銅産国の価値
鄧艾は蜀の都・成都を無血開城させた。
そうなる迄に紆余曲折があった。
魏軍は集結し、剣閣で蜀の姜維・張翼・廖化・董厥という最後の精鋭と対峙していたが、天下に名が知れた要害は中々戦果が挙がらない。
勝てない事以上に、剣閣攻撃のこの陣は鄧艾にとって極めて不快であった。
鍾会が総司令官として牛耳り、征西将軍たる鄧艾は吃音を帷幕の内にて常に嘲笑われ、同僚の諸葛緒は姜維の背後を扼せなかった事を理由に讒言、追放され兵は鍾会に没収される。
鄧艾は鍾会と座を同じくするのを嫌い、大きく西に迂回し、陰平からの蜀侵攻を訴える。
魏の景元四年(263年)、蜀の炎興元年十月の事である。
鍾会からは
「やるなら其方の手勢だけでやれ。
失敗しても援軍は出さぬ」
と吐き捨てられている。
道無き道を進むが、実はこの道は以前姜維が北伐に使った事があり、行けない道ではないのだ。
地理不案内に兵を失いながらも、意表を突いて蜀領内に入った鄧艾は、諸葛孔明の子・諸葛瞻の失策もあり、江油城攻略後は楽々と四川盆地を進む。
かつての劉備の参謀で魏に亡命した黄権の子の黄崇、彼は鄧艾が江油に入った時点で、魏軍をこれ以上盆地に入れないよう、周囲の要害に兵力を分散配置する事を進言した。
だが諸葛瞻は、父を中途半端に見習った「後の先」を取って、集中した兵力による邀撃決戦に持ち込もうと無駄に偵察に時間を費やし、神出鬼没な鄧艾に翻弄され、結局は綿竹まで後退する。
綿竹を鄧艾は、子の鄧忠と部将の師纂に攻めさせる。
綿竹の戦いは、諸葛瞻の後世における評価を良い方に変えた。
諸葛瞻は諸葛孔明の才も清廉さも無い。
子の諸葛尚が
「黄皓を斬っておけば、今日この様な時を迎えずに済んだ」
と悔やんでいるが、当の諸葛瞻は人事と財政を握った黄皓と私的に付き合い、保身と反姜維同盟を組んでいた。
政治家としても成果を挙げていない。
軍才もこれまでサッパリだったのだが、綿竹でようやく鄧艾の先遣隊に勝った。
張飛の孫の張遵、黄崇、そして諸葛尚と共に打って出た諸葛瞻は、北伐軍以外で貴重な勝利を挙げた。
成都の朝野は勝利に沸き立つ。
諸葛瞻は次の戦いで討ち死にするが、緒戦の勝利と国に殉ずる最期とで「流石は諸葛丞相の子よ」という評価を残す。
一方、鄧艾の運命も綿竹から少しずつ曲がり始める。
敗退した鄧忠、師纂を鄧艾は激しく叱り付ける。
吃音の彼は、長々と説教が出来ない。
つっかえつっかえの説教は、将としての威厳を損ねてしまう。
そこで短く叱り付けるのだが、時に言葉は短い程人の心を抉る刃となる。
「愚蠢、無学、怯懦、怠惰」
子供で親父の短語に慣れていた鄧忠はともかく、師纂は
(何故此処まで悪しく言われねばならぬのか)
と鄧艾に恨みを抱いた。
剣閣で鍾会を防いでいた姜維軍は、綿竹失陥を聞くと直ちに兵を退き、蜀のもう一方の重要拠点巴郡を目指した。
鍾会はこれに対し、王続と龐会を追撃に送る。
全軍を一気に押し出せる程、剣閣の道は広くない為、少数の精鋭部隊を送ったのだ。
龐会は関羽と戦って死んだ龐徳の子で、先の諸葛誕の乱においては楽綝配下で、将の戦死後も踏み止まって戦い続けた。
その功により叙爵されたが、彼は父の仇である蜀との戦いを望み、この戦場に在る。
巴郡に到着した姜維らは、元々の指揮兵力精鋭三万に城兵、緊急徴募兵を合わせ、凡そ五万を集めた。
しかし姜維がその兵力を使う事も、龐会に仇討合戦を戦う機会も訪れ無いまま、戦は終わった。
魏の景元四年(263年)、蜀の炎興元年十一月、皇帝劉禅が鄧艾に降伏し、漢中の楽城、漢城、巴郡の蜀軍には停戦、投降を命じたのである。
鄧艾は降伏した劉禅を見た。
暗愚ではない。
ただ、恐ろしい程に優柔不断なのだ。
かつて劉備は死の床で劉禅に遺言した。
「汝は丞相(諸葛亮)を父と敬い、万事丞相の言に従うように」
諸葛亮生前は良かった。
諸葛亮が遺言で後継者に指名した蒋琬、費禕、董允が生きていた時も、彼等の言う事を聞いていた。
その後は?
