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銭荒問題、軍縮問題

「敬愛する司馬先生より書簡を頂き、懐かしい思いに浸っております」

 王安石から司馬光に、礼節を守った返書が届いた。

 時候の挨拶、司馬光の健康の祝福、送る漢詩と書かれた後に本題に入る。


「先生から頂いた貴重な資料には感動しました。

 それについて反論する前に、私も資料を送ります」

 添付資料を読み、司馬光は驚く。

 そこには銅不足の中で敵国に銭を送る愚を諫めた司馬光の前提を覆す、「宋は今、銅過剰状態」という数値が書かれていた。


 唐の時代、仏教が隆盛し、民は銅を寄進して仏像や仏具にしていた。

 唐滅亡後、五代十国時代という乱世が訪れる。

 華北にあった五代の帝国、宋の太祖が仕えていた最後の後周の皇帝世宗は、歴史に言う「三武一宗の法難」と呼ばれる仏教弾圧を行う。

 これは正しくは弾圧とは言い難い。

 乱世を厭い僧尼となった男女を還俗させ生産力を回復させる、仏像仏具に変わった銅を国庫に戻し銭貨に再生する事を目的としていた。

 その目的で民が銭以外の銅を持つ事を禁じ、世から銅像や銅鍋、銅鏡や銅の美術品が消えた。

 仏教を廃し、道教に変えようとした北魏道武帝の仏教弾圧等とは性質が違う。

 それだけに、唐の時代に国の庇護を受けて寄進三昧だった仏寺は、象徴と僧尼と財を失って衰退した。

 その為、宋の時代に隆盛したのは、座る場所さえ有れば十分という禅宗であった。

 宋は仏寺に大量に銅を寄進される事から免れている。

 それにも関わらず、銅禁という民間が銅製品を持つ事を禁じる法まで作っている。

 銅不足を警戒し、地域限定ではあるが鉄銭をも流通させていた。

 そうやって増やした銭を、遼(契丹)や西夏との戦争に備えて増やした軍に給与として支給している。

 銭はかつて無いくらい大量に造られていたのだ。


 銭は大量にある。

 しかし銭が無くて困窮している報告もある。

 その正体は銭の偏在であった。

(後漢、霊帝が成した事と同じか)

 司馬光は呟く。

 大量の銭が、時に駐留軍への給与として、また別には公共事業費として移動する。

 今迄不足していた地域に大量の銭が入ったり、それを急に使い切ったりすると、物価の乱高下、品物の不足や大量在庫が発生する。

 これを「銭荒せんこう」と呼ぶ。


 銭荒は貨幣の偏在が理由なので、これまでも発生していた。

 宋のそれが問題とされる程酷かったのは、銭の過剰供給の為であった。

 王安石は発行量の精査と地方調査により、今迄誰もが銅不足による銭不足が理由と考えていた事が、逆であった事を把握する。

 総量が多い程、振り幅は大きくなるから、銭荒は目につくようになる。

 その為、王安石は煕寧五年(1072年)に銭荒対策の銭鋳造所増設計画に反対した。

(これは正しい)

 司馬光はそう考える。


 だが、翌年に王安石は鋳造所増設に切り替え、銭を更に大量発行するよう命じる。

 この中で国内に回す総量を把握・制限し、余る銭を国外に流そうと言うのだ。

 王安石の考えでは、遼や西夏も国内に大量に銭が入る事で物価上昇インフレが起こる。

 軍事費も高騰し、簡単に戦争を起こせなくなる。

 更に銭余剰バブルにより、遼や西夏富裕層の購買力が増す。

 この旺盛な購買欲に応えられるのは宋だけである。

 交易量が増える事に、遼や西夏と宋の国境付近は銭・物・人の交流が活発になり栄える。

 共栄関係にある相手を討とうとは思わない。

 大体、軍を動かそうとしても軍事費が上がっており、おいそれとは動かせない。

 軍を動かして得る利益より、交易の方が利益が大きいのだ。

 実際の状況として、王安石は国境市場と遼軍や西夏軍の出動状況の記録を資料として送って来た。

 物資が足りず、交易制限をすればする程、侵略回数は増す。

 逆に安定した市場では少ない。

 交易が戦争を防ぐのだ。


 王安石はこう続ける。

 戦争が少なくなれば、肥大した軍を減らす事が出来る。

 仏寺への寄進同様、軍事費というのも配当リターンの少ない銭の使途である。

 軍を減らす、遼や西夏との交易での利益、これらで得た銭を元手に、新法の政策である青苗法での農家への貸し出し資金、倉法での官吏への給与に利用する。

 上手く繋がれば、良い事づくめである。




(果たして、そう上手くいくだろうか?)

