番外:とある島国にて
「それにしても、宋銭は停止せねばならぬ」
日本という、宋より海を隔てた島国にて、銭の害の問題について話し合われていた。
董卓や司馬昭と同じ称号を使われた「相国入道」平清盛という男は、交易による利をもって一族と与党を繁栄させ、国の在り方を変えようとした。
日本という国は宋国に比べ、国土が狭い上に山がちである。
その中の農耕に適した土地を巡り、武力による奪い合いと、後ろ盾の公家や寺社への寄進とで、平清盛ら武装農園主、日本では武士という階級は小さく纏っている。
「進んだ文物を宋から求めたい」
が交易の最初のもので、狭いが資源国である日本は砂金、水銀(丹という酸化水銀の形で)、硫黄というものを売っていた。
元々、宋の陶磁器や書物を買い、資源を売る際に、物々交換ではなく、暗黙の内に宋銭が使用されていた。
平清盛の父、平忠盛は既に宋銭の便利さに気づき、密かにこれを貯め込んでいた。
忠盛の官位を遥かに上回り、「相国」と呼ばれる太政大臣にまで登り詰めた清盛は、宋銭を以て日本の通貨にしようと考えた。
便利であり、物々交換に比べて交易範囲が拡がり、国内の経済も活性化する。
しかし、当時右大臣であった九条兼実という男は、宋銭の害と清盛の野望を見抜いていた。
明法博士の中原基広は
「宋銭は我が国に於いては私鋳銭、私鋳銭を造る者は八虐に相当する罪人」
と述べている。
個人が勝手に銭を造る私鋳銭、これの何が悪いのか?
日本には皇朝十二銭という通貨が有った。
これは一枚で一文とされたが、当時の一文は米約十三合(重さ2kg)に相当する。
元となった開元通宝の十倍の価値を付けていた。
銭は円形方孔であれば、いずれも一文である。
故に、同じ重さ(3.75g)でそれらしい形のものを作れば、それは十倍の値で扱われる。
唐や宋から銭を輸入しても、十倍の価値となる為、海運の危険を冒しても十分に元手以上の利益を得られた。
故に、私鋳銭は禁止とし、皇朝十二銭を使え!
それが九条兼実の考えであった。
大きな問題がある。
この奈良時代の通貨であるが、既に銅の産出量が減り、年が下がる毎に低質となっていった。
最後等は鉛銭と呼ばれている。
このような低質銭に、開元通宝の十倍の価値等あろうか?
皇朝十二銭等は、一切の信用を得られないただの金属の円盤に過ぎなくなっていた。
その上発行量も少ない。
こんなものを基準には出来ない。
だが、当時の日本はこの九条兼実の意見を受け容れた。
長細い日本という国。
西側の宋に近い側は、宋銭を使った商業を望んでいた。
しかし、東から北に曲がる方を支配している源頼朝という男が無理をしなかったのだ。
この東国は農村社会、自給自足の社会であり、馬や絹を貨幣代わりとしていた。
こういった自給自足型社会の武士の神輿となっていた頼朝は、弟の三河守範頼を派遣し、銭問題についてほぼ九条兼実の要望を持ち帰る。
そして、平清盛亡き後、彼の一党を滅亡させ、日本の統治権の一部を切り出した組織の長となった源頼朝と右大臣九条兼実は、その権限を使って宋銭停止を命じる。
それは失敗に終わった。
時の天皇(後の後鳥羽上皇)が銭取引の推進者である。
更に東国でも、奥州藤原氏の領土だった地は古くから貨幣経済であった。
「大観通宝」、あの芸術に耽溺した北宋皇帝徽宗の代に鋳造された宋銭で、奥州藤原氏の海運上の協力関係にあった熊野大社にもこの銭が寄進され、取引されていた。
九条兼実の孫は九条道家である。
この道家の舅の西園寺公経は、四代目鎌倉殿である九条頼経の祖父でもあり、後鳥羽上皇が鎌倉との対立の結果隠岐に流された後、遮る者の居ない権勢を振るった。
西園寺公経は、平清盛を上回る日宋貿易を行い、平清盛以上の宋銭を日本に持ち込む。
平清盛が徐々に通貨社会に変えようとしていた慎重さ等無かった。
九条兼実が漠然と抱いた「朝廷に通貨を造る能力が無い以上、宋銭を持ち込める者が実質的に日本の経済を左右出来る、野心がある者が扱えば敵対者を破滅させられるし、無能な者が扱えば無意識に様々な者を破滅させる」危惧通りとなった。
