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銅臭時代

 司馬孚は光和三年(西暦180年)の生まれである。

 四歳の時に黄巾の乱が起こり、九歳の時に董卓による洛陽占領が起こっている。

 従って、物心ついた頃には、銭というものは枯渇していた。


 漢の地に銭を不足を招いたのは、霊帝劉宏であった。

 地方の貧乏貴族で、日々の生活にも事欠いていたという。

 そんな少年が先帝の桓帝死後、皇帝に擁立される。


 高祖劉邦が建国した漢は、第十代皇帝元帝皇后の一族、即ち外戚の王莽によって滅亡した。

 その王莽による混乱期を制し、光武帝劉秀が再興した後漢という帝国も、これまでに三度外戚による専横を経験して来た。


 第四代和帝継母の竇氏、

 和帝皇后の一族で第五代殤帝と第六代安帝の代に臨朝していた鄧氏、

 安帝皇后の一族で第七代少帝懿を生後一年に満たずして擁立した閻氏、

 閻一族を倒し擁立された第八代順帝皇后の一族の梁氏。


 特に光武帝に仕えた草創期の功臣の梁統の子孫である梁氏は、沖帝、質帝、桓帝の三代に渡って権勢を振るった。

 これら外戚を倒す時に皇帝に協力したのが宦官である。

 この宦官に侯という地位と養子を認め「家」を立てる許可を与えた桓帝の死後、外戚竇氏と士大夫の陳蕃によって劉宏が擁立された。

 そしてこの擁立は結果から言って、失敗と言えよう。


 霊帝という諡号を送られる事になるこの十二歳の少年は、銭に魅了される。

 地方貴族でいた時、余りにも貧窮していた反動もあり、とにかく銭を集めた。

 彼には銭は天下のもので、天下が潤えば朝廷も潤うという発想は無い。

 銭を兎に角集め、その銭を更に皇帝に集める為、宮殿内で商人の真似をしたりした。

 こうして宮中に銭を集めるのに一役買ったのが、宦官たちである。

 元々後ろ盾も無い霊帝は、宦官と切っても切れない仲となる。


 銭を集める政治、宦官主導の政治を「濁流」と批判した「清流」派の士大夫は、霊帝と宦官によって弾圧される。

 そして、この党錮の禁の後、売官政治は加速する。

 地方の太守は中央の高官「三公」と同じ五百万銭で取引された。

 これだけ払っても、地方から税と称して搾取すれば元が取れる。

 また、商人たちも名誉職を五百万銭で買ったりした。


 こうして銭が宮中に集まると、宮中内では売官の価格高騰(インフレーション)が発生する。

 地方官は五百万銭では安くなり、一千万銭で取引される。

 その高騰した官職を買った分を取り戻す為、地方では更なる苛斂誅求が極まる。


 そして全てを失った地方の農民は、ある宗教に依存する。

 張角という男の開いた太平道である。

 この太平道はやがて、漢を奪おうと画策したようだ。

 密告があり、洛陽で蜂起しようとした者が処刑されると、太平道の信者たちは頭に黄色い頭巾を巻いて決起する。

 「黄巾の乱」の始まりであった。


 この黄巾の乱で後漢は終わり始める。

 黄巾の乱鎮圧に当たったのが、あの何晏の祖父である何進大将軍であった。

 何進は、霊帝の何皇后の兄で、外戚に当たるが、梁氏や竇氏という豪族や功臣の子孫等ではなく、肉屋を営むものであった。

 その何進と、霊帝の周囲で権勢を振るう宦官十常侍とが協力し合い、黄巾の乱は制圧された。


 しかし、地方に銭無く、宮中にのみ大量の銭がある状況は改善される事は無かった。

 地方に反乱は後を絶たない。

 その上、霊帝が病に倒れると、その後継を巡って争いが始まる。


 何進は妹の子が皇帝となれば外戚として今後の立場も安泰である。

 しかし、霊帝には何皇后の兄の何進の他に、母親の董太后の兄の董重が外戚としていた。

 董重と董太后の兄妹は、十常侍の蹇碩と組み、霊帝と王美人との間の子・劉協を皇帝に擁立しようとした。

 それに対し何進と何皇后の兄妹は先手を打ち、軍事力で董重の館を囲んで圧迫し、何皇后の子の劉弁を即位させた。

 この時、蹇碩以外の十常侍、趙忠や張譲らは何皇后についている。


 これで何進の勝利かと思いきや、今度は何進と十常侍の対立が起こる。

 何進を中軍校尉の袁紹が焚きつけ、宦官排斥政治を訴える。

 しかし妹の何皇后は、手足となって動く宦官無くして政治が出来ない。

 兄は妹の地位無くして権勢を振るえず、妹は兄の嫌う宦官無くして皇帝の母として政治が出来ない。


 二進も三進もいかない何進に対し、袁紹は地方の武将を洛陽に招こうと提案する。

 地方武将の武力で宦官を廃し、その軍事力を使って政治を行おうというものだ。

 これに対し、盧植・陳琳・曹操らが反対した。


 地方の武将は強欲で、中央の政治等無視して全てを破壊する?

 否、おそらく曹操たちに見えていたのは、地方を荒廃させて栄える都・洛陽への地方からの恨みであった。

 ただでは済まないだろう。


 その反対を押し切り、何進・袁紹は地方武将を呼び寄せる。

 その圧力に脅えた十常侍は、何太后の名を使って何進を宮中に呼び寄せ、暗殺する。

 何進の首を見た袁紹は怒り、武力蜂起に至る。

 しかし宦官たちは皇帝劉弁、陳留王劉協の兄弟を連れて、都から逃げ出した。

 そして董卓に捕まる。

 董卓は皇帝を保護し、その後ろ盾として堂々と洛陽に入城した。


 董卓と、霊帝の母・董太后の一族とは別に血縁があった訳ではない。

 だが董卓は、董太后を脅した事を理由に何太后を失脚させ、死に追い込んだ。

 皇帝劉弁を弘農王に格下げし、聡明な劉協を皇帝に擁立する。


 洛陽には何進の兵力があった。

 何進一族の何苗と部将の呉匡、董旻が兵を率いていた。

 董旻は董卓の弟である。

 何苗は、何太后と組んで宦官の必要性を訴えていた。

 その為、呉匡から酷く恨まれていた。

 董旻は呉匡を兄の元に連れて行く。

 そして呉匡の訴えを聞く形で何苗を殺害し、弟と共に呉匡を追い払って、その兵力を董卓軍に糾合する。


 董卓と共に呼ばれた地方武将に丁原がいる。

 北方の并州刺史や騎都尉を務めていた男で、賊を追う際にはいつも先頭に立つ猛将であった。

 この男を董卓は、属僚の呂布を篭絡して殺害、その軍勢を収める。

 もう一人呼ばれていた橋瑁は、洛陽から少し離れた地に駐屯していて、難を免れた。


 こうして洛陽周辺の軍を糾合した董卓の治世が始まる。

 その第一歩は、通貨政策であった。

初平二年(191年)


司馬防  42歳

 司馬朗 20歳

 司馬懿 12歳

 司馬孚 11歳


曹操   36歳

 曹丕   4歳

夏侯淵

 夏侯覇 10歳未満??


劉備   30歳

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