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蜀侵攻

 魏の五代皇帝として曹奐が即位した。

 この年十四歳、覇気の無い、傀儡に打ってつけの少年であった。

 父親の曹宇も謙虚な人物で、曹操の子ながら、孫の二代皇帝曹叡と年が近く、親友であった。

 曹叡が死の床で後を託そうとした一人だったが、自分には大任を果たす力量は無いとして辞退した過去がある。

 皇帝となった曹奐が、父の位階を上げようとしたが、曹宇が固持し、結局国父は司馬昭という他姓の実力者の下に置かれた。

 禅譲へ至る君としては最適であろう。

 君主としての重みは無い。

 この時期、魏の最後の君主は郭太后であっただろう。

 郭太后にのみ、司馬昭も賈充も頭が上がらない。

 そして、司馬氏を討とうとする者は

「郭太后の命による」

 と掲げる事になる。


……司馬氏がそうしたのだから、他もそれに倣う。


 司馬孚は引き続き太傅として皇帝後見に当たる。

 彼は簒奪は流れから避けられないとしても、出来れば自分が生きている内は見たくない、皇帝には退位後も漢の献帝の如く生き存えて欲しいと考えていた。

 無気力な君主は、求められるままに司馬昭を叙爵し、相国・晋公に就けようとするが、司馬昭は辞退する。

 晋公の上は晋王、そうなってから禅譲である。

 既定路線ではあるが、晋公に進む前に司馬昭はもう一つ実績が欲しい。




 蜀の景耀四年(261年)、姜維と夏侯覇は三年ぶりに北伐を行う。

 夏侯覇は、成都が堕落していく様を見続けていた。

 最早蜀が魏を倒す事は無いだろう。

 だがせめて、魏を倒そうとしている男と共に戦い、そこで死のうと思った。


 姜維は異民族・羌族の支援を得るべく、長安ではなく西方に出る。

 兵力も戦費も絶対的に不足している姜維は、羌族の物・人の支援が無ければ外征自体ままならない状態なのだ。

(陳祗殿が生きていれば……)

 今や成都は姜維の敵の方が多く、張翼、廖化という将も今回の北伐を断った。

「戦は時に退く事が重要である」

 張翼はそのように言い、皇帝も朝臣たちも彼等に補佐を要望しない。

 頼りは車騎将軍・夏侯覇だけである。


 だが、魏は姜維の行動を把握していた。

 姜維が兵を休め、国力回復に努めていた時期、測量大好きな鄧艾は雍州から漢中への道という道を測量していたのだった。

 防衛戦略変更に伴う秦嶺山脈内の城砦破棄により、魏の測量士たちは易々と漢中の内部まで入り込み、地図を作る。

 石苞と同僚の貧しい身分出身の農官吏、更に吃音の鄧艾が司馬懿に見出されたのは、若い時分に任地を測量し、地図に起こしていたのを見て、その才能を理解されたからだ。

(測量は、他人と喋らなくて良いから気が楽だ)

