魏晋革命
時を遡り、景元四年(263年)十二月、魏の最後の君主が死んだ。
魏明帝皇后だった郭太后、夫の死後二十五年に渡り朝廷の序列上最上位に居た女性である。
皇帝が選んだ皇后であり、司馬氏から選ばれる事も承認される事も無い。
皇帝が司馬氏に選ばれる現状、その司馬氏の行動を保証する立場にいる郭太后こそが実質的な君主であった。
君主である郭太后には司馬昭も賈充も頭が上がらない。
そして司馬氏を打倒しようとする者は、郭太后の密命が有ったとする。
その魏最後の君主が死んだ。
司馬昭にとって、簒奪の障害となる者はいなくなった。
蜀滅亡は魏の景元四年十一月。
鍾会が鄧艾を讒言で失脚させたのが十二月。
その月、司馬昭は傀儡の皇帝を伴い、長安に向かった。
そして景元五年(264年)一月、鍾会は「郭太后の密命」と称して司馬氏打倒の兵を起こそうとして失敗した。
前月に郭太后が死んだ事を、鍾会は知っていたのか、知らなかったのか……。
司馬昭は一月に長安に入り、そこに本営を置いた。
そして従兄で征西将軍の司馬望から十万の兵を取り上げる。
司馬望は任期満了で洛陽に帰還し、司徒に昇進する。
出世であるが、同時に外地に在って司馬昭を掣肘する兵力が無くなった事にもなる。
司馬孚・司馬望父子と十万の兵は、司馬昭の魏簒奪に対する抑止力として効いていた。
司馬昭が司馬孚に「良いのか?」と聞いた理由がこれである。
蜀が滅亡し、蜀で反乱を起こそうとした部下も、容疑をかけられた者も消えた。
蜀からの防衛兵力は不要となった。
防衛指揮官であった司馬望の役目も終わった。
司馬昭は堂々と司馬望が持っていた兵力を没収し、自分の兵力に組み込んだ。
魏簒奪の抵抗がまた一つ消えた。
司馬昭の簒奪への歩みは早まっていく。
景元四年に晋公に就任していたが、続いて相国として魏の宰相となる。
翌年三月、晋王に昇進する。
五月、咸煕に改元。
そして司馬氏を次々と叙爵。
諸葛誕の乱で失敗した司馬亮、高貴郷公の乱で皇帝の前から逃げた司馬伷も伯爵に任じられた。
そして亡き父・司馬懿を宣王、兄・司馬師を景王と諡した。
八月、司馬昭は長男の司馬炎を相国補佐に任ずる。
司馬炎は青龍四年(236年)生まれの二十八歳。
ただし、彼がすんなりと司馬昭の後継者に定まったとは言い難い。
彼の同母弟・司馬攸が、亡き司馬師の養子となっていた為、名分に拘る司馬昭が兄の系統に家督を返そうかと考えていたからである。
司馬攸は司馬炎より十歳年下で、幼い頃から聡明さで知られていた。
許婚の父は賈充。
司馬昭は、自分は兄の家督を一時預かっただけと言っているが、自分の代で簒奪をしたなら、後を継ぐのは司馬炎だろうが司馬攸だろうが、どちらも自分の子という意識もあった。
司馬の家名で評価が嵩上げされるというのは、司馬昭は自身の経験で良く知っている。
司馬炎はその嵩上げで評価が高いが、司馬攸は贔屓目抜きに優秀である。
司馬昭は、兄の系統を正統とし、司馬攸を次期家督継承者にしようと側近たちに図った。
司馬昭の側近たち、賈充を筆頭に裴秀、王沈、羊祜、荀勗、石苞、陳騫、何曾、山濤らである。
鍾会は謀反を起こし、鄧艾はその謀反のドサクサで死んでいた。
王基と州泰は景元二年(261年)に、舅の王粛は甘露元年(256年)に死亡している。
司馬師の急逝により家督を継いでから、数人がこの世を去った。
側近たちは、司馬攸を後継者とする事に反対する。
なるほど、司馬師は確かに司馬昭の兄である。
しかし司馬攸は司馬炎の弟であり、長幼の序からおかしな事になる。
「長子を廃し少子を立つるは、礼に違える事にて不祥」
後世「竹林の七賢」に数えられる山濤がそう言う。
その理由で、どちらでも問題の無い司馬昭には十分なのだが、側近たちにはもっと理由があった。
そもそも論で言えば、司馬懿よりも司馬朗の家系が家督正統となる。
その司馬朗家の当主は司馬望で、実父の司馬孚と同じく親魏派である。
そもそも論で「簒奪などすべきでない」と言い出しかねない。
言わないのは、律儀に宗家となった司馬懿家の方針に従っているだけだろう。
そして、側近たちが求めているのは「器」である。
司馬攸は聡明であり、王朝創始者、乱世を戦うものとしては良いかもしれない。
しかし、司馬懿から司馬師を経て司馬昭が新王朝を立て、それを継ぐ人材としては相応しいかどうか。
魏の事実上の創始者・曹操とて聡明な曹植ではなく、無難に曹丕を選んだ。
司馬懿は曹丕とは極めて関係が良く、死後は曹丕の陵の隣に葬るよう遺言している。
司馬孚も、司馬懿が曹操直属に移った後は魏王太子曹丕に仕えていて、司馬氏は曹丕とその子の曹叡には忠誠篤かった。
三代曹芳(斉王)、四代曹髦(高貴郷公)、現皇帝曹奐に忠誠を誓えないのは、曹丕の子孫では無いからかもしれない。
「中撫軍(司馬炎)は聡明神武で超世の才有り。
髪が地に着き、手が膝を過ぎます。
これ人臣の相に非ず(帝王の相である)」
と、何曾等は言い出した。
「賈中護(賈充)は如何に?