急速に銭が広まった畿内は、銭余り気味の貨幣経済となる。
その畿内・京都を東国の武士が警備をしに来る。
番役という武士の義務なのだ。
絹経済、物々交換社会の素朴な武士は、貨幣社会の京都で生活するだけの銭を持たない。
手持ちの絹や馬を銭に替えるが、相場を知らない武士たちは安く買い叩かれる。
京都での生活に困り、仕送りも安く買い叩かれ、最後には先祖伝来の土地すら売ってしまう。
「先祖代々の土地、戦って恩賞として得た地を、何の功も無い者が銭で得るのはあるべき姿では無い」
これを思想的背景に、徳政令という「土地を担保にした銭の貸し付けを無効とする」法令が出された。
それで貨幣社会というものを防げるものでは無い。
だがこの後も、この国は銭と、旧来の価値観である土地・米の価値がぶつかりながら近世を迎える。
日本という国は、いつしか中華の国を経済で上回っていた。
宋銭、或いは永楽銭という中華の国に鋳造を頼んでいた通貨も、いつしか豊富な金・銀・銅を使って自国鋳造し、金銀の海外輸出国ともなっていた。
奈良時代には採れなくなった銅は、開発や最新の抽出法によって、まだふんだんに在ると分かった。
東国では多くの金山が、西国では銀山が開発される。
日本は豊富な資源輸出国となった。
中華の国が逆に日本の銀を使用するようにもなった。
資源は枯渇したり、他の大陸で更に大量に採掘されたりして、次第に資源輸出は衰えたものの、ある時は軍事力をもって他国と渡り合い、ある時は工業力をもって世界を席巻したりと、中華の国が立ち止まっている間に列強・先進国の一角に名を連ねる事に成功する。
そしてその通貨「円」は、世界三大決済通貨の一角(ただし三番目)という基軸通貨になった。
中華の地の後継国家は、基軸通貨の強さを知って、必死になってその地位を手に入れんとしている。
一方で、近世以来の必死の富国政策の結果か、いつの間にか基軸通貨国となった日本だが、王安石の如く「円通商圏」を作ろうとしても、それを望まぬ者たちに尽く潰されて来た。
目に見える経済浸透は敵を作る。
蜀貨の魏侵攻の如く、知らず知らずに浸透させる知られざる通貨政策通が、日中いずれかに現れるや?否や?
これにて最終回です。
通貨を抑えるって事について書いてみました。
現在、日本はアフリカの国の紙幣発行を引き受けたりしてますが、これって考えようによっては凄い事なんですよね。
……それを悪用しない国だから信用されて依頼されたかもしれませんが。
自分が以前書いたハワイ王国は、決済通貨を他国に依存した国でした。
なので、1873年大恐慌で英ポンドが暴落すると、国富が同時に大暴落し、急ぎ米ドルに切り替えましたが、その際に真珠湾を譲渡するというアメリカ併合に至る足掛かりを作られました。
(自作、ホノルル幕府ではその状況から王国維持させましたが)
怖いんですよね。
なので、三国志の中で一番弱い蜀が、どうにか魏と諸葛亮死後も渡り合えた理由に、自給自足可能な天嶮の地である事以外を求めたら、「蜀発行の銅銭が魏の宮中でさえ使用されていた」という話を見つけ、実は「蜀が知らず知らずに魏の通貨を支配していた、通貨を握られた魏は蜀より圧倒的に強いとは言えなくなった、蜀の敗因として後漢末期のように銅銭の信用崩壊があった」という話を書きました。
そして、魏においてそういう通貨政策のカラクリを理解しそうなのは……と探したら、司馬孚に出会い、司馬孚を調べていたら「資治通鑑」の司馬光が子孫だと言ってたので、司馬光から王安石の宋銭政策を思いつき、三国と北宋の二段構成にしました。
うん、難しかった。
その一方で、これは歴史改変物語じゃないので、枠内に収める必要もありました。
それで盛り上がりに欠けるな、とも思いました。
でも、半推理ものというか、隠れた事実(今回のはかなり誇張した話ですが)を探し出す話は、一回書いてみたかったので、完結まで辿り着き満足でした。