とも思っている。


 司馬昭、鍾会の洛陽組も、司馬望、鄧艾の長安組も、蜀侵攻は近いと考えている。

 その下準備の為に地図を作り、その測量要員を斥候として置いていた為、かなりの迂回進路を通った姜維だったが、最短距離で駆け付けた鄧艾により迎撃された。


 敗れた姜維は、沓中に逃げる。

 成都の董厥や諸葛瞻によって、精兵三万の内、二万だけ指揮を許され、少数であった。

 だが、鄧艾の攻撃から大半の兵を率いて脱出出来たのは、殿軍しんがりの夏侯覇が死ぬまで戦ってくれたからである。

 魏の重臣夏侯氏の生まれで、蜀皇后の親戚でもある夏侯覇は、数奇な人生を終えた。




 鄧艾により沓中に追い込まれた姜維、それを聞いた司馬昭は軍議を開く。

 軍議では鍾会のみがやる気満々で、他は

「蜀等は後回しにし、呉を先に亡すべし」

 という意見であった。

 そこに司馬孚が意見を言う。

「文帝(曹丕)陛下は、その治世七年の内、五年を呉との戦に費やし、それでも勝てなかった。

 呉との戦は荊州が重要。

 しかし、呉王が如何に人心を失っていても、まだ荊州に陸抗、陸凱在り。

 侮るべからず」

「太傅(司馬孚)殿、であれば蜀も同じでは?」

「蜀は銅銭政策を誤り、経済が混乱し、民の心が成都から離れている。

 その上、攻め込む地図が出来上がり、敵将は鎮西将軍によって漢中を離れ、封じ込まれている。

 蜀攻めは機が熟したように見える」

 群臣が聞き入る中、司馬昭が叔父に尋ねる。

「叔父上、宜しいのですね?」

「うむ」

「もう一度尋ねます、叔父上はそれで宜しいのですね」

「くどいぞ、大将軍殿。

 もう覚悟は出来た」

 司馬家の長老はそのように言った。

 司馬一族内でも一部にしか通じぬやり取りを経て、蜀討伐が決定した。


 続いて討伐軍の都督として、鍾会が自薦し、司馬昭もそれを認めた事に異論が出る。

 辛憲英(袁紹に仕えた後に曹操に仕えた辛毗の娘)は甥の羊祜に

「鍾会は勝手に物事を判断するので、いつまでも人に仕えているような人ではないでしょう」

 と話す。

 司馬昭夫人の王元姫も

「鍾士季は利に目を向けて義を忘れ、何でも自分でやりたがる人です。

 恩寵が過ぎれば、必ずや見境をなくします。

 大任を与えてはなりません」

 と警告する。


 鍾会はつい先日、「竹林の七賢」の一人、嵆康を讒言により処刑した。

 兄が嫁と密通した為、兄を訴えようとして、逆に兄から訴えられた呂安という男を、嵆康が庇ったという理由である。

 それと、同じ「竹林の七賢」の一人、山濤が嵆康を役人に推薦したのに、嵆康が絶交状を叩きつけて断った事を「国の秩序を乱す」と罪に数えた。

 司馬昭の治世では、しばしば身内贔屓の不当な刑が見られる。

 それでも嵆康は有名人だった為に目立ち、鍾会の危険さが伝わったのだろう。

 女性がより、直感的に危険視した。


「だが、士季(鍾会)の他に、蜀攻めに賛同し、勝利を確信した者は居ない」

 司馬昭はそれを理由に鍾会を鎮西将軍に任じ、蜀侵攻の指揮を執らせた。

 鎮西将軍鄧艾は征西将軍に転じる。


 景元四年(263年)五月、蜀討伐の命令が発せられた。

 征西将軍鄧艾は、より一層姜維を攻め立てる。

 雍州刺史諸葛緒(系統は違うが、諸葛誕や諸葛亮と同じ瑯琊諸葛氏)は鄧艾を支援すべく出動する。

 その隙に鎮西将軍鍾会は、征蜀護軍の胡烈を先鋒に漢中に侵攻する。

(鍾会軍には胡烈、李輔、荀愷、龐会、田続、田章、劉欽といった部将たちが属している)

 漢中の防衛戦略変更で、秦嶺山脈や国境付近の城砦が無い為、胡烈軍は電撃的に侵攻し、楽城と漢城の部隊は籠城に入った。

 姜維は成都に救援を求めるも、当初は占いで

「蜀は勝つ」

 と言われた事を信じた劉禅が援軍を出さず。


 胡烈率いる三万が漢中各地を占領し、残るは楽城と漢城のみ。

 この状況に陥ってから、張翼、廖化、董厥が援軍として出動。

 董厥は反姜維の主要人物だが、今は政争等している場合では無い。

 蜀全軍七万の内、漢中で一万が籠城中、呉との国境白帝城と南方国境の永昌郡に五千ずつ、姜維が二万の北伐軍を持ち、残る三万が国内軍である。

 ここから一万の兵を率いての救援であり、一万は国内の諸城に分散配置、残るは諸葛亮の子の諸葛瞻に委ねられた一万が機動兵力と使えるだけである。

 蜀軍に後は無い。


 沓中の姜維も、漢中の危機を知り、現地を放棄して撤退。

 鄧艾軍三万はそれを追撃し、姜維軍に被害を与える。

 更に鄧艾は諸葛緒率いる三万の軍に、姜維の背後に回らせる。

 もしも姜維が漢中を目指していたら、諸葛緒の軍と鉢合わせになり、鄧艾軍との挟撃で壊滅しただろう。

 だが姜維は、援軍の張翼らと合流すると、漢中援軍を放棄して蜀の入り口たる剣閣に下がってしまった。

 漢城の蒋斌しょうひん(蒋琬の子)、楽城の王含は五千の兵で能く戦い、城は落ちない。

 漢中の防衛戦略変更で、他の城に食糧・物資は無く、この二城を落とさない限り魏軍は食糧を調達出来ない。

 鍾会は漢中併呑を後回しにして、剣閣に総勢十万の兵を進め、鄧艾軍、諸葛緒軍と合流し、胡烈軍と合わせて二十万の大軍となった。

 三万の姜維、張翼、廖化、董厥軍はこれを剣閣にて迎え討つ。

 剣閣を越えると、もう四川盆地。

 剣閣から江油を経て綿竹を突破されたら、もう首都の成都になる。

 蜀の正念場が始まった。

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