夏侯覇亡命
夏侯覇は、魏国の重要氏族・夏侯氏の一員である。
魏の事実上の創始者・曹操は、後漢後期の大宦官・曹騰の孫である。
宦官は男性の生殖器官を手術によって取った者であり、宦官になって以降実子は生まれない。
曹騰は、夏侯一族から養子を迎えた。
それが曹操の父親の曹嵩である。
夏侯氏は曹操とは血縁上極めて近かった。
夏侯氏は、夏侯惇系、夏侯淵系、夏侯尚系、夏侯儒系の四系統がある。
夏侯儒系は曹操の子の任城王曹彰に仕えたが、文帝の時期に蜀・呉両国との戦いに遅参したり不戦だったりで振るわない。
夏侯尚は、文帝から信頼され、親友同然のつき合いとなった。
寵愛甚だしく、その子の夏侯玄の声望も親依頼のものである。
夏侯覇の父親・夏侯淵は、曹操の挙兵以来の有力な武将であった。
漢中攻防戦で蜀の劉備軍と戦って討ち死にする。
これから見ると、夏侯覇にとって蜀とは不倶戴天の仇に見える。
蜀の有力武将に張飛という男が居た。
皇帝となった劉備の義弟である。
この張飛の妻は夏侯覇の従姉妹であった。
張飛に攫われたという事になってはいるが……。
その張飛と夏侯氏の女との間に2人の娘が生まれる。
そして2人とも、現在の蜀で皇帝を名乗る劉禅の皇后となっていた。
つまり、蜀の皇后は夏侯一族であり、両家には繋がりがある。
夏侯玄は、夏侯覇の従兄弟である。
夏侯玄は曹爽の従兄弟でもある。
夏侯玄は征西将軍・都督雍涼二州諸軍事として蜀と相対していた。
この夏侯玄が中央に召喚され、代わりに蜀と対する征西将軍が夏侯覇と不仲の郭淮に代わった。
途端に、夏侯覇は蜀に亡命する。
夏侯覇の兄弟は多数いるが、関内や燕国という蜀からは遠い場所に居たし、司馬一族の振る舞いについてむしろ賛同している。
それもあってか、夏侯覇は兄弟には声をかけず、ただ従兄弟の夏侯玄に共に亡命しようと誘っていた。
どうやら夏侯覇も、曹爽一派で蜀より銭の供給を受けていたと見て良いだろう。
魏の皇族と親族であり、蜀皇后と血縁上の繋がりがある以上、日々の挨拶や四季の贈り物として使者が出入りしても文句は言えない。
司馬懿は、夏侯覇の弟たちに事情を説明し、これ以上の亡命が出ないよう手を打つ。
夏侯覇の子供たちも、夏侯覇ではなくその父・夏侯淵の功績に免じ、恩赦を受けて楽浪郡に流すだけと穏便に収めた。
そして郭淮に命じ、国境を厳重に警備させる。
果たして夏侯覇は、司馬氏排斥を訴えて、蜀の姜維と共に侵攻して来たのだった。
「如何に蜀では武将が足りぬとは言え、亡命したばかりの夏侯覇が車騎将軍とはな……」
車騎将軍という地位が形式的なものになっているとはいえ、亡命してすぐに高官となる。
夏侯覇の将軍としての実力や、魏の地を知っている地理感を買ったものとも言えるが、司馬一族は蜀との濃い繋がりの結果であると考えた。
蜀野戦軍の事実上の司令官・姜維の官職は衛将軍である。
車騎将軍のその上位にあたる。
建国当時は張飛がその地位にあった。
現皇后の父親と、従兄弟が共に車騎将軍というのも不思議な縁であろう。
蜀の名将は先年死去した鎮北大将軍・王平と車騎将軍・鄧芝の他、左将軍の句扶、征西大将軍の張翼、右車騎将軍の廖化、そして諸葛亮の弟子・衛将軍姜維が挙げられる。
姜維以外は守勢の将軍であり、漢中や隴西で山岳戦・持久戦に出られると大軍の魏でも敗北するが、積極的に攻めて来る敵ではない。
姜維は「武卿侯(諸葛亮)より北伐を託された」と言っていて、彼のみが積極的な攻勢の将であった。
それ故、皇后の従兄弟にして魏の地理を知り尽くし、そして北伐に賛同してくれる夏侯覇を自派閥に容れ、久々に蜀の側から打って出て来たのであろう。
司馬懿は、かつての自軍副将で、夏侯覇とは因縁浅からぬ郭淮に迎撃を命じた。
延熙十二年(249年)の北伐における蜀軍の陣容は、衛将軍姜維と車騎将軍夏侯覇の他、征西大将軍の張翼も付けられた。
攻撃型の二将では不安に感じた蜀の宰相(大将軍・録尚書事)費禕が、無理を言って副将として配した。
総兵力は四万。
その内の一万五千を句安と李歆という二人の牙門将軍に預け、麹山に二城を造らせて、そこに置いた。
魏は征西将軍・都督雍涼州諸軍事を夏侯玄から引き継いだ郭淮と、郭淮の後任として雍州刺史・奮威将軍となった陳泰が迎え撃つ。
郭淮は蜀軍の布陣を見て
「諸葛亮の時と随分違うね」
と陳泰に語る。
陳泰は、魏の人材登用制度である九品官人法を作った陳羣の子で、母は魏の功臣・荀彧の娘という血筋の男である。
司馬懿とは親しく、先年の高広陵の変では司馬懿の使者として曹爽の元を訪れ、抵抗するよりも降伏するよう説いていた。
