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宋銭の世界、三国志の世界から水滸伝の世界へ

 元祐元年(1086年)四月、王安石が死ぬ。

 そして同年九月、司馬光も死んだ。

 新法党、旧法党ともに首魁を失った。

 そして敵対しつつも尊敬し合う二人を失った宋の政界は、容赦ない追い落とし合いを行うようになる。

 新法党対旧法党ではない。

 「新法は宇宙の理に合っていないから、一切すべきでない」とする程頤・程顥兄弟(二程子)の派閥。

 生まれ故郷・河南の洛陽から洛党と呼ばれる。

 「新法も旧法も良い所だけ使おう」という蘇軾・蘇轍兄弟の派閥。

 生まれ故郷から蜀党と呼ばれる。

 そして河北出身の劉摯を中心とする、特に思想的な背景は無い、朔党。


 奇遇にも、ここでも蜀対魏(洛陽)の構図が生まれた。


 洛党と蜀党の対立は儒学にも現れる。

 学問としての純粋さ、学理を窮めようとする洛党、二程子の儒学。

 それに対し、蘇軾・蘇轍兄弟は「論語」と「荘子」を同列に置き、禅の思想も合わせた「蘇学」「蜀学」と呼ばれる学問に至る。

 二程子の学問が思想研究なのに対し、蘇学は文学に重きを置いた。

 二程子の純粋過ぎる儒学の窮理一辺倒は、中華そのものの如く儒・道・仏を大きく捉える蘇学派から執拗に攻撃される。

 しかし蜀党は、保守派からは新法党に心を寄せていると攻められ、新法党からは旧弊に媚びていると攻めらる。

 結局朔党が政権を担うが、実際に政務を行うと新法の良い部分は良いと思うし、新法党からも抜擢したい政治家がいる。

 そうすると、やはり両方の陣営から責められる。


 そうしている内に幼い皇帝も成長し、垂簾聴政を行う高太后と対立をする。

 政府財源が増える新法は、皇帝には望ましい。

 元祐九年(1094年)、高太后が亡くなり、皇帝親政が始まると新法党の曾布が宰相となり、新法が復活する。

 章惇が左僕射、曾布が右僕射、蔡卞が尚書左丞になり、青苗法、市易法、募役法を復活させる。

 だがこの新法政権は報復人事を行い、蘇軾、蘇轍、劉摯らを処罰・追放した。

 そして親政七年、皇帝は二十四歳で崩御し哲宗とおくりなされる。

 哲宗の父・神宗の皇后だった向太后の意向で弟が即位し、向太后が垂簾聴政を行う。

 この時、章惇は新帝即位に対し、道楽者ゆえ反対して失脚し、曾布政権となる。

 向太后は新法・旧法の党争を気にしていて、曾布に命じて両者均衡政権を立てさせた。

 しかし向太后は新帝即位から僅か一年で死去。

 皇帝は新たに新法党呂恵卿派の蔡京を宰相とする。


 蔡京は、王安石の後に新法党政権を率いた蔡確の同族で、先帝の代で尚書左丞を務めた蔡卞の兄に当たる。

 蔡卞は王安石の娘婿で、蔡京は呂恵卿派である。

 この兄弟は、蔡京が対西夏の役所人事で親友の宦官・童貫を抜擢した事に蔡卞が反対した事で対立していた。

 蔡京は、新法党の曾布すら「旧法党」として、反対派を徹底的に粛清する。

 だが、蔡京の登場は司馬光が恐れた、性善説の通じない運用者による悪用の始まりである。


 蔡京は新法を皇帝の為の富を増やすように運用し、民から都に銭を集めてしまった。

 そして銭の質を下げて量を増やす。

 さらに禁断の手、信用低下の中での当十銭(十銭相当の銭貨)を発行した。


 更に悪い事が重なる。

 王安石以来の銭の大量鋳造に、ついに宋国の銅が枯渇してしまった。

 そこで鉄銭、高額銭乱造する。

 すると銭の価格暴落インフレが発生。

 皇帝は章惇が心配したように、芸術に溺れ、痩金体という書式を作り、庭園造営に用いる大岩や木(花石鋼)を遠く南方より運河を使って運ばせたりした。

 このような銭の無駄遣いに、江南では方臘、山東では宋江が反乱を起こす。

 宋は滅亡に向かい始めた。


(※余談だが、蔡京・童貫と出た為、もう一人、高俅(こうきゅう)を紹介する。

 彼は蘇軾の下で書記を勤めていた為、新法党の蔡京政権下でも、旧法党で役職に就けない蘇軾の一族の面倒を見ていたという)