もう諸葛亮の言は残っていない。
間違いの少ない諸葛亮や後継者たちと違い、費禕死後の彼の臣下は言った事を実現出来ない。
やがて劉禅は、黄皓が薦めるがままに、巫女や産土神に縋るようになる。
神ならば間違いは無い。
この年は七月迄は景耀という元号だったのだが、魏軍撃退には改元が必要という神託を得て、八月に炎興と改元されたくらいだ。
安心を得たかった劉禅は、占いに莫大な銭を使う。
投資に対し配当の無い宗教への寄進は、いつの世も莫大な資金を只管食い続ける。
健全だった蜀の財政は、北伐以上に鬼神への寄進で消え続け、やがて低質銭を乱造という愚策に走った。
絡繰を理解した鄧艾は、宗教勢力と裏で手を組んでいた黄皓に迫り、其れら神の廟や巫女に寄進した銭を返すよう脅す。
宗教側は、怯えて大量の銭を返還する。
元々は農官であった鄧艾は、蜀は経済こそ混乱していたが、農業林業鉱産業と国は全く損なわれていない、このまま策源地として呉を攻める際に利用出来ると見た。
その為に旧蜀の支配体制を上手く利用しよう。
そこで鄧艾は、優柔不断な劉禅やそれに傅いていた蜀の官吏を動かす為、まるで己が皇帝かのように振る舞う。
常に「どうしたら良いのか?」と「諸葛亮の言」を待ち続けていた蜀臣たちを効率良く動かすには、尊大に決定を言葉短く誤解が出ないように伝えれば良い。
問題は、引き続き呉を攻める事を、鄧艾は誰にも告げなかった事だ。
仮に上司が司馬望だったら、鄧艾は彼に相談したかもしれない。
だが今の上司は鍾会である。
常に自分を吃音者は頭が足りぬと侮辱する者に相談等出来なかった。
誰にも言わずに尊大な態度で蜀に命令を出し、兵を整える鄧艾は、部下の師纂によって鍾会に密告される。
姜維は鍾会に降伏した。
鍾会は姜維に尋ねる。
「貴兄は何故長安を直接目指さず、隴西西涼に向かいしや?」
姜維答えて曰く
「西涼の果てに絲綢之路在り」
姜維は確かに財政無視で北伐を強行し、国の財政を圧迫した。
しかし姜維も財政を考えていた。
諸葛亮が当時の国庫を傾けて南蛮を討とうとした時、多くは反対した。
しかし結果は、南方が安泰になっただけでは無く、南蛮からの貢物や交易で蜀は利益を得る。
諸葛亮はそれを財源に北伐をしていた。
諸葛亮南征時は蜀に居なかった姜維だが、隴西に居た彼は西方に一大交易路が在る事を知っていた。
大月氏の国や汗血馬の国へ連なる道。
古くは大秦や天竺に通じていた交易路は、今は衰退しているが、復活させれば莫大な富を産む。
「某は今の蜀では魏に勝てぬ。
絲綢之路の富と西涼の強兵をも併せねば、長安を一時得ても、それは砂上の楼閣に過ぎぬと思うておった」
そう答えた姜維の手を、鍾会はガッシリ握っていた。
彼は己に比する才を見つけ、嬉しかったのだ。
そして姜維も鍾会の手を握り返し
「将軍以外で我が望む所を理解した者は、亡き丞相のみです。
