、どうしたんだよいきなり」


「わたしはあの親がうっとうしいから殺したの! わたしがもっと良い子にしてれば、パパもママもわたしのこと大事にしてくれた! そうすれば、わたしだってあんなことしなかった……」


 今まで蓄積していた感情。私さえいい子であればという後悔だ。パパやママも、きっと生活に疲れていて私を愛してくれる余裕がなかったのだ。ひょっとしたら逃げ出すことも出来た。なのにこの手にかけてしまったのは、この胸にどす黒い悪意の塊があったからに他ならない。はっきり言ってしまえば嫌いだから殺したのだ。


 でも……

 それならば私は、何の為に生きているのだろう?


「お、おい。おちつけよ」


「わたしなんて生まれてこなければよかった! そうすればパパもママも死ななかった! 誰も不幸にならなかった! あなたの親にも、迷惑かけなかったのに!」


 私は外聞も気にせず頭を振って泣きじゃくった。助かりたかったのではない。救われたかったのでもない。ただ、教えてほしかったのだ。私の今までは振り返りたくもない道だった。ならばこれから進む未来は、どう生きていけばいい?


「わたしなんか。わたしなんか……」


「しるべ」


 兄さんはそっと私に声をかけた。

 そして恥ずかしそうに作った“それ”を見せる。


「それ、なに……?」


 でこぼこで、今にも崩れてしまいそうだったが、それは『お城』だった。

 兄さんは照れくさそうに言った。


「砂のお城。今はこんなちっぽけだけど、いつか本物みたいなお屋敷をおれが作ってやる。そしたらおまえを」


「わたしを……?」

 食い入るように見つめながら尋ねた。生きるか死ぬかというレベルで生活していた私に、この人は何をしてくれるのだろう。

 

「おまえを、おれのお嫁さんにしてやる」


「およめ、さん……?」


 それが何なのかは知っていた。確か、確か……。


「知ってるか? 女の子にとって、世界でいっちばん幸せなイベントなんだ」


 うん、そうだ。いつか夢見ていた時があった。

 囚われの自分を、素敵な王子様が助けてくれることを。


「辛かったら俺を頼れ。苦しくなったら俺のところにこい。楽しいことはいっぱいあるし、悲しいことは半分にしよう。よぼよぼになるまでそばにいてやる。だから」


 兄さんの眼は涙で濡れていた。耳たぶも真っ赤になっている。しゃがれた声で言う彼に、私は救いを求めるように聞き入っていた。

 ああ、この人なら。冷たい海の底に沈んでいた私を助けてくれるかもしれない。幸せにしてくれるかもしれない。一度は諦めかけていた自分の人生を、優しく照らしてくれるかもしれない。


「おにい、ちゃ」


 涙が邪魔で、言葉が上手く出ない。


「だから泣くな。泣いてばっかじゃ、お嫁にもらってやんないぞ」


 あんなことをした私が。


「がまんしたら、お嫁さんにしてくれるの?」


「ああ」


 何もかも失くした私が。


「ずっとずっと、いっしょにいてくれるの?」


「ああ」


 誰にも必要とされなかった私が。


「わたしのこと好きになってくれるの?」


 兄さんは、微笑みながら言った。


「もちろんだ」


 嬉しくて……。


「じゃあ、泣かない……!」


 私は震える唇を必死に歪めて笑顔を作った。どうだろう、これなら合格点だろうか。私をお嫁さんにしてくれるだろうか。


 不安な気持ちで見ていると、兄さんは嬉しそうな顔を向けてくれた。


「いい笑顔じゃん」


 そして優しく私の頭を撫でてくれた。私は生きていてもいい存在なんだ。だって、兄さんがお嫁さんにもらってくれるんだもの。


 私は兄さんの腕の中で、お腹の底から涙を流した。こらえようとしても、何度も何度も溢れてくる。死んだように生きてきた私にとって、人並みに泣けるんだという実感はどうしようもなく嬉しかった。


「兄さんは、あのときのことを忘れているかもしれない。でもいいの。思い出してもらうから。じゃないと、私が兄さんのお嫁さんになれないから」


 私は携帯電話を取り出しボタンを数回押し送信した。宛先は勿論兄さん。もはや私のメールアドレスには、兄さんの番号以外登録されていないのだから。


 文面はこう。


 「伝えたいことがあります。町外れの廃工場にて待っています。必ず一人で来てください。標より」

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