新法党対新法党、旧法党対旧法党
皇帝の正夫人・皇后の家を外戚と呼ぶ。
外戚は皇后の子、即ち次期皇帝の祖父として権勢を奮う。
漢という国は、その外戚に常に悩まされて来た。
だが、やがて動乱の末に、古くからの領地と地域への影響力を持つ豪族、豪族から出て中央に根を張り主要官職と莫大な富を持つ貴族は、没落していく。
代わって宋では、形勢戸と呼ばれる成り上がり富裕層が力を持つ。
地縁や有力者からの推薦でなく、科挙という試験により、優秀な者ならば誰でも官吏、更には宰相になれる時代となった。
その宋代、四代仁宗皇后の祖父・曹彬は、宋太祖と共に後周時代から天下統一を戦った功臣である。
かつての王朝における「創業の功臣」のような巨大な土地を持たず、質素倹約を心掛ける曹家から出た曹太后は、我を持たず、穏やかな女性だった。
五代英宗皇后の家長、高遵恵は形勢戸のようだ。
娘の内、姉を曹家の五男・曹玘に嫁がせ、妹を団練使(郷村防衛の為の民兵司令官)をしている皇族に嫁がせていた家が、婿が急遽皇帝となった事で「外戚」となってしまった。
この高太后は新興勢力の出らしく、物事をハッキリ言う性質である。
ある時、普段は一歩引いて高太后を立てている曹太后が、
「皇帝陛下の周りに、側室が少ないですね」
と言った。
癇に障った高太后は
「私は皇帝ではなく、団練使(地方民兵隊長)に嫁ぎましたので」
と返したという。
叔母、姪の関係ながら、より市井に近い家で育った高太后の方が気が強いと言うべきか。
家が基本単位、その周囲に有象無象の親戚が集まる中国では、外戚ともなれば様々な者が恩恵に預かろうとやって来る。
外戚の禍の中で、この親戚衆が起こしたものもある。
新興勢力の形勢戸でも似たようなものだ。
外戚高家にも親戚が集まり、官吏である出世頭の親族から便宜と情報を得て、儲けられそうな時に金貸しをしたり、運送業を始めて親族から免許と官の輸送を受注したりする。
高太后の父・高遵恵も、その親族も、そうして官による高額発注を身内情報で上手く処理して金を稼いでいた。
王安石の新法とは、この既得権者でなく、広く遍く発注するものだ。
既得権を持つ者に対抗すべく、業者が小さいならば事業拡大する為の資金を貸し出す。
競争を激化する事で、価格下落を図るのだ。
まさに高太后の一家が困る政策であり、高太后は新法党を、文字通り親の仇と憎んでいる。
王安石の改革は、既得権者に金を回さず、まず政府から銭の行き渡っていない地域に出資し、青苗法であれば貧農を、均輸法であれば新規の事業者を、銭禁法の解除であれば契丹や西夏を育てて、その上で上手く儲けを回収して、再分配の資金を作るものである。
既得権者が嫌う他に、国が高利貸し紛いの事をするな、と儒学的見地から否定される。
そして、王安石が失脚した時に、それは起きた。
貧弱への支給と回収、均衡を崩せば政府に銭を集められる。
民も既得権者も困り、ただ政府と皇帝の元に銭か集中する。
後漢の霊帝となり、三国時代を招いてしまう。
いや、現在で見るならば、政府が儲かる一方で、敵国たる夷狄を育ててもいる為、民が飢えて国に活力が無くなれば、契丹も西夏も直ちに侵略してくるだろう。
儒の見地からは、銭余りならば回収して、より質の良い銭に鋳直し、流通量を減らし、贅沢を戒め、その土地で自給自足させて余ったものを交易で良い。
兵は蓄えておくべし。
移動による銭荒を防ぐ、禁軍が多過ぎるのが問題だからと言って、郷村に民兵を認める保甲法は、行き着く所が各地の自立、軍閥化なのだ。
地方に大きな軍権を認めたのが唐の節度使の禍である。
また、軍権を認めた訳ではないが、地方諸侯が銭を大量に持った結果、異民族を傭兵として育てて己の軍とした結果が、西晋八王の乱と永嘉の乱である。
唐や五代の節度使の禍を繰り返さぬよう、宋が長年掛けて作った文官を都督とする軍と、地方軍でなく中央、それも皇帝直属軍たる禁軍の強化は正しい。
崩御された先帝は団練使(地方民兵隊長)だったから、欲の無かった自身から考えて保甲を疑問に思わなかったようだが、郷村の民兵から郡の守備兵、やがて地域一帯の守備戦力の自弁、実際には民には重荷だから有力者による代行と私兵化、そう進むと考えなければならない。
不経済だからと中央の強化と地方の弱化は止める必要等無いのだ。
といった新法廃棄と代替案を持った司馬光が、高太后より東京開封府に召し出された。
高太后は幼い新帝の後見人として、垂簾聴政に及ぶとの事である。