大猷(司馬攸の字)は卿の婿であろう」
賈充はここで反対意見を述べるような男ではなかった。
「皆様の考えと、某も同じで御座います」
「左様か……」
少し司馬昭は寂しそうであったが、「器」である司馬昭は側近たちがそういう考えで纏まっているなら、躊躇しない。
二ヶ月後の十月には司馬炎を晋王太子に任命した。
禅譲に向けて雰囲気作りも始まっている。
既に衛瓘が成都で玉と印を見つけたと言って献上して来た。
また益州から不思議な亀が見つかり、献上される。
「天が司馬昭の政治を祝福した瑞兆」
という事だ。
その成都から送られて来た元皇帝・劉禅は洛陽にて幸せそうな日々を過ごしていた。
宴席で司馬昭が安楽侯に封じられた劉禅に問う。
「蜀が恋しくなりませんか?」
劉禅答えて
「都は楽しく、蜀を思い出す事は無い」
と。
人々は劉禅の暗愚を嗤い、旧臣は
「斯様な時は哀しそうな顔をして下さい。
国の為に殉じた者が哀れです」
と諫言していた。
宴に参列し、見ていた司馬孚は違う感想を司馬望に漏らす。
「あれは、己の責務として決断をしなくても良くなった、重荷を背負う事から解放された男の顔ぞ。
どちらか選ばねばならず、それで歴史が変わるとなれば、決めると言うのは大事である」
司馬望も肯く。
魏帝と親しかった彼等父子は、忠誠と一族とを天秤に掛けながら、一族内での序列の良さにより、決断をなあなあで済ませながら生きて来られた。
そして、己が決断する当主の座に居たなら、後悔せぬ決断が出来たか、まるで自信が無い。
決断の重荷より解放された劉禅を笑えぬ父子であった。
劉禅が皇帝という重荷より解放された後、新たに重荷を背負い込んだ若者もいる。
呉の孫亮が死に、廃太子である孫和の子・孫皓が新たに呉の皇帝に即位した。
孫皓は今の所、呉の臣民を安んじる善政を敷き、司馬昭に和睦を乞うて品物を献上して来た。
敵国が頭を下げて来る、これも瑞兆の一つである。
機は熟したように見えた。
しかし咸煕二年(265年)八月、晋王・相国司馬昭は中風により急逝する。
棺に縋って泣く司馬炎を賈充が
「殿下は天下の模範となるべき人物。
庶民のように泣き喚きなさるな!」
と叱りつける。
(嗚呼、これは四十五年前の儂と文帝(曹丕)殿下じゃ。
儂はこの姿を漢魏立場を変えて見る事になろうとは。
儂は長生きし過ぎた……)
司馬孚、この年で八十五歳である。
側近たちに支えられ、晋王を継いだ司馬炎は、同年十二月、曹奐に禅譲させ帝位に就いた。
後に晋(西晋)の武帝と呼ばれる。
群臣が万歳を叫ぶ中、司馬孚は陳留王に格下げされた曹奐の手を取り、涙を流しながら
「老臣は今後も魏の臣下でありまする」
と改めて忠誠を誓っていた。
亡国の退位した皇帝は、それを無気力に見ているだけで、その外では最早怒号と化している万歳の声が轟いている。
まだ呉は残っているが、「三国志」と呼ばれる時代が終わったようなものであった。