将軍が某を使う丞相なり皇帝であれば、勝てずともきっと負けなかったでしょう」
と囁いた。
この言は、鍾会の自尊心を大いにくすぐる。
そんな鍾会の元に、鄧艾の部将・師纂から密告が入る。
鄧艾はあたかも蜀帝の如く振る舞っている、と。
鍾会は喜んで司馬昭に「鄧艾に反乱の疑い有り」と報告した。
司馬昭は衛瓘を遣わし、独断専行を戒めた。
しかし鄧艾は
「蜀を滅ぼした今、一刻も早く呉を討伐すべし。
朝廷からの命令を待っていると機を逸してしまう恐れ有り。
大夫は国外に出たら、国の為なら己の判断に行動するを可とするものなり」
と反論する。
鍾会はこれを待っていたとばかり、衛瓘、師纂、胡烈に命じて鄧艾を捕縛させた。
そして成都に入った鍾会は、鄧艾以上の価値をこの国に見出す。
(蜀と漢中、それに姜維の言っていた絲綢之路が有れば、天下を支配出来るのではないか!)
姜維の策は正しいのだ、それを理解しなかった蜀の朝野が愚かだったのだ。
鍾会は農官上がりの鄧艾より、遥かに経済・財政というものを理解していた。
在りし日、亡き司馬師の横で司馬孚から蜀による財政支配の浸透ぶりを聞かされた時は、そのような方法が有ったかと眼から鱗が落ちる思いだった。
だが、今や銭の支配に気づいた司馬懿も、対策を打ち出した司馬師も居なく、調べ上げた司馬孚も老齢だ。
司馬昭は、鍾会の目から見て、彼を抜擢した司馬師に数段劣る。
「蜀を抑え、西涼を併せれば、魏を奪える。
例え失敗しても天嶮を護り、劉備にはなれる」
鍾会は独立し、司馬昭打倒を決意した。
秀才の思考を狂わす程に、蜀の銭生産能力はいまだ高かった。
やり方さえ間違わねば勝てる、鍾会はそう考え
「郭太后の密命により、大将軍司馬昭を打倒する」
と声を挙げる。
だが、鍾会の乱は未遂に終わる。
反乱に反対した胡烈を幽閉したまでは良いが、新年の宴席でその胡烈の部下に襲われ、鍾会と姜維は討たれる。
護送中の鄧艾は、讒訴した鍾会の方が謀反を起こした事から、身の潔白が認められるかもしれない。
その時の報復を恐れた訴人の一人・衛瓘は、部下に命じて鄧艾を殺した。
景元五年一月十五日から十七日にかけての事件であった。
鍾会の乱の終焉を知らされた司馬昭は、溜息を吐くと事後に当たった。
彼は蜀に在った造幣局を自分の直属とする。
天下を支配出来る銭の生産拠点も司馬氏の有するところとなった。
劉禅が巫女に大量の布施をしていた事、姜維がシルクロードを目指していた事、脚色です。
劉禅に関しては占いで政策を決めた前科はありますが、それが改元の理由かは調べ切れませんでした。
姜維は北伐時に羌族からの補給を宛てにしてましたが、それ以上はハッキリしていません。
鍾会みたいな己の知を過信する男が、姜維をあそこまで評価したのは、反乱時に理由したいという意向以上のものがあったと考え、涼州の先にある経済を知っているから、としました。