曹太后は元豊二年(1079年)に亡くなっていて、高太后は帝の祖母として序列一位となる。
次が亡くなった先帝皇后の向氏だ。
向皇太后の祖父は三代皇帝真宗の丞相を勤めた事がある。
向皇太后は姑に孝行し、新法にも反対なようで、高太皇太后としてはやり易い。
司馬光と、同じく地方に左遷されていた呂光著が左右の僕射(宰相)に任じられる。
蘇軾と弟の蘇轍も地方から呼び戻される。
司馬光は儒学者として名高い程頤・程顥兄弟を皇帝教育係として招いた。
こうして儒学的見地に基づいた新法廃棄政治が始まる。
もっとも、新法とて儒学を意識してない訳ではない。
王安石の新法は、運用者が善なる者であれば、民の助けとなるものである。
性善説、即ち孟子。
禅譲のみを許し、祖先は終生魏の臣下たるを誓った司馬孚である司馬光は、放伐、即ち武力革命を認める孟子を好まない。
程頤・程顥兄弟の思想もまた、性善説等考えず、天地の理を見て、そこに陰陽の気を見るものだった。
つまり、政治も天地の理に沿った行為でなければならず、新法は作為が多く、無駄に天地陰陽を乱す代物とされた。
既にそれは天災という形で現れた。
旧法党はただ反対するだけ、それに対する回答が儒学的合理である。
兄の程顥は、天地陰陽の理に合っていない事は直感で分かるとし、直感を大事にするのに対し、弟の程頤は合理を宇宙の理と同じものに求め、根本的な理を追究する。
例えば青苗法に対し、司馬光は孟子という放伐を認めた考えの根本、人は生まれながらに善である、を前提としているから、運用者が悪であった時の人民の害を想像出来ないと言う。
程顥は貧民に銭を貸して苗を買わせ、穀物または銭での返済をさせる事を直感的におかしいと考える。
「銭無き者に無理矢理銭を貸し付け、銭で返させるのか?」
直感を信じ、理論戦をせず、直感の中にある真相を探す。
程頤は政府が貧民に銭を高利貸しする事を、宇宙の法則に反する事で、天地陰陽を乱して天譴を呼ぶとする。
こうして新法に対する理論武装をし、一切を覆そうと動き出した。
新政権は、直ちに保甲法・市易法・方田法の廃止を決める。
保甲法は上で述べたもので、軍閥の第一歩を防ぐ為に取りやめとなる。
これこそ性善説の最たるもので、その先にある節度使の禍の再来を考えていない。
市易法は均輸法を吸収したもので、運輸費を下げて物価を下げようとしたのだが、人為的な価格調査を否定された。
方田法は所謂検地であり、隠し田を暴き、税の取り損ねを防ぐものであった為、民の苦しみを除くとして廃止された。
さらに青苗法も人民の苦しみとして廃法とされた。
此処まではまだ良かった。
民間の銅保有の禁止、貿易における銭流出の禁、ここに置いて反対が出たのだ。
蘇軾である。
蘇軾はそもそも、新法の一切に反対ではなく、青苗法や市易法という既得権者に損な制度に反対、新法の性急というより強引なやり方に反対なのである。
蘇軾は王安石が宰相の時は追放されず、王安石が気力を失って致仕した後に呂恵卿によって追放された。
蘇軾は王安石の新法・旧法両党均衡人事を受け容れ、その中で己を貫きつつ、良い部分は新法であろうが取り入れている。
新政権に入れずとも良かったが、旧法党として有名であった事と、高太后のお気に入りである事で外せない。
理論的に全ての新法を否定する司馬光と程兄弟に対し、露骨に既得権益者の代理人たるを隠さない蘇軾は、既得権益者、即ち形勢戸の負担を銭納で解消させる募役法の廃止に対し反対し出した。
高太后の家系も形勢戸であり、蘇軾の背後には高太后が居る事が予想され、司馬光も迂闊には扱えない。
蘇軾の弟・蘇轍も地方から中央に上げる報告法の改革について、新法方式が良く、復古の必要無しと訴える。
新法党において曾布は、呂恵卿によって追放された為、司馬光執政時には中央に戻っていた。
この新法党の曾布の報告改革を、旧法党の蘇轍は支持している。
このように支持基盤にとって有益な政策、便利な政策は残すべきとする蘇軾・蘇轍兄弟は、契丹・西夏より歳幣を貿易黒字として取り返し、その利益が各種行政の予算になる銭禁、銅禁については再規制反対を唱える。
旧法党でも、負担を掛ける政策でなく、禁令を外すだけで利益が出る銭禁の解、銅禁の解は昔に戻す必要無しと、名士の蘇軾・蘇轍兄弟を前面に立てて主張し始めた。
理念、原理から反対する司馬光、程兄弟とは対立が始まる。
こうして新法党は主導権を巡り、旧法党は理念か現実化で、両方が分裂した。




