第16話~嘘
「あら、おかえりなさい。遅かったのね」
家に帰ると、いつも帰りの遅いお袋がソファに座ってテレビを見ていた。
「まあちょっとな」
ちょっとどころの騒ぎじゃなかっただろ、と心の中で突っ込んでみる。
「ご飯は?」
「いいよ別に。食欲がねえんだ」
そう言うと、お袋は驚いたような顔で俺を見た。
「食欲がない? 進が?」
俺は弁解するように言った。
「いや、なんつーの? 夏バテみたいな? あれだよあれ」
「信じられないわねえ」
お袋は指を頬に当ててつぶやいた。
「別にいいだろうが。そんなこと」
「進」
お袋は真剣な表情で言った。
「なにか、あったのね」
「……」
俺は黙り込んだ。お袋の視線が何もかも見抜いているようだったからだ。
「別に、隠さなくたっていいのよ」
そんな俺の心中を知ってか知らずか、お袋は続けた。
「あなたも標も、私にとっては大事な家族よ。悩むときは沢山悩めばいいわ。でもあなたたちの帰る場所はちゃんとここにある。それだけは忘れないでおいてね」
「お袋……」
「それに」
俺が喋ろうとするのをお袋は遮った。
「そんな顔してたら標ちゃんも悲しむわよ? あんた頭は悪いけどそれなりにいい男なんだから」
お袋はそう言って笑った。普段何も考えていないようで、ちゃんと俺たちのことを見てくれていたんだ。
「お袋」
「なあに」
「さんきゅな。ま、親なら当然のことだけど」
「あら、言うようになったわね」
「俺もいつまでも子供じゃないんだぜ」
「どうだか。あっ、そういえば標ちゃんがあんたが帰ってくるのずっと待ってたわよ。兄さんがなんでも言うこと聞いてくれるって喜んでたんだけど、それ本当なの?」
「……なんでも、とは言ってなかった気がする」
「はあ」
お袋は小さくため息をついた。
「いい加減なことばかり言ってると、そのうち標ちゃんに刺し殺されるわよ」
「冗談に聞こえねえよ」
「うふふ、冗談じゃありませんよ、兄さん」
すぐ後ろで標の声が聞こえて、俺は飛び上がって驚いた。
「お、おまえ。いつの間に」
「兄が帰ってきたら迎えて差し上げるのが妹の仕事です☆」
胸を張って標が言った。そして、
「ところで兄さん? 少しお話があるんですけど、私の部屋まで来ていただけますか?」
口元は笑っているのに目元はまるで笑ってなかった。十中八九ロクでもないことを考えているに違いない。
「い、今お袋と話してたんだけど」
なんとかその場しのぎをしようと俺は言った。
「明日じゃ駄目か標。進路について大事な話があるんだよ」
「私も今後の人生について大事なお話があります」
「そ、そうなのか」
「はいな」
「わかりました……行きます」
「理解のある兄さんで大変助かります♪ さあ、いきましょうか」
標に引っ張られてリビングを出る俺にお袋が小さく、
「ご愁傷様」
と言うのが聞こえた。
「兄さん!」
部屋に入ると、突然標が抱きついてきた。
「おい、標……」
俺はあたふたしながら言った。
「まずいって。お袋だっているんだから」
標は答えず、ひたすら俺の胸に頬を摺り寄せていた。そして三分ほどたっぷり抱擁を交わすと、名残惜しそうに体を離した。
「……こんなんじゃ、ぜんぜん足りないです」
今日は山ほどスキンシップをしたはずだが、足りなかったらしい。
「兄さんがきちんと構ってくれないから、私溜まってます」
「いちいち報告しなくていいよ、んなこと」
俺はそう言って標を引き離した。
「それより、話ってなんだよ?」
「なにって、放課後の話ですよ。私、考えたんですけど」
俺は地雷を前にした兵隊のような顔で、標をみた。
「婚約……というのはどうでしょう? もちろん、断られるはずはないと思いますけど」
「いや、普通に駄目だろ。他にはないのか」
「ありません」
「いや、そんな即答されても……兄妹で結婚てめちゃくちゃじゃねえかよ」
さっきお袋の言ってた『ご愁傷様』ってこれのことかよ。くそ。
「いいか、標。俺たちは兄妹なんだぞ。婚約なんてできないんだ」
「私は一向に構いませんし、兄さんもそうだと信じています」
「あのなあ。その、なんだ」
やっぱりちゃんと言わないと駄目か。
俺は意を決して哀華とのことを話してみた。
「俺、哀華と付き合うことになったんだ」
「……え?」
「だから、おまえはおまえで誰か違う相手を探したほうがいいと思うぞ。なんだったら俺も協力するからさ」
「兄さん、今日はエイプリルフールじゃありません」
「知ってるよ。俺は嘘なんかついてない」
「嘘でなければ冗談ですか。もう、兄さんも人が悪いですよ?」
標は明るく笑って叱るような仕草を見せた。
「…………」
だが、俺が何も反応しないのを見ると、口元の笑みを止めた。
「兄さん、どうしたんですか? 嘘だよと言ってくださいよ」
「本当のことなんだよ。俺は哀華と付き合うことにした。まあ、これから先続くかどうかはわかんねえけど。とりあえず仮定の話だからさ」
できるだけ傷つけないような言い方をしたはずだった。が、それも標にはすべて無駄だった。
「なん、ですかそれ…………」
「いや、確かに急な話ですまなかったけど。でもいずれは、な?」
俺の言葉に、標は黙ったまま俯いていた。聞き取れないほどの小声で何か呟いている。
「……どうして、ですか」
ふいに標が言った。
