幕間:司馬孚の死、そして三国志の完全なる終焉
司馬孚、字を叔達、後漢の光和三年(180年)に生まれ、西晋の泰始八年(272年)に死んだ。
享年九十二歳。
後漢、魏、西晋の三王朝に仕え、劉協(後漢献帝)、曹丕(魏文帝)、曹叡(魏明帝)、曹芳、曹髦、曹奐(魏元帝)、そして司馬炎(西晋武帝)という七人の皇帝の御世を生きた。
彼が死ぬ前年に、子の義陽王・大司馬たる司馬望に先立たれた。
長男の司馬邕も泰始二年(266年)に死去している。
八男の司馬衡が泰始三年(267年)死亡、司馬邕長男の司馬崇も泰始五年(269年)死亡、司馬望長男の司馬奕は魏の咸煕元年(264年)死亡、司馬望三男司馬整は泰始二年(266年)と、司馬孚は三人の子、三人の孫に先立たれている。
司馬孚は安平王に叙せられていたが、その安平王家は司馬邕次男の司馬隆が継いだ。
司馬望の義陽王家は司馬奕の子の司馬奇が継ぐ。
司馬孚には九人の男子がいて、早世した子以外七王家が出来た。
孫も数多い。
この多くの子孫が、次の乱世にて絶えたものも有るにせよ、宋の司馬光に繋がるように後世に残った。
司馬孚が死んだ晋の泰始八年は、呉の鳳凰元年である。
呉の皇帝・孫皓は即位すぐの善政から一転、暴君と化していた。
宮廷建築等の無駄遣いだけなら、董卓や曹叡のような何らかの思惑が有ったと解釈も可能だ。
孫皓は家臣たちの殺害を多くする。
それも一族皆殺しのようなものを連発する。
粛清を恐れ、晋に亡命する者、反乱を起こす者が相次ぐ。
また、司馬昭死亡時に送った弔問の使者が、魏国内の備えが甘くなっていると伝え、孫皓は晋への出兵を度々行うようになる。
晋への亡命者に対する懲罰遠征や、反乱鎮圧の戦いもし、呉は富を消費していく。
この富は、蜀無き今、何処から得られたのか?
呉の初代・孫権は、長江一帯に屯田兵を置いた。
江南は、華北において黄巾の乱以降の戦乱が激しくなるに連れ、多くの難民が渡って来た。
更に曹操が、徐州牧陶謙の配下に父親を殺された後に、徐州侵攻して大虐殺を行った為、その地の民が江南に逃げていた。
財を持っての移住者ならともかく、着の身着のままで逃げて来た難民をどうするか?
孫権は未開発であった荊州と建業の中間地帯、長江中下流域に送った。
金を与え、土地を開発する資金とし、その地を守らせる屯田兵。
孫権は絶えずこの長江中下流防衛地帯を気にかけていた。
蜀から得た銭の他、必要に応じて高額銭を発行してまで開発資金に投入していた。
開拓地兼防衛地帯の開発が進む程、呉は強国になる筈であった。
孫権は晩年、後継者争いの放置で国を乱したとは言え、被害は呉郡の豪族たちに留まっていた。
孫権の後継者たちは、権臣との戦いに明け暮れたり、学問に耽溺したりして、長江開拓地帯を顧みなかった。
孫皓の代、富を奪い取ろうにも呉郡の豪族たちは壊滅状態になっていた。
唯一、「呉の四姓」陸家の陸抗は荊州に在って、晋の侵攻を防いでいる為、手を出せない。
すると宮殿建築や戦争の資金は税金に頼らざるを得ない。
洛陽に集中し過ぎた銭を公共事業という形で再分配しようとした董卓や曹叡のそれとは逆に、首都建業への富の集中が発生してしまう。
孫権が開発した長江の交通・通信網もそれに拍車をかける。
銭を取られるだけならまだしも、銭が集中した建業で物価が高騰し、自弁出来ない物を購入せざるを得ない屯田兵たちはなけなしの銭を支払って買わざるを得ない。
こうして後世「ストロー効果」と呼ばれる現象が発生し、呉の屯田兵たちは没落した。
そして全体として弱体化していった呉は、徴税の為の戸籍調査に反対して起きた広州の反乱を鎮圧出来ないまでになった。
晋の咸寧五年(279年)十一月、ついに晋は呉を吸収すべく兵を動かす。
呉の鳳凰三年(274年)には防衛の要・陸抗が荊州で死亡し、晋軍の動向を伝え、任地で防衛にあたる筈の屯田兵たちから呉への忠誠心は失われていた。
呉侵攻には慎重派であった賈充だが、彼が大都督に任命され、杜預(荊州方面)、王渾(寿春方面)、王戎(武昌方面)、司馬伷(徐州方面)、胡奮(夏口方面)、王濬・唐彬(蜀から長江を下る水軍)を統括して六方面から呉を攻めた。
呉軍に戦意無く、防衛軍がそのまま晋に投降したり、軍単位で逃亡したりした。
呉郡の豪族たちを潰し、長江中下流域の屯田兵たちを没落させ、富を浪費し続けた呉は、蜀滅亡時のように気を吐くも無く崩壊した。
孫皓は司馬伷に降伏し、三国は遂に最後の一国も消滅し、晋による中華統一が成った。
孫権が構想した荊州と建業を両輪とし、中間地帯を開発し、長江流域を経済圏かつ防衛地帯とする構想は正しい。
彼の後継者が正しく運用しなかっただけなのだ。
孫権の構想の正しさを証明するのは、皮肉にも司馬氏である。
孫権の構想の後継者、それは孫皓が降伏した司馬伷の孫、後に東晋の元帝と呼ばれる司馬睿であった。
終わりではなく、次は司馬光(北宋)編です。
北宋編で終わりですが、時代的には後の話に触れます。