 司馬光は俄かに全てを信じられない。


(交易を不満としての侵略が無いのは、その地に強力な軍が駐留しているからではないのか?)

 取引制限や交易市場の閉鎖が行われる地域は、飢饉や天災の被害に遭った地域である。

 安定した地域には軍が駐留して睨みを効かせている。

 困窮した地域からは兵を引き、後方の中心都市(北方なら大同、西方なら長安、南西なら成都)に兵営が置かれる。

 それが理由だと司馬光は考える。


 司馬光は、銭余りなら銭余りなりに、国庫に仕舞い込んで国の流通量を制御し、いざ戦争という時用に備蓄しておくべきだと考えている。

 または、王安石が最初に考えたように発行量を減らせば良いのだ。

 総量規制は正しいが、外国に流し、それが国内に戻るのを期待するのは結局規制になっていない。

 地域による差が余りに大きいから、銭や物が極端に動いて銭荒が発生する。

 ならば銭の流通量を減らし、それをもって地域格差を小さくすれば良いのだ。

 国の根幹は、儒も老荘も時給自足の農村の保護であると説く。

 農村を救うのに国庫から貸し付けを行う等、卑しい商人の発想で、士大夫はすべきで無い。

 銭荒を防ぐには、銭を貸し付けて生産量を増やし、それで商いをさせるのではなく、各地の農村に急激な価格変動を起こす銭そのものを減らすのだ。


 軍を減らす事にも不満がある。

(戦が無いからと言って兵を減らすと、それが戦を招くだろう。

 歴史がそれを証明している)

 遼も西夏も、中華の地を不法に奪う不倶戴天の敵国で本来交渉の余地は無い。

 司馬光も現実を知るから、宋は勝てなかったから交渉相手にしている事は承知している。

 司馬光は、西晋滅亡の遠因を考える。


 晋の武帝こと司馬炎は、呉を亡した後に、全国の軍を総勢三万にまで減らした。

 呉の後宮を自身の後宮に併合し、「美女一万人」という金食い虫の後宮を作ったりもしたが、それ以上に諸葛誕の乱の時は三国で総勢七十万にもなろうとした軍を、一気に三万まで減らした経済効果は大きかった。

 金余剰バブルに踊る西晋の社会は、馬鹿馬鹿しい無駄遣いをするようになる。

 昼夜の別無く宴会を開いたり、変わった豚料理の為に乳を豚に飲ませる女性を雇ったり、贅沢競争をしたり、文学討論会を何度も何度も開いたりした。

 呉の陸遜の孫たちも、名族だという事で首都洛陽に招聘され、文学を談じながら女の靴に注がれた酒を飲む(詩文等で言葉に詰まった時の罰則遊戯バツゲーム)等に興じていた。

 あの何晏が流行らせた麻薬・五石散は晋でも引き続き流行し、巨費を投じて買い求める者が相次いだ。

 余りに奢侈が酷い為、武帝司馬炎は何度も倹約令を出したが、聞く者は無かった。

 しかも何曾や、石苞の子、王粛の子等、功臣やその子弟である為、罰する事もしなかった。


(銭余りが起こすのは所詮こんな愚行だ)

 司馬光は拝金主義を憎む。


 そして司馬氏は、外戚賈充の一族も含み、壮絶な内戦を起こす。

 八王の乱である。

 地方駐留軍がいない各国の王は、兵力不足から異民族を傭兵とし、長城の内側に続々と招き入れる。

 それら異民族、匈奴や羌族、鞨族等が反乱を起こし、華北を占領した。

 永嘉の乱である。


(兵を減らす事は戦を抑止しない。

 兵が居なければ塞外民族は必ず攻めて来る)

 司馬光はそう考える。


 結論として、遼や西夏に銭を与え、富ませた挙句に兵力を減らす等は国としての自殺行為、銭余りは社会を腐敗させる、銭が余っているなら蔵に仕舞い、国として清貧になる事、それには銭の総量を減らす事だ。

 司馬光は再びこの考えを書簡にし、東京開封府の王安石に送り付けた。


 新法党と旧法党の争いは、まだ終わらない。

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