「にいさん、どうして……」
「ごめん。お前とは付き合えない。お前もいい人を見つけたほうがいい」
すると標はすがりつくような眼を俺に向けてきた。
「何なんですか兄さん。私なにか悪いことしました? 謝りますから言ってください」
「違うよ。お前のことが嫌いになったわけじゃない。誤解しないでくれ」
「じゃあ、私のこと好きでいてくれてるんですよね」
「それは……兄妹としてはな。でも恋人にはなれない」
「そんなのおかしいです」
「……間違ってるのはお前の方なんだよ」
「どういう意味です?」
「わかってるだろ? 近親婚なんて法律じゃ認められてない。誰からも認められない、寂しい人生を送るハメになるんだよ」
「そんなことはありません! いえ、私はそうは思いませんよ!? 兄さんと一緒になって不幸になることなんてありえないです!」
標は声を荒げている。こんなに興奮してる標を見るのは久しぶりだ。
「学生のうちはな。でも、これから社会に出るんだ。いつまでもお互いに依存してちゃいけない。だから俺は哀華と付き合うことにしたんだ」
ゆっくりと、俺は標を説き伏せようとした。
すると標はしばらく無言になりそして言った。
「やっぱり柊さんは危険でしたね。授業中仲良く兄さんとお喋りしてるのを見たときから、手を打っておくべきでした」
「怖い言い方するな。まだそこまで仲良くはなってないぞ」
「うそをつかないでください」
「嘘なんかつくかよ。俺まだあいつのことよくわかんねえし」
「柊さんの方ですよ。兄さんのことあんなねっとり舐めるような眼で見て。あれで関係を疑うなと言うほうが無理です。信じません信じません信じられません!」
標は同じ言葉を何度も繰り返した。
「そう、こんなことは嘘なんですよ」
「え?」
「兄さんは私のものであって他人に心を許すようなことはあってはならないんです。何度も言いましたよね? 浮気は駄目だって」
「……標」
俺は胸を痛ませながら言った。
「お前がそんな風に思ってくれるのは凄くうれしいよ。でも、俺たちもケジメくらい自分でつけれるようにならなきゃ駄目なんだ。このままズルズル行ってお袋になんて説明すればいい? 死んだ親父になんて顔すればいいんだ? そこをしっかり考えろよ」
「そんなこと、心配する必要もないことなんですよ」
そう言って標は俺の首に手を回した。
「周りのことなんて一切考えないで幸せを教授すればいいんです。誰だって自分のことを考えるので精一杯なんですよ。口うるさい世間の声なんて、無視してしまえばいいんです」
そうして標は俺の耳元に口を近づける。
「さあ、私と一つになりましょう。兄さん」
「や……」
そのとき、俺の頭の中で何かが切れた。
「やめてくれ!」
俺は思い切り標を突き飛ばした。そのまま机にあたってノートやペンが転がり落ちる。
「あっ」
思わず俺は標に駆け寄った。
「し、標。大丈夫か!?」
しかし返事はない。標は壊れた人形のように、意味の分からない言葉を発するだけだった。
「に、兄さんが、わた、わた、しを、きょ、ぜつ、した」
「お、おい? 標!?」
「…………」
「標! 大丈夫か! 標!」
「あああぁあぁああああああ!」
標は大声を上げた。そして走って部屋から出て行った。
「おい、待てよ! 標!」
追いかける俺を突き放すように、標の部屋から鍵がかかる音が聞こえた。
でもそんなことは構っていられない。俺はドアを全力でたたいた。
「標! 聞こえてるんだろ!? あけてくれ!」
「……こないでください」
搾り出すような声が、中から聞こえた。
「今は兄さんの顔を見れません。どうかそっとしておいてください」
俺が声を出そうとしたとき、肩に手を置かれた。
「進。やめておきなさい。今は悪戯に刺激しちゃ駄目」
「お袋……? で、でも標が。あいつが今苦しんでるのに」
「あんたが行って何をしてやれるの?」
お袋は鋭い眼を向けた。俺は何も言い返すことができなかった。
そんな俺に、お袋が優しく言った。
「今あなたにできる事は、標ちゃんを信じてあげること。それが、お兄さんとしてあなたに出来る最大の事でしょ」
お袋の言葉が、火照った体に冷水を浴びせたように効いた。
「わかったよ……」
俺がそう言うと、お袋は笑って俺の肩から手を離した。
心底嫌な気持ちを抱えたまま俺は部屋に戻った。時間は夜の十二時を回っていた。明日哀華にどんな顔して会えばいいんだろう。ふと俺は思い出してカバンの中から白い封筒を取り出した。
本当の哀華が残した遺書。俺は恐る恐る空けて中を読んだ。
そこには虐げられた少女の苦しみが克明に綴られていた。理知的な文字がびっしり並んでいるが加害者の名前が特にあるわけでもなく、人生に疲れたとか、自分が駄目な人間だから苛めにあうとか、どちらかというと諦めに近い文章が書き並んでいた。
読んでいて気持ちのいいものでは決してなかった。哀れみを抱いたところで、これを書いた本人はもう戻ることはない。そして人々はこのことをいつしか記憶から忘れ、次の虐めが起こるんだ。生臭い人間の悪意があらわになって自分を取り巻いてるような気がした。
最後のほうを見ると、一行改稿された文章が目についた。もしかしたらこれが親父さんが言ってた例のことかもしれない。俺は注意して読んでみた。
「――これは……」