 宋は、新法旧法の党争を繰り返しつつも、蜀党の主張通り、銭禁・銅禁の解は続け、契丹や西夏に銭を流し続けた。

 三国志と異なり、これは勝利であった。

 契丹若しくは遼という国は、自国で鋳造した銭を西夏に流し、通用させようとしていたのだ。

 それが成功する前に、良質の宋銭が契丹を攻め落とす。

 宋が頑なだったなら、当時の契丹キタイ族の行動範囲から、草原の道に在った全ての国で通じる基軸通貨を発行し、後のモンゴル帝国に先駆けて覇者となっていた可能性がある。

 しかし宋銭に支配された彼等は、騎馬民族色が強い時期は契丹、中華色が強い時期は遼と国号を何度も変えるように、混乱し始める。

 宋銭がもたらす富が、契丹族の上層部を腐らせ始める。

 価値観を宋のものとした彼等は、銭を集め、貧富の差を作り、戦わず、更には働かずに富を得られる生活を送って野性味が失われていった。

 西夏は腐敗が遅れる。

 次第に戦わずとも富を得られるようになった西夏だが、最後の領土拡大の機会が巡って来て、一時的に彼等は活性化する。

 遼と宋が共に金(女真)という新国家によって滅亡した時、西夏は遼を攻め、ついに最大の領土を得た。

 そして、その後は遼と同じように腐敗と貧富の差が、国を弱めていった。

 新興国金(女真)も、時間を掛けて銭毒に負けた。

 国号の通り、砂金を得られた国であったが、南遷した宋との講和で歳幣を得て、便利な宋銭を受け容れてからは、次第に中華の価値観に染まり、女真族の野性味を失っていった。

 金、西夏だけではない。

 日本、高麗、大越(北ベトナム)、占城チャンパ(南ベトナム)、クメールカンボジア大理チベット吐蕃ウィグル、ホラズム、セルジューク朝、更にアフリカ大陸にまで広がる「宋銭経済圏」が作られた。

 その貿易における信用通貨として宋銭が使われる。

 各国は決算通貨として宋銭を一定以上保持、外貨準備をしておかねばならなくなった。

 時に、自国の銅を鋳潰して宋銭に作り直す事までしながら……。

(契丹滅亡後、皇族の耶律大石が立てた西遼は、かつての遼銭経済圏を夢見てか、自国の銀銭貨を造り続けたが、周辺が全て宋銭経済圏なだけに、交易では宋銭を使用せざるを得なかった)

 

 王安石や、その政策の内の銭禁の解を守った蜀党は、長い目で見ると東アジア世界を支配したのである。

 既に宋は銅を掘り尽くした。

 東アジア世界で宋銭と言えば、北宋の銅銭の事である。

 この宋銭は、南遷した宋すら滅亡した後も、とある国で約三百年間使用され続けた。

 中華帝国が他国の通貨を発行している間、軍事力の強弱に関わらず、中華帝国は東アジアで交易の中心であり続ける。

 そういう意味で王安石と銭の政策は五百年に渡り影響力を持ち続けたのである。

 宋が衰亡したのは、三国志の蜀と同じく、無駄な軍事行動と代償リターンの無い無駄な出費、そしてそれを賄う為の通貨乱造による国内混乱であった。




 一方、思想では銭の政治家たちは敗れ、歴史に汚名を残された。

 この後、東アジア世界を支配した思想は、王安石のものでも、蘇軾のものでも無い。

 程頤ていいの天地陰陽、その正しい在り方を求める理、それを追求する学問が朱熹という学者に引き継がれ、朱子学として完成する。

 兄の程顥ていこうの思想も、陸九淵を経て王陽明に引き継がれるが、それでも弟の思想の後継者には及ばない。

 この秩序を重んじる儒学から鑑みて、王安石、呂恵卿、曾布といった新法政治家は、蔡京と同じ「佞臣」として「国を混乱させる政治を行い、民を苦しめ、滅亡へのきっかけを作った」とされた。

 王安石は「ねじけ者」と長く評される。


 蘇軾・蘇轍兄弟の蘇学も、南宋に置いては敗れる。

 だが、女真族南下の際にその文献が奪われ、華北を支配する金に於いて拡がった。


 そして中華帝国は、銭の政策を失う。

 国として積極的に国外の経済を支配するという深謀遠慮は消えた。

 中華の地に建てられた国が、基軸通貨ハードカレンシーというものの強みに気づくのは宋滅亡から八百年以上後の事になる。




 歴史は似た状況を繰り返す。

 しかし歴史は同じ内容を繰り返しはしない。

 同じ結果を再び起こらない。

 歴史から教訓を得るのは難しいと言えよう。

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