長く中央に居たのだし、その後は対匈奴の将軍として活躍した為、そう言われても諸葛亮の布陣というのを知らず、言葉に困った。
「ああ、そうか、済まない。
てっきり君も一緒に諸葛亮と戦っていたと思ったよ」
記憶違いを詫びると、郭淮は陳泰に説明をする。
諸葛亮が好むのは、「八陣」とも呼ばれる円形陣、もしくは方陣である。
これは本陣の布陣のみに非ず、全体の布陣にも現れる。
彼は補給の安定の為、陳倉道を抜けて雍州に出ると、遠ざかる岐山に陣を敷く。
しかし魏第二の都・長安方面、異民族も多い涼州方面や隴西方面、北方の天水方面にも将を派遣し、どこを指向しているのか悟らせない。
その陣の置き方、時には同じ軍を二回数えさせるような妙で、総兵力すら把握させなかった。
気付いた時には隴西二郡を奪われていたり、天水から涼州に至る方面を抑えられたりと、変幻自在。
弱点は常に補給と、いずれの道を取るにしても最終的には長安を目指すと読まれていた事。
だが、迂闊に手を出すと広域で後背を脅かされ、空き陣を奪われてしまう。
まともに見ると、多方面作戦の為、全てを守ろうとすると魏軍は失敗する。
司馬懿は多方面作戦と見ず、
「魏軍の司令部こそが目的、魏軍を組織的な抵抗に出させない為、司令部を破壊する。
その為に部下の各軍を分散させ、総司令官をも誘き出して有利な地形で戦おうとしている」
そう看破した。
であるならば、陣を固めて打って出ないのが最善である。
姜維の陣はそれに倣ってはいるが、抑えの陣と攻めの軍とが明白で、同じような形をしていても読みやすい。
諜者の報告からも、陣地の数が全て把握出来る。
今回の総兵力は三万から五万で、十万に達する兵力ではない。
それに、諸葛亮があくまでも長安を狙って見せたのに対し、姜維の軍は同じように西進しても、長安方面への攻めの部隊が無い。
「成る程、諸葛亮という人だと難しかったのですね。
ですが、姜維の場合は目的は明白。
麹山はただの抑えで、東進する拠点に非ず。
本体の姜維は涼州方面へ出て、この州を切り取るつもりでしょう」
「うん、私もそう思う。
そこで貴殿は五万の兵をもって、麹山を攻めて欲しい」
陳泰は徐質、鄧艾という将を率いて麹山に急行し、包囲した。
水を断った為、麹山の二城は困窮した。
急を姜維に知らせる。
姜維は直ちに涼州切り取りと、異民族との協調を放棄し、麹山に向かった。
陳泰は姜維の軍に対し、守りを固めて戦わない。
守っている内に使者を送り、それを受けた郭淮が蜀軍の退路を断つよう動いた。
司馬懿流の陣地防衛戦と、諸葛亮流の広域包囲作戦。
両者の合わせ技に姜維は焦り、本隊のみで逃走した。
雪解け水を飲んで城を守って一万五千の兵と、句安将軍は降伏した。
蜀の大敗で痛手ではあるが、この敗北は特に蜀に大きな傷を残すものではない。
「かつて太傅(司馬懿)様は、諸葛亮は大軍を動かしているようで、実は少数であり、十万や二十万と号して攻め寄せるが、実体は三万程度で補給の負担も少なく、負けても失うものを最低限にしていたと仰っていた。
それに対し我が魏国は、敵に倍する兵力を動かす為、二十万から四十万という兵力を動かしてみせるが、その兵力を動かすだけで国力を消費する。
諸葛亮は僅かな支出で、我が国に莫大な浪費を強いた。
誠に厄介な相手であった。
もしも蜀の軍師が諸葛亮のやり方を踏襲していたならば面倒な事だ」
郭淮のその言葉に、陳泰は
「果たして今でもそうかどうか、捕らえた将にでも聞いてみましょう。
曹爽の件で、太傅は蜀の内情を知りたがっています。
私は捕虜を引き連れ、一度洛陽に戻ろうと思います」
と答えた。
司馬懿が蜀の情報を知りたく、待ち望んでいるのであった。
一品官:大将軍 (曹爽(魏)、司馬懿(魏))
二品官:驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍 (夏侯覇(魏→蜀)、司馬師(魏)、姜維(蜀))
征[東西南北]将軍 (郭淮(魏)、張翼(蜀))
鎮[東西南北]将軍
三品官:安[東西南北]将軍
平[東西南北]将軍
左将軍、右将軍、前将軍、後将軍
征虜将軍、輔国将軍
四品官:建威将軍、建武将軍
振威将軍、振武将軍
奮威将軍、奮武将軍 (陳泰(魏))
揚威将軍、揚武将軍
五品官:昭武将軍、昭徳将軍、討逆将軍、討寇将軍 (鄧艾(魏))
建忠将軍、建節将軍、虎威将軍、虎烈将軍
安国将軍、威南将軍、威北将軍、飛衛将軍、武衛将軍、軍師将軍
偏将軍、裨将軍、牙門将軍、殿中将軍 (句安(蜀))
順位は魏のもの。
曹操と一緒に居た頃の劉備が左将軍、関羽が偏将軍。
亡命前の王平が牙門将軍